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M&Oplays produce 『皆、シンデレラがやりたい。』

 価値の転倒。まず、こうした表現が、誰にも潰されずに出てきたことを寿ぎたい。終演後、カーテンコールを待たずに、苦い顔をして出てゆく人(男性)の中に、自分にとっての抑圧の具体像を、「見た。」という感慨に打たれた。

 もちろん自分は旧態依然とした体制の内側で、保護され保障された存在であり、「男に使う金、自分で」稼ぎたいと言い放つ由依(根本宗子)とは遠く隔たっている。しかし、金で女の人たちをいいようにしてきた世の中から一歩出て、金で男の人をいいようにして何が悪いか。逆のことが舞台で起きると、男の人はあんなにも怒るのである。それってびっくり。世間知らずでごめんね。

 そこで思い出すのがジョン・ル・カレのスパイ小説なのだった。イギリスの諜報機関が、ソビエトの諜報機関としのぎを削る。大義を掲げてどちらも頑張るわけだが、読めば読むほど大義が相対的に見えてくる。この芝居にも、相対的なところが欲しい。男が金で買ってたからって、おんなじことするのか―。っていうがっかりと、最後の報いもちょっとがっかり。面白いし、十二分に成り立っているけど、「まだそこ?」という気持ちだ。

 芝居はワンシチュエーション、地下のスナック(ふかふかの赤いソファ、うすいアプリコット色の壁、派手な柄の絨毯)で進行する。アイドルりっくんの熱狂的なファンとして知り合った三人の中年女性(高田聖子、猫背椿新谷真弓)。そのりっくんの寝顔の写真がネットに流出したことから、三人はりっくんの恋人三村まりあ(新垣里沙)相手に「炎上」騒ぎをさらに大きくする。中年女性のやり取りは毒気もありとても面白いが、まりあが真相を告白するまでの脚本はちょっと停滞。高田聖子のドレスとバッグ、靴の組み合わせ、笑った。

アップリンク 『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』

 スペイン―アンダルシア地方―グラナダ。申し訳ないくらい何のイメージもないが、ネットでグラナダの地図を呼び出すと、そこはアルハンブラ宮殿フランコに銃殺された詩人ガルシア・ロルカの名を冠する公園のあるところ。

 アルハンブラ宮殿か。ここってイスラム王朝の「グラナダ王国」の首都で、イスラム文化が強く残っている土地柄なんだね。そんな街に15世紀ロマの人々が住みつくようになる。彼らはサクロモンテの丘、山の洞窟で暮らし、独自の文化を育て、その歌と踊りと演奏は、18世紀ごろには「フラメンコ」の原型となっていった。

 20世紀になってからのサクロモンテ、1963年に水害で放棄させられたサクロモンテについて、かつての踊り手、歌い手、弾き手が、踊り、歌い、弾いて語る。

 昔は皆が貧しく、子どももフラメンコを踊って見せたり、写真を撮らせたりして、チップをもらった。辛かったみたいな影はちっともなく、みんな生き生きとなつかしそうだ。

 額と頬に深い皺のある老女も、体全体にふっくらと詰め物をしたような老人も、ギターが鳴り、速い手拍子が聞こえると背筋が伸び、頭の上で鳥のように旋回する手首や、ドラマチックに順に折られてはまた開く指、踏み鳴らすステップが全く、一流のプロのもの。後ろで掛け声(ハレオというんだって)が聞こえるが、それが祭りの勢い水(きおいみず)のように、踊り手をこの世で最高の男、最高の女に変化させてゆく。

 「鍵と錠前」と歌われた途端、あ、これセクシャルな意味かなと思ってしまったが、フラメンコはきっとサクロモンテの人々の行住坐臥、ものすごく日常に近い所から生まれてきて、生活と一体化していたのだなあと感じました。

シアタートラム 『お勢登場』

 閉じ込められる。大きな黒い長持の中だ。蓋が開かない、と知ったときの動転、狭い長持の中で何とかして押し開けようとする無駄な努力、家人を気づかせようと上げる大声。そして、段々に息が苦しくなってくる。どういう工夫なのか、長持の中の仰向けになった格太郎(寺十吾)が照明で照らし出され、目をつぶりたくなるような苦しさが押し寄せる。乱歩だなあ。

 よく考えてみると、閉じられた本、読まれていない本というのは皆こうして、声にならない声を上げながら、登場人物は皆本の中に閉じ込められているのかも。こわーい。と思いながら本の表紙をとんとん、とたたけば、此方もまた、本の外の世界に閉じ込められている誰かになるのかも。

