ムジカーザ 『第七回 上原落語会 第三部』

 あの、代々木上原の駅なかのモールを通り抜けて出る上原銀座の道を、西原の方へ下って、どんつきの坂を上がる。住んでたことあるけど、一度も上がったことのない坂だと断言できる坂の登り口に、「ムジカーザ」はある。はしゃぐ子供が何人も通るクリスマスイブだ。打ちっぱなしコンクリートの函。座席は二階もあわせて百席ちょっと、壁に設けられたスリットから薄暮の光がさし、誰がここにこういう物作ろうと思ったのかわからないけど、おしゃれなホールだ。うすく寄席太鼓が聞こえる。高座に赤い毛氈が敷かれ、紫の座布団が目の高さ。上手のめくりには黒々と寄席文字が。今日は三遊亭萬橘の落語を聞きに来た。それと吾妻光良DUOの音楽ね。

 まず、萬橘さんのお弟子さんのまん坊さんが一席勤める。『強情灸』。お灸ね、私も据えたことありますよ。説明書に熱かったらすぐはずしてくださいって書いてあるよね。「あつっ」ってなったらすぐはずす、それができないとぎゅーっとしりあがりに脳天にしみる熱さなんだよね、患部が湿ってると火傷しちゃうし、噺家さんも、一度といわず日常で据えてるとリアリティが出るのかな。まん坊さんはちゃんと据えたことがあるみたいだった。腕に盛り上げた艾が見えたもん。

 次が萬橘さんの落語。『寄合酒』っていうらしい。皆でいろんな物を持ち寄って酒を飲もうとするが、皆が皆、「与太郎よりは賢い」と思い込んでいる(ように見えた)手合いで、よってたかって乾物屋に大損させていると思ったら、実は...。という話。

 次々に仲間が来ておかしいことをいう所ではなく、世話役がせつなそうに「いらいらする、お前たちと話してると」といったり、がっくり肩を落としたりする受けの芝居が面白かった。仲間の登場が、単調なのかも。野原の味噌のくだりは、とても「小学男子」っぽく、意を決してなめるところとか迫真だけどちょっと苦手。笑っちゃうけど。背負った干鱈がちゃんとかさばって見えた。

 続いて吾妻光良さんと牧裕さんが登場。吾妻さんはリゾネーターギター、牧さんはウッドベースを抱えている。

 ギターを少し鳴らしただけで、今まで聞いたどのリゾネーターギターの音とも違う、かわいい、おもちゃのような音色、すこし乾いた軽い音がする。子供の時持っていた、プラスチックの胴に細いワイヤーを張ったギターのおもちゃの手触りを思い出した。硬く張られたワイヤーを少々押したって子供の指ではびくともせず、おもちゃはぺんぺんと高低のない音で鳴り、ひたすら指が痛い。あのおもちゃの中からプロの音が飛び出してきたみたいなのだ。ギターとウッドベースは、「G?」「G」という恐ろしく短い打ち合わせをした後、晴ればれとなる。かっこいー。Laughing In The Rhythmと、いったっけな、あっははと笑い声の入る曲。ネズミ大きい?ちいさい?中(ちゅう~。)とか、前歯が抜けちゃった子のうたとか、吾妻さんは落語にあいそうな歌をちょっと考えましたと控えめにいっていたけど、相当考えたと思う。お洒落な土臭さだ。1930年代から50年代の曲を聴くのが好きです、と、むかしのルーズベルト(大統領) イン トリニダードという曲をもじって、アベさんトリニダードに行く、という歌も歌ってくれた。「このマンゴーおいしいわね」いったいそれになんのいみがある!

