Bunkamuraシアターコクーン 『世界』

 スナックのミラーボールに、かすかに光。小さい小さい粉雪ほどの光が一つ見える。それは世界に穿った穴みたいだ。

 スナックや、ラブホテルや、台所や、下宿、舞台はさまざまな貌を見せながらくるくる回る。早く回る。その頭上に歩道橋があり、寒そうに登場人物が行きかい、又は立ち止まり、ぼんやり煙草をふかしていたりする。

 これといった出来事は起こらない。町工場を営む一家の父(風間杜夫)と母(梅沢昌代)が離婚しようとしている。止めたい思いの息子(大倉孝二)はスナックのママ(鈴木砂羽)と浮気している。すばやく景色を替えながら、物語は淡々と進む。しかし、どの人物の芝居をとっても、なんだかクローズアップで見ているように心の裡がわかり、歩く姿にはそれぞれの人生の重さがある。大げさでも控えめでもない芝居「そのもの」が提示され、役者はみな役柄「そのもの」に見えた。そこから覗く諦念や哀しみ、変えられない性(さが)を、私もまた歩道橋から、煙草を吸いながら寒く眺めたような気さえする。

 風間杜夫のどうしても自分のことしか考えられない父、離婚を止めるよう息子に言われて、何か身を固くする梅沢昌代、軽薄そうなのになぜか抱擁シーンが胸を打つ早乙女太一、ぶっきらぼうな大倉孝二とのどこにも行きつけない愛を持て余す鈴木砂羽、明るくしている控えめな妻青木さやか(冷蔵庫に寄り掛かっての腕組みシーン段取りにならないようにね)。ケロッとしているようで自分に耐えている娘の広瀬アリス、散々な役回りの高知の青年和田正人(スーパーのシーンでは、自棄の感じがもすこしあってもいい)。ここに挙げない人も皆好演である。ていうか空席がもはや絶対許せないレベルの芝居だったのでした。

劇団東京乾電池公演 『やってきたゴドー』

 『やってきたゴドー』、初演は2007年、戯曲は2010年9月論創社刊。読み終わっての感想は、電信柱とベンチとバス停のある砂の惑星に、ウラジーミルとエストラゴンがいて、そこへ、隕石みたいに「バスを待つ女」や「乳母車の女」や「受付の二人」が、フォルムとして突き刺さって来るって感じだ。フォルムのひとつひとつが、それぞれの宇宙を持ってる。ものすごく広くて、ものすごくねじれてて、ものすごくおかしい。

 開演前、今日の舞台を一目見るなり、少し笑った。私の中では静謐なイメージの電信柱とベンチとバス停が、皆近い。別役の静けさに持ち込むこの近さ。そして(明るくなるとわかるのだが)饒舌。下手寄りにやや迷いながら立っているように見える電信柱には、質屋や内職の広告や女の裸のビラが貼ってある。ベンチは少しデザインが入っているしバス停には「宮下一丁目」ときっちり記されている。ちびた塗下駄をはいて現れる女1(麻生絵里子)は買い物かごを提げている。昭和三十年代だー。昭和風に言うと、この芝居はひとつづりのバスの回数券みたいだ。全てのフォルムが、押しくらまんじゅうでつながっている。ウラジーミル(伊東潤)とエストラゴン(有山尚宏)は終始怒鳴りあっていて、何度ゴドー(戸辺俊介)が名乗っても見逃してしまう。腑に落ちないために、いつまでも出会えない人々。赤ん坊を連れて、その父親を探している女4(宮田早苗)。息子からの手紙を買い物かごに忍ばせて、息子の訪れを待っていたという女1。東京乾電池の女の役者たちは、「その場にいる」ということがきちんとできていて、地に足がつかない感じのエストラゴンたちとは違う。それは演出だとおもうけど、セリフのどたばたに、もすこし洗練が欲しい。時刻表を見る麻生絵里子の、集中した静かな感じは、とてもリアルで、洗練されているよ。

パルコプロデュース 『キャバレー』

 長澤まさみ、美しい。美しくてびっくりだ。自分が美しいとも知らず、無心に咲いてる花のようなのだ。体全体から、本人も予期しないような優美さが漂っている。こないだまで「きりちゃん」で、日本中のツイッターが「きりちゃんよかったむくわれて」と沸き返ったばっかりなのに、今日はこうして、白い肩を私たちに見せて、歌い、かつ踊っているのである。たくさんのナンバーを歌うが、どれも歌えていて、踊りもできてて、無邪気な感じがする。でもさー、このミュージカル、一番大事なのは「キャバレー」というナンバーじゃないの。「キャバレー」さえ花火のように爆発してくれれば、あとのナンバーは少々とちったって、構わないくらいだ。他は「ため」で「助走」だと思う。がんばろう。