 舞台は一階と二階の二層に分けられて、障子のような縦にほそながい桟に仕切られている。上等の飼い鳥、昆虫の代わりにすり餌をもらう野鳥の籠のようだ。一階の障子が三分割されて、乱歩の世界が精巧に切り嵌められて登場する。よくできていた。特に中心にお勢(黒木華)を据えるという趣向が、生きながらピンで留めつけた考えみたいに、こわくて生き生きしている。江戸川乱歩ってじつは、お勢のような女だったのではないかと思うくらいだ。黒木華が楽しそうに、絶望を通り越した退屈の中にいる女を演じる。晴れ着を着て椅子の男にしなだれる姿も、とてもうつくしい。

 片桐はいりの、寝間で夫(梶原善)とやり取りする妻は、背徳的というより、おかしい、上品な味があってよかった。戯曲は素晴らしいのに、カワル演出がいまひとつ。舞台奥からカサカサ音がしていたのは、長持の中を暗示していたのかな。押絵の寺十吾、も少し支配的でもいい。この鳥かごのような世界にすり餌を入れていたのは、お勢だったのだろうか、それとも?

渋谷TOHO  『沈黙 ―サイレンス―』

 殉教の浜で、笛吹いて遊んだ。映画見ながら、そんなことを突然思い出して、済まない気持ちでいっぱいになるのである。ごめんなさい。海は青く、そこに浮かぶ島も青く、空も青く、けぶるように全てが青かった。あの島に、宣教師が禁教をかいくぐって戻ってきたんだって。昼は隠れ、夜は教えを説く。やがて見つかり、殉教したんだよ。海がきらきら光っていた、小舟に乗って、決死の思いで日本の地へ戻る人影が見える気がする。すごいなと思う。笛を吹きながら考えた。きっと、こんな人の、こんな行いに、神さまはいる。じゃあ、そうじゃなかった人はどうなのか。踏み絵におびえ、拷問に怖気を振るう私のような人。棄教者たち。弱くて、美しくない人たちにとって、神とは何か。そういう映画でした。『沈黙』。

 日本で布教活動をしていた宣教師フェレイラ(リアム・ニーソン)が棄教したことがイエズス会に伝わり、フェレイラの二人の教え子、ロドリゴアンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライヴァー)はそれを確かめるため、転んだ切支丹であるキチジロー(窪塚洋介)の助けを借りて、長崎へ潜入する。トモギ村というその村で、イチゾー(笈田ヨシ)、モキチ(塚本晋也)という切支丹たちに会うがそれもつかの間、信者たちは無残に殺されていき、苦しみは尽きない。しかしそれでもまだ神は沈黙している。心の中で神と対峙するロドリゴ

 全編が息詰まる緊張で貫かれ、一瞬も緩まない。中でも塚本晋也が全身で表現する精神性に打たれた。ロドリゴたちにあって、目から溢れる安堵と喜び、踏み絵に選ばれての小さな気落ち、それから仰向けになれば浮いたあばらの間に水が溜まるのではないかと思うほどの厳しい痩せかた。これに対してキチジローは犬のような眼をした一塊の塵芥のようだ。(登場シーンのうずくまり方がちょっと惜しい。足がながすぎるのかもだけど。)彼は神を裏切り続ける。それほど弱い。そして子供のように戻ってくる。何度も転び、何度も神を呼ぶキチジロー、醜く見えるもの、弱く見えるもの、ロドリゴの行いを通しても神は顕れるのではないかと思える。そこにこそ、黙っている神が、宿っているのでは。      

シアターコクーン・オンレパートリー2017+キューブ20th,2017 『陥没』

 降る雪や明治は遠くなりにけり

と、草田男がうたったのが昭和6年。明治が終わって20年くらい後だね。明治が雪の中に吸い込まれるように消えてゆく。草田男の明治以上に、昭和も随分遠くなったなあ。陥没したように見えなくなる時代を、ケラが振り返る。

 そこは大聖堂のような建物。ちいさなマス目の窓ガラスで区切られ、二階までも吹き抜けで、三階に見まごう屋根は円形に次第にすぼまって、ガラスは空を見通せる。手前の舞台上に、「レースのカバー」の附いたソファセット、上手に「観音開きの扉つき箱」に収まった大型テレビ、下手に枝折り戸が見える。この建物はオリンピアスターパーク。ホテル、テニスコート、プールを完備し、昭和39年のオリンピック需要を当て込んで、湯たんぽ会社の社長諸星光作(山崎一)が着工しようとしているのだ。しかし光作は不慮の死を遂げ、昭和38年11月の開業一か月前の披露パーティーを、娘の瞳(小池栄子)がとりしきるところ。だがそこには瞳の元夫木ノ内是晴(きのうちさだはる=井上芳雄)や、是晴の婚約者の大東結(おおひがしむすび=松岡茉優)がやってきて、なんかすっごくややこしく、笑えるのだった。