 私が好きだったのは40年代終わりのヒットしなかった曲。奥さんが出て行って、「犬猫と残された俺」を歌う切ない歌なのだった。がらんとした家で、奥さんのまわす鍵のかちゃっという音が聞こえてこないかと待っている男。The Dog,The Cat,And Me だって。まず題名がいいよね。吾妻さんは俺とポチとタマ~と、うたっていた。ギターをちょっとでも失敗すると、吾妻さんは弾きながらすごく残念そうにするのだが、失敗すらもタペストリーのように音楽に織り込まれて、いい模様になってるみたいな。楽しいひと時でした。

 仲入りがあって、最後に萬橘さんの落語、酒屋の小僧が勘定を取りに来たと思ったおばあさんが、顔を伏せたまま、夫が生きていたころはこんなじゃなかったとかこちながら言い返す。ここがもの凄い写実。「貧(ひん)」の写実だ。水彩の筆で一点グレーに影を入れただけなのに、全体の話が大きく深くなる。ばあさんの着物の、肩のあたりのつぎはぎや、撚れて縄のようになった帯など、見える気がした。ばあさんの娘お鶴が殿様のお目に留まり、屋敷で妾奉公することになる。お鶴はめでたくお世継ぎを産み、お鶴の兄の八五郎がお屋敷に参上する。八五郎と大家さん、八五郎と屋敷の人たちのやり取りで笑わせるが、リアルがも一つ入ってる。お鶴につらいならおれが連れて帰ってやるというくだり。目が真剣(マジ)。一瞬、きらっと刃物を抜きかけたみたいで、笑いと、貧の辛さが、裏表に見えるのだった。これ、「妾馬」めかうまって話だってね。題名だけなら知っていた。大事にされてる話だってことも。(これがめかうまかー。)水の実体と名前がやっと一致したヘレン・ケラーみたいに感心する。笑いと悲しさが一体化しているんだね。萬橘さんが、とっても真面目な噺家さんに見え、それが残念なような、すごくよかったような、妾馬みたいに裏表で全然景色が違ってくる心持で、家に帰った。

シアターコクーン 『シブヤから遠く離れて』

 古い洋館。中央の棟に三角の屋根がつき、それがエメラルド・グリーンに見え、氷の宮殿――すきとおっているもの――を考える。上手の外階段を上ると2階の張り出しバルコニーに通じ、円いバルコニーをぐるっと緑の葉を出した鉢植えが囲んでいる。舞台手前に、美しい寄せ植えの花壇。いったいこの花はいつの季節の花なのか。

 客電が落ちシブヤ的ビートの音楽、雑踏、風。客席と舞台をつなぐ階段が薄明るくなり、舞台いっぱいにススキが揺れている。洋館の棟の三つの壁が、生と死の間の薄明に観客を囲繞する。

 かつてこの洋館に住んでいた友人ケンイチ(鈴木勝大)を訪ねてやってきた若者ナオヤ(村上虹郎)。だが、その屋敷は今や朽ちつつあり、その一室に美しい女マリー(小泉今日子)が隠れている。

 時が凍ってる。屋敷のことをこう考えると、全ての出来事、仕草、表情が、一つずつ別々にトレーシングペーパーに精密に写され、分厚い束になっているようなこの芝居の全体が見えてくる。大人になりたくないナオヤ。朽ちつつあるマリー。登場するフクダ(高橋映美子)、マリー、トシミ(南乃彩希)が齢を重ねる一人の女のようで、ナオヤやフナキ(豊原功補)、アオヤギ(橋本じゅん)、アオヤギの父(たかお鷹)までも、一人の少年であるような気がした。しかし、そんなことはいい。この芝居は素晴らしく面白い。ここにはどこにも現れない愛が描かれている。それは永遠の愛なのか。フクダとフナキ、フナキとマリー、トシミとナオヤ、それぞれのまなざしが「ない」愛を変奏する。それはまるで水晶玉の中の白いキズに似て、しんと静まり、触れることができない。にもかかわらず、「ない」愛は確かな実感を持って観客に迫ってくる。例えば水晶が、手の中でいつまでも冷たいように。

 橋本じゅん、指先までみっちり芝居が詰まっている。ときどき、体にスポンジみたく場の空気を通した方が、「みっちり感」が引き立つと思う。村上虹郎、がんばっているが、カーテンコールの後姿まで、客は観ていることを忘れずにね。