 「花のような無心」を保存したいような気もするけど、美しさを、骨の一本一本まで、尺骨茎状突起から、末節骨まで、「見せる」って気持ちが大切です。

 長澤まさみが演じるのは、ベルリンのキャバレー「キットカットクラブ」の歌手サリー・ボウルズ。アメリカ人の小説家志望の青年クリフォード・ブラッドショー小池徹平)と恋をする。クリフォードの家主のミス・シュナイダー(秋山菜津子)は間借人の果物屋ミスター・シュルツ(小松和重)と仲良くなる。しかし時局はナチスの政権前夜、その薄暗い不気味さが、次第に人々を浸していく。

 ナチスの登場は、衝撃というより既視感のようなものを感じさせ、ファシズム下で人は、別人になるのではなく、ほんの少し温度が変わるのだと思い、その微妙さがとても恐ろしい。小池徹平の「ぱっとした」という歌いだしがきれいで素敵で、石丸幹二の「どうせ拾った恋でしょう」というフレーズがとても耳に残った。サックスちょこっと歌わせすぎだよ。

Bunkamuraザ・ミュージアム 『マリメッコ展 デザイン、ファブリック、ライフスタイル』

 フィンランド。人と人とが、3メートルくらいいつも離れて歩いてる。人が少ないのだ。おしゃれなちっちゃいブローチとかつけてても、だあれも気づかないよ。お互い離れてるもん。この距離が、マリメッコを産んだと思ってた。ハーイ、私はここよ。フレンドリーな、明るい呼びかけ。

 会場に入ると、フィンランドの映像、赤いしなやかな茎に青々と茂る葉っぱ、湖、湖面にちらつく光、テンペリアウキオ教会、港、人々、子どもたち。

 そして、大きな芥子の花をモチーフにした「ウニッコ」がまず目に入る。マリメッコで布を買うと、たいていウニッコのプリントされた袋に入れてくれる。ブランドを代表する、明るく、強い柄だ。重ねられた赤、ピンクの真ん中に、目のような花の黒い芯がある。

 そのとなりに「イソトキヴェット」《大きな石》1959年。白地に、ハサミでラフに切り取ったようなごつごつした大きな黒い円。円の一つの丈で少し短いスカートくらいにはなりそう。模様が大きいということが胸を打つ。というか胸を撃ち抜かれたよ。寒く縮こまっていた体を広げてくれるような大胆な柄なのだ。自分で見積もる自分のキャパ、自分の心の大きさを、はるかに超えてくる。これ、たぶん、フェミニズムとかを抜きにして語れないんじゃないだろうか。自分を安く見積もるなと言われているようだ。わたしのこころはこんなに大きい。

(私はここよ)

 かすかな叫びのようなものが、ここにはあって、そしてそれはあくまでもマリメッコ(マリちゃんの服)、マリの声なのだ。そう思って会場を見渡すと、そこは女の人が心から出す朗らかな声であふれているように感じられる。

 かもめの姿はなくても、かもめの揺られる波や、かもめの翼を思わせる白黒の大きな波模様の「ロッキ」、胸に白夜の太陽のようなレモン色の丸と、それを囲む小さな黒地に白の水玉がシックなドレス、「キヴィ」、日本で大人気の小花のブーケ柄「プケッティ」。

 ともすれば大事にされず、隠してしまいがちなもの、しっかり生きてきた女性の、有名無名を問わない偉(おお)きさみたいなものが、ここでなら表現できる気がした。それを個性というのだろうか。

 マリメッコの生地は、平台型の回転プリンターでプリントされ、蒸して染料を定着し、熱湯で洗浄される。工程をチェックする人やショップの人がビデオに映り、皆本当にさりげなくマリメッコを着こなしていた。とくに、緑のキノコシャツ着ていた人、何でもなさそうに、気負いなく着てたなあ。

 老年になっても、マリメッコを着ようと思う気概こそ、「マリ」なんだなあと思って会場を後にしたのだった。

地人会新社第6回公演 『豚小屋』

  母が心を込めて作ってくれた真っ赤なスリッパと、忠誠を誓わせる鎌と槌の赤い小旗、その間で引き裂かれてしまった脱走兵パーヴェル(北村有起哉)が、豚小屋に41年間隠れ潜む物語。ではないんだな。だって原題が、「豚小屋」じゃないんだもん。「A PLACE WITH THE PIGS」なのだった。

 芝居は、すでに10年間小屋に隠れているパーヴェルが、村の記念集会に出て演説し、脱走の罪の許しを乞おうとしているところから始まる。そこはあばら屋にも見える豚小屋。隙間だらけの羽目板の壁の、上手側から光線がさしこみ、下手の壁、舞台奥の入り口、ゆがんだおんぼろの柱に細くあたる。床一面に落ちる藁。上手側と下手側に、家畜がこいが一つずつ。許される見込みの薄さに、パーヴェルは尻込みし、また豚とともに寝起きする辛く無聊な日々に戻っていく。信仰篤い妻プラスコーヴィア(田畑智子)は夫の隠れ家生活を助け、パーヴェルの愚痴や癇癪を辛抱しながら日常の暮らしを回している。