 木ノ内是晴の井上芳雄が、とても適っていて、よかった。いろいろと笑劇の要素が多いが、男女の思いの芝居としても成立している。ただ自分の好みとしては、「切なさ成分」が、も少しあったほうが好きだなという気はする。

 ドーム状のガラス張りの建物の中で、登場人物が「希望」や「選択」を語る。高度成長というのは身の回りにたくさん、自他を切り離す「かご」のような建物を、せっせと積み上げた時代だったのかもしれないと思った。

NODA・MAP第二十一回公演 『足跡姫 時代錯誤冬幽霊 ときあやまってふゆのゆうれい』

 芸能。持ち上げられたり落とされたり、毀誉褒貶の激しいジャンルだなと思う。羨ましがられたり、憎まれたり、憧れられたり、蔑まれたり、忙しい。それはみんな、芸能が場を通じて一時(いっとき)顕現し、観る人を圧倒し、そのあと一瞬で消えてしまうからだ。世間の人って「消えるもの」を胡散臭く思ってる。「消える価値」を許さない。だけど「消えるもの」に魅かれてしまう。それが美しいから。

 江戸時代。出雲阿国の系譜をひく三、四代目阿国の女歌舞伎が興行している。そこへ現れる役人(伊達の十役人=中村扇雀)が、女歌舞伎を取り締まろうとする。一座しているのは、三、四代目阿国宮沢りえ)とその弟サルワカ(妻夫木聡)、一座の座主万歳三唱太夫(池谷のぶえ)たちだ。サルワカは穴を掘っているうちに由比正雪古田新太)を掘り出してしまい、その手助けで台本を書く。由比正雪の腑分けをしたい腑分けもの(野田秀樹)、由比正雪を頭と恃む戯けもの(佐藤隆太)も現れ、将軍家なんとかの御前での舞をめぐって、事態は混とんとしてくる。

 縦横無尽に幕が引かれる。幕を引けばそこでおきたことはみな「ツクリゴト」の「消えるもの」に変わるのだ。ありとあらゆる芸能の貌が語られる。反骨、追従、嫉妬、華やかさ、売色(吉原)との距離の近さ、純粋さ。全てが失われてゆく。消えてゆく。

 でも、踊り子ヤワハダ(鈴木杏)が川の中に黒く(黝く見えた)横たわるとき、伊達の十役人が声を張りながら辺りのカブキ者に鋭く目を配るとき、「ツクリゴト」の「消えるもの」は決してなくならないと何かが私に言う。風に瞬くローソクの灯のように、消えたと思ってもそれはまた灯り、いつまでもいつまでも続いていくのだ。

世田谷パブリックシアター 『幸福な職場 ~ここにはしあわせがつまっている~』

 いい話なの。チョークを作っている会社が、養護学校の先生のたっての頼みでしぶしぶ知的障碍者を受け入れ、次第にその出会いで変わってゆく。実話だ。

 出てくる俳優はみんなハンサムだし、笑わせる間合いもすごく巧いし、壁にかかった湖かなんかの絵を、へぇーと覗き込む感じで観る。知的障碍者のことなんて、考えたことなかった、それはたとえば、駅には一か所、線路の向こう側にしかエレベーターがないのだということに、足をくじくまで気づかずにいるのと似ている。弱者の立場になるまで、この世界が弱者にどれほど不親切か、わからないのだった。ところが、障碍者が就職できず、子どもを持つことも許されなかったという事実は、私たちにもちゃんとつながっている。ほら、「産めとか産むなとか、自分のことを他人に言われたくない」って思うでしょ、あの気持ちを敷衍していくと、「障碍者の人は産めとか産むなとか、ずーっと指図されていた」ってところに行きつくんだよね。「絵」のなかの「おはなし」だったものが、ひたひたと観ている私の足元に押し寄せる感じ。

 観に来ているのは大体が若い女の人、静かに並んでキャストの写真やグッズを買っている。安西慎太郎のきれいに整えられた眉を見ると、私がいつも観ている芝居、こんなのが芝居だと思い込んでいるのとは違う芝居なのかもしれない、とちらっと思うけど、彼の大森泰弘は、正調二枚目主役の芝居で、陰翳に乏しい。それを支える工場の原田(松田凌)と久我(谷口賢志)も、どちらかと言えば二枚目の芝居なのだった。最初の通産省の役人の場面が、そのあとどうつながるのか、しばらくわからなかったよ。馬渕英里何の佐々木先生、幅いっぱいきっちり芝居しているが、逸脱が欲しい。「味」です。