さいたまスーパーアリーナ 『一万人のゴールド・シアター2016』 

 ながいながい食卓(2列に、8つ)。食卓の上には、りんご、のような赤い丸いものが見える。中央に並んだ食卓を挟んで、片側の隅には簡素な白いベッドが5台、5台、4台と置かれ、反対側には黄色、赤、緑、青、ピンクの大きなパネル状のものが床に敷かれている。リハビリ用の手すりもある。すべてが小さく、豆の様にしか見えない。

 スタジアムの向かい側の観客席に、出演者が座っている。1600人。白い服の上にとりどりの明るい派手なものを着ている組、真っ白の組(少し赤)、黒の組に分かれている。遠目にも、あんまり動かない。こちんとしている。緊張しているんだ。と、出演者の人々が突然、かわいく思えてくるのだった。

 5分前、一人の男が、ゆっくり食卓の真ん中に座る。それから、観客席の人々が、スタジアムに出てくる。散らばっていくように指示が出てるんだなー。ちゃんと、演劇的。散らばり方がきれい。輪になって、ビーチボールでバレーをする人たち、紙芝居を観る人たち、パネルと見えたのは実は大きなカラーの模造紙で、それを畳んでカブトやツルやヒコーキが出来上がる。青い巨大なヒコーキをかざし持つ8人の人が、スタジアムを練り歩く。手拍子が聞こえ、笑い声がする。車椅子が30台以上、押されて登場する。リハビリの手すりを伝う人たち。こちらでは真剣な「だるまさんころんだ」がはじまった。これらはブリューゲルの「子供の遊戯」の老人版にも見え、演出にヒエロニムス・ボスを使った蜷川幸雄へのノゾエ版オマージュ、アンサーソングにも見える。がんばったね。もうここで涙。おもむろにスポットが当たって、数人の出演者が夢を語り始める。夫が認知症になりました。今日はディサービスで昼夜いないからゆっくり帰れます。(小さな微笑み)私の夢は夫を箱根の温泉に連れてゆくことです。シンプルで飾らない。こうした現実的な夢の中に、ロミオとジュリエットが忍び込む。全員を巻き込んで、芝居が始まっているのだ。白い服と黒い服が、会場にあふれ、白と黒に分かれる。「わたしはこどもにさきだたれました。」

 出演者がロミオのセリフを喋り、ジュリエットの恋心を語るとき、誰でもが一度は若く、ロミオであり、ジュリエットであり、又はロミオではなかったロミオで、ジュリエットになれなかったジュリエットなのだと思うのだった。それぞれの声に応じて、それにあったセリフが割り振られているような気がした。美しいビーズの光る着物を着たこまどり姉妹が、恋を唄う。物語は愛に収れんしていく。アマチュアだけど、もたもたする人などいないし、動きもピリッとしている。1600人が作り出す白と黒の渦。愛の中の死に向けて、全員の緊張が高まる。ボレロ

 好きになったら一にも二にも押して通すが勝負だよ。そのような恋と悲劇だったロミオとジュリエット、この違和感とフィット感が芝居を一段格上げしていたと思う。出演者の習練もたいへんだっただろうが、きっかけ等、本番のスムーズな進行も素晴らしかった。

シス・カンパニー公演 『エノケソ一代記』

 「本物のニセモノになりたい」

 なんだろ、その情熱。たまにネットで、女友達のネックレス、バッグ、服、車、家、夫選びまで真似をして、友人にこわい思いをさせている女の人を見かけるけど、あれだろか。遠浅の海で、平和に遊んでいたのに、突然足を取られ、背が立たなくなって水を飲む。急にくるホラー。