 始終鳴いて臭う豚への苛立ち、豚のように暮らす生活ともいえない生活に煮立つ絶望、パーヴェルの居場所は地獄だ、プラスコーヴィアは生きている人は地獄に行けないというけれど。脱走は、国家に叛いた罪よりも重く苦しいものに見えてくる。動かし難いすぐに来る死。原罪のような。パーヴェルはそれを背負い、自らに命令することで彼の居場所は変わる。「内なる神」が現れる。終幕、背を向けてぼんやりと座るパーヴェルとプラスコーヴィアは、まるでゴドーを待つウラジーミルとエストラゴンのようだった。プラスコーヴィア、もっと実際的に「はいはい」「そうはいってもさー」と思ってていいのじゃないか。幅が欲しいです。カーテンコールで手をつないで消えて行ったとき、泣きそうになりました。

柿喰う客 『虚仮威』

 身体能力が高くて、手足や表現にインテリジェンスがあって、歯切れがいい劇団。思えばそんな劇団、いくつも見てきたのである。観劇の時系列。広げた指先、やすやすと装置をのぼる足、いっせいに撚れる躰、それは観客である私の過去の「若さ」ともつながっている。

 連続性。過去の様々な演劇とつながり、老―若という形でカラダもつながって、それは驚くほどのグラデーションだ。柿喰う客の『虚仮威』は、時間や時代、セクシュアリティを「連続するもの」として考える芝居だったと思う。

 深夜二時。「彼女」(七味まゆ味)に「すぐにあいたい」と呼び出された「僕」(牧田哲也)は「彼女」の家に向かう。「僕」には小さな娘がいて、プレゼントを待っている。帰りを急ぐ「僕」に対して「彼女」は、東北の寒村の、ある地主の家の物語を語り始める。それは大正時代、ひいおじいちゃんたちの物語だ。ここでもうすでに、血脈として連続性が登場している。作中では河童と人の婚姻や、山の神が次第に力を失っていく顛末が出てくる。河童は人の果てにある者としてえがかれ、山の神の衰微は「対立軸の登場」とのつながりの中で現れる。特筆すべきは男―女のセクシュアリティが対でなく、揺れる連続としてカラダを通して具現化することだ。ネタバレしないようにむずかしくいってます。ここ、とってもスリリング。そして独自。おもしろかった。天皇崩御の知らせを受け、畏まる身体にも、連続性を感じ、少し怖い。

 閉じるフタの「ザクッ」という音(私が勝手に頭の中で聴いただけ)で、一旦全てが切断されるというかっこいい作りになっているのに、現代パートのそこが、何だか薄手で、「ぶれた」という印象で終わるのが惜しい。

アップリンク 『淵に立つ』

 カッチカッチカッチカッチ

 映画館を出ても、メトロノームが追いかけてくる。刻まれた音が自分の歩きとシンクロして、シブヤの外れの舗装道路を、崖に変える。波打ち際に変える。赤い鉄橋に変える。

 こわい!

 こわい映画だったのである、最初の朝ごはんのシーンから。お父さんの鈴岡(古舘寛治)が、家族の話にまるで加わらない。娘の蛍(篠川桃音)とお母さんの章江(筒井真理子)は、母親を食べてしまう赤ちゃん蜘蛛の話をしている。ここんちは家族が成り立ってないじゃん。そこへ、鈴岡の昔の友人八坂(浅野忠信)が訪ねてくる。家の内側から工場の外の方に立つ八坂を撮っている場面は、綱が天井から首つり縄みたいに垂れていて、ここも怖いのであった。八坂は鈴岡の工場で働くことになり、家の一室に住み込む。ハンサムで親切で清潔(白いワイシャツに黒のパンツ、ちょっと怖さがわかりやすい)な八坂を、章江と蛍は受け入れていく。この受入れの感じが、乾いた水中花が水を含んで開くようだとよかったのに。

 八坂と鈴岡は大きな秘密を共有しており、八坂は家族を激しく傷つけて行方をくらます。

 この世の中で「私は一番弱いもの」であると名乗るのはとっても難しい。弱いものが実は誰かをしいたげていたり、欺いていたりすることはありふれていて、強者弱者はあざなえる縄のようになっているからだ。それがここでは鮮やかに語られる。

 メトロノームの音は映画の中のいろんな場所を経由して、今私の足元に来てるのだ。自分の中のつよい人と弱い人、正義と不正義、仇と仇持ちを見定めるように、たどるように、よろよろと歩くのでした。