 『エノケソ一代記』も、エノケンが好きすぎて、好きなあまりに笑えることが次々に起こる話かと思ったら、途中でこわくなる。真剣すぎるエノケソ(市川猿之助)は、おかしくて、こわいのである。ホラーとコメディは紙一重だ。そのこわさを隣で、何でもなさそうにけしかける座付作者の蟇田(浅野和之)はメフィストみたいだが、ほんとのこわさは二人のやり取りの熱狂の中から生まれてくる。そこが見えない。この芝居の、急に深くなるポイントがわからない。いつの間にかそういうことになっていましたというのでは、遠浅の海が続いているようでちょっと残念だ。エノケソは、やりたくないなと思っている。だが一方で、一瞬でも、(やろっ)と思うはずだ。その踏ん切りを、見せてくれてもいいんじゃないかなあ。コメディからホラーに変わる皮膜一枚が、あいまい。コメディが重いような、ホラーが浅いような感じがしちゃう。

 最後のエノケソには名前がない。そこんところが一番怖かった。熱狂の余り、名前も取り落としたんだと思ったのである。ニセモノと本物はややこしい。エノケソはあくまで「真似」で、本物以上にはなれない。取って代わることもできなければ独立することもない。その悲哀。しかしお盆をカンカン帽に持ち替えて踊るエノケソは明るくて、のんきで、すてきだった。幕切れは今までの展開が夢のように思える魔法のリカバリーである。

月影番外地その5 『どどめ雪』

 縁の下の濃い闇、押入れの濃い闇、透かし見ればそこには、打ち棄てられたピンクの赤ちゃんだるまや、「朝鮮戦争緊急配備」と書かれた古い新聞紙が隠れている。

鶴子(峯村リエ)、幸子(高田聖子)、雪子(内田慈)、妙子(藤田記子)の4姉妹は、古びた日本家屋に一緒に住んでいるのだが、それぞれが自分の存在に「うしろめたさ」をもち、ここで自分自身から「隠れている」ように見える。その激しい緊張感。幸子の夫貞之助(利重剛)はショッピングモールの警備責任者だったが、家に石を投げられ、仕事をやめざるを得ない。こうした家族の不断の緊張に、妙子の過去が大きくかかわっていることがわかってくる。

 全編がアフォリズムのような気の利いたやり取りに満ちていて、一本の芝居が、こんなに機知に富んでいることに少し驚く。作者の造語を中盤大声で叫ぶあたりで、わらった。家族全員で物も言わずに家庭メニューを食べているシーンが素晴らしい。慣れた手つき。確信ありげに手から手へ移動するお玉。音。匂い。誰もおいしいなんて思っちゃいないといわれて、雪子の恋人和夫(田村健太郎)が「誰も?」と驚くと、幸子をはじめ家族が皆複雑な、得も言われぬ表情を浮かべるのである。田村健太郎の芝居に、好感をもった。

 しかし、明らかになる妙子の秘密がリアリティをもちづらい記号化したもので、「うしろめたさ」と「重さ」を感じにくく、構図がうまく働かない。雪子が妙子に怒りをぶつけるシーンも、紋切型なので芝居に工夫が必要だ。

 セリフとセリフの隙間に、俳優たちは微妙な表情になる。そこがとても面白く、味わい深い。

 そして微妙な終幕。思いがずれていく微妙さ、それを役者が精細に演じて、軽やかに成立させている。

福岡サンパレス 『中村勘九郎中村七之助錦秋特別公演2016』

舞台に楽屋の拵え。あ、これからこの楽屋に役者さんが素で入ってくるのだ。とおもってうれしくてわらっちゃう。いいよね、こういう歌舞伎の解説。中村勘九郎七之助が司会だ。楽屋のちょうど中央に扇風機が置かれ、上手側に赤の四角い枠、下手に黒の枠が見える。この枠の前で座ってお化粧して見せるんだな。枠は鏡台の鏡のことなんだ。

紫の楽屋のれんに、中村鶴松と抜いてある。白い鶴が群れ飛んでいるところをくぐって、俳優が二人登場。一人は中村いてう(いちょう)、グレーの細身のニットにサングラス、もう一人が中村鶴松、黒の上下に白のストライプが一本入って見える服。今日びのかっこいい若い人たちだね。急いで浴衣に着替え始める。浴衣には(カメラでアップ)、たてよこ3本のチェックの中に、「中」と「ら」の字がある。筋が6本できるので、そこんとこを「む」というらしい。中村格子といいます。勘九郎七之助もはきはき説明し、面白いことを上手に言い、観客をそらさない。髭をあたった化粧前の二人ははやくも何か顔に塗り始める。それは「いしねり」(石練り)ってもの、びんつけ油の一番固いもので、これで眉をつぶして肌にくっつけるのだそうだ。毎回眉毛がとれちゃうくらい痛くて、眉を剃ってしまう人もいるらしい。手をこすってびんつけで顔も塗る。水おしろいの下地で、きちんとやっておかないとおしろいがむらになってしまう。ここで女形の鶴松さんに手伝いの人が来た。うなじの方までお化粧しなくちゃならないからね。鼻が高く見えるように、鼻筋にハイライト。水おしろいは襟から。ぽんぽんはたいてその上におしろいが白く塗られる。手早すぎて追いつけない。いてう丈がもう隈を入れている。鼻筋のわきと、目の下から眉尻に向けてあがっていく紅い隈(むきみ隈)。赤い人は正義の人、茶色の人は妖怪、青は悪人です。わかりやすいでしょ?はい。わかりやすいです。と言ってる間にもささっと赤い隈を少しぼかしている。鶴松丈はまゆをかいてる。女形はささまゆと呼ばれる眉が多いが、今日は「はねまゆ」。つよい女の人の役だからだって。アイライン、めはりは赤、年を取ると紫。役柄性格年齢で違う。顔ができた。浴衣を脱いでひざと足首をひもで縛る白い下着、その上に紅い、おなじように縛るものを身に着けている。女形は帯が高くなるほど若い。着肉という物を着るところ、帯が落ちてこないようにする肉襦袢のことだ、いろいろ着こんで大変だ。

着付けの間に附打さんが附けを打ったりしてくれる。二つ打つ間に小さい音がうっすら入り、これを中村屋の附けだといっていた。「カスミが入る」っていうんだって。この附けの紹介の前にも、風の音や波の音や滝の音を太鼓(長い撥)で打つところを見せてくれたのだが、二つのことを同時にできない自分(歩きながらジュースが飲めない)にとって、二重に進行する歌舞伎塾は退屈しないけどとても忙しい。はっ鬘をつける段取りになっちゃった。鬘の裏側は銅板がきらっとして、重そう。

鶴松丈は3人がかりで紫(蘇芳)の着物を着ているところ、「張り棒」ってもので、袖を四角く大きく見せる。いてう丈は黒い綿入れ、曾我五郎だから蝶の模様と決まっている。

と、言ってる間に役者が劇中で担当する効果音のレクチャーが始まる。なんか、どれもむずかしそう。会場の質問交えてきっちり一時間だった。おみごと。

『正札附根元曾我』今着付けを終えた曾我五郎(中村いてう)、舞鶴中村鶴松)が、鎧のしころを引き合う踊り。二階正面から見ると二人の俳優がお人形さんのように小さく、きれい。白塗りの顔、赤い隈の下の、きれいな血のことを思うのだった。膝の前に揃う鳴り物の人々の手。それから鼓を取り上げる。

今にも駆け出しそうな五郎の足、舞鶴の髪につけた力紙が、びっくりするほど大きい。足拍子の掛け合いをして、しころを引き合う。音曲にあわせて視線をそろえて動かすところが、胸がすくようだ。上手、中央、上手。ツヅミはぽんぽん、オオカワはかっこ、決めつけていたんではわからない、なんか、胸の底を断ち割るような音。すっきりした。

『汐汲』 花道がないのが、もー、ざんねん。ひときわ明るく照らされて、七之助が登場。金色の烏帽子に草色の狩衣を半分身体にかけている。思う人の残したものを身に着けている鄙の女ってわけだ。静かに登場して下手(しもて)で汐汲み桶をかついだまま踊る。波のようにしなうからだ。すごいなあ。常々、踊りわからないっていってるけれど、この汐汲みの踊りって、はっきりわかられちゃったら終わりのような気がした。気取られる、察せられるくらいが大事で、それが品に通じているような。汐を汲んだ右の桶がずぅんと重くなるのが、わかっちゃったらだめで、心にふわっと感じられるのが重要なのかも。七之助の桶はかすかに重くなり、桶に通した棒も見えないくらいに扱いにくくなる。踊っているうちに狩衣の下の赤い袖が燃え立つように感じられ、際立ってくる。手ぬぐい、傘(三段重ねでとてもかわいい)、扇子をつかって、気品ある女ごころが演じられていたんだと思う。

『女伊達』熊子じゃん!と男伊達の土橋慶一の名前を見て、『阿弖流為』を思い出すのであった。なつかしい。こうして人は歌舞伎に嵌っていくんだねぇ。もう一人の男伊達は中村仲助。木崎のお仲(中村勘九郎)に、二人がかりで、乙に絡みやす。黒い着物に白い梅が飛び、裏は紫、献上博多の帯を締めている。勘九郎って二回しか見たことがなく、一回は野田マップで「おさーとー」と叫んでいたし、踊りを見たのも随分前だけど、その時は体のキレとか勘の良さでてきぱき踊るひとだなとおもったのだが(踊りわからないくせに…)、『女伊達』では「おはなしのなかのひと」になっていた。どうしてだかわからないが、お仲が真田丸のきりちゃんみたいな女の人に見え、尺八を男伊達とひっぱりあって踊る、そのときのひらひらと揃った手がうつくしく、目に残った。

博多座 『十一月花形歌舞伎 石川五右衛門』

緞帳が上がると、三色の定式幕(じょうしきまく)が、ふんわりと風を吸って、風を吐く。生き物のような幕の動きをながめているうちに、いつのまにかそれが静まり、ぴったりと平らになる。するするというには少し重い音がして、はじまるよ!幕が開いた!

 真ん中にとても大きな釜がカキワリで据えてあり、それが二つに割れて、中から石川五右衛門を名乗る男。実は、五右衛門の一の子分、足柄の金蔵(市川猿弥)だ。何度も五右衛門の名乗りを上げる。他の子分、三上の百助(市川弘太郎)、堅田の小雀(大谷廣松)も現れる。金蔵口跡がいいなー。これ、オープニングじゃなくてプロローグだった。「茶利場」ってやつかな。コントの場面のことね。さっ、ここからがオープニングだ、書いていいかわからないけど(書いちゃうけど)刀で戦う男たちの影が、現代的な三味線(エレキギターの演奏みたい)に乗ってスクリーンに映し出される。真ん中にひときわ大きく現れる姿勢を低くした男の影、それに添うように頭上に大きく「石川五右衛門」とタイトルが出る。プロジェクション・マッピング?とっても現代演劇風、次は伊賀山中の場、場面が変わるたびにびっくりマークをつけたくなる。話が早くて転換が鮮やか。遅くなったり早くなったりする立ち回り、五右衛門(市川海老蔵)は秘伝の巻物を受け取って伊賀の里を後にする。巻物がはらりと舞台に一筋、黒い川が流れるみたいだった。巻物を持つ五右衛門の顔もキッとしていてかっこいいのだが、追いきれないくらいに早くて盛りだくさん。舞台一面が雲の模様の幕になり(ここも雲の模様の「幕!」とびっくりマークをつけたい)それが落ちると大坂城天守の屋根の場になっているのだ。五右衛門は大坂城金のしゃちほこを奪う、人の背丈ほどもあるしゃちほこを重そうに、そして軽々と頭の上に差し上げる。この場面、五右衛門の通説の釜茹でのこわい話を少し思い出す。海老蔵が見得を切ると凄くてかっこよくて、文字通り胸が躍る。強く目を剥いて口を開けて、こわい顔なのにすてきだ。海内無双、という言葉が頭に浮かぶ。こんなに書いてもまだ序盤、お姫様も敵も登場していないんだなー。

 お姫様は秀吉の側室お茶々(片岡孝太郎)だ。大きな桜に爛漫と花の咲くころ、庭先で出合った五右衛門と恋に落ちる。海老蔵の描く男の恋は面白い。常に二色。そんなに気にしてないよという顔と、やさしい少年のような真心が、互いを引き立てあっているのである。たこに乗って去るところもとてもさりげない。去り難そうな姿を見せない。あ、行かなきゃって感じなのだが、そのせいでお茶々の上に降らせる花吹雪が、気品ある愛情、五右衛門の心の中の真情を伝えてくる。何でもなさそうに空から花びらを降らせる五右衛門。花びらの中の茶々が、幸せそうに見えるのだった。

 お茶々の方は五右衛門の子を宿す。形見に置いていった煙管を胸に、思いに沈むお茶々。突然の秀吉(市川右近)の訪問に慌て、せっぱつまって煙管を凄く解りやすい所に隠してしまう。だめじゃん。案の定秀吉に発見され、五右衛門と秀吉の因縁が明らかになる。

 五右衛門と秀吉が立ち別れるところ、「さらば」の心事が今ひとつわからなかった自分。悔しいのかさびしいのか名残惜しいのか。複雑すぎた。でも、もう会えないかもしれない二人のさらばの掛け合いが素敵で、聴き入った。座敷が消え、楼門がせり上がる。五右衛門の有名なシーンだ。絶景かなと海老蔵のスモーキーな声がすると、辺りの春霞の景色が見える。桜。春。青い。出自を知ってすっきりしたんだね。

 なんとお茶々は満州臥龍城城主ワンハン(中村獅童)にさらわれる。ワンハンは家族に疎まれて世継ぎとなれず、これを恨んで弟(大友廣松)と父(市川新蔵)を殺し、女しか信用しない。家臣の櫻嵐女(市川笑三郎)の刀やその領布がかっこいい。見入っちゃう。お茶々が肩で息をしていて、とても動揺しているのに、無言なのが偉い。

 この後、場面は変わって、京島原の曲芸一座。五右衛門は傘を次々に取り出す曲芸をする白波夜左衛門に身を変えているが、追手に追われる。五右衛門の分身がたくさん出てきて観客も混乱。すると、何と言ったらいいのか、舞台装置が、「溶ける」。突然、スモークの中から朝鮮海峡を渡る船があらわれるのだ。「分身!」「スモーク!」「溶ける!」「船!」くらいなインパクトと早さだ。

 ここで五右衛門と手下たちを伊賀の里の霧隠才蔵市川九團次)が加勢してくれることになった。才蔵はヌルハチという異国人からかたき討ちの征龍刀を託されており、ともにワンハンを斃そうとする。しかし、海上で待ち受けたワンハン一味によって、一行は散り散りになってしまう。五右衛門は異国の浜に一人征龍刀と残される。ちょっと辛くなった五右衛門だったが、気力を取り戻し、現れた黒竜と戦うのであった。この黒龍との戦いが、(どうして)とか思う暇もなく、たとえば、ピアノの難曲の激しいパッセージを、一息で弾ききるような立ち回り。踊り狂う龍を捉え、きらきら光る征龍刀で退治するまで、息がつけない。龍を打ち取って見得を切りながらひっこむところがまた、荒々しく迅い。

 ワンハンと五右衛門の一騎打ち、かっこいいが、ワンハンの心の描写が不足。ここ弱い。孤独の心がわからないと、ワンハンの行為が、うすく見えちゃう。これだけ意匠をこらしたのに、話も薄くなる。ギャグ(茶利?)のところもがんばってほしいです。

 大団円、ねぶたや津軽三味線や民の踊りや、力のこもった本物の芸能を、すべてひっくるめてしゃちほこのように、重そうに軽そうに五右衛門が持ち上げた気がした。舞台の上の森羅万象に、海老蔵のスモーキーな笑い声が響く。