新ロイヤル大衆舎 『王将 第三部』

 本筋の運びとはあまり関係ないような、「なごやかさ」を出すくだり、お茶だと思っていたものが違っていた、という、空々しい段取りと笑いになりかねないくだり、これ、北条秀司のオリジナルだろうか、腕利きの俳優たちの手にかかって、まるで今生まれてきたような間合いと味、押し寄せてきた波の泡みたいにふちっと今現れて今消えてゆく新鮮さ。これを見られたのは、とてもよかった。明治の漱石の冗談で大笑いした時のように震撼したのでした。

 第三部の主題は、「老いをどう受け入れるか」というものだった。田んぼに力と書くように、力なしでは、特に昔の男の人は、へなへなになってしまう。日常生活に心理的な基盤がないからね。

 まず将棋を研究する上で片腕だった愛弟子松島をなくし、かわいがっている次女君子(森田涼花)にも恋人ができる。徐々に力を失っていく三吉、木村名人(古河耕史)に勝った弟子森川(大東駿介)には嫉妬のあまりひどいことを言う。しかし、ひどいことを言っても、三吉のキャラクターは素敵に作ってあって、あんなに怒っていた君子に対しても、お父さんが婚家先についてゆくと折れて出るし、森川にもあやまる。木村名人の前で号泣すると可哀そうでたまらなくなる。「階段を下りる」というのは、本当に難しいものだ。福田転球は折れるところがとてもチャーミングだった。大東駿介棋譜を読み上げる時小さく座っているところが真面目らしくとてもよかったが(二部)、奥手な男の人はそんなに好きな人の顔は見ないと思うよ。大堀こういちの語りの三吉のところは、もう一人の三吉ぽくていい。

第一部の「御大」は「おんたい」、第三部の「水漬く屍」は「みづくかばね」、「こうっと」は、わざとでなければ小さい促音の「っ」だと思います。ええっと、みたいな感じね。わざとかな。

GEKISHA NINAGAWA STUDIO公演 『2017・待つ』

 舞台が暗くて、隅にあるデュシャンみたいな便器しか目に入らない。しばらくすると薄暗がりに、祭壇のような(ぎっしり)正面の混沌がぼうっと現れる。ラッパ型の顔を伏せて群がり咲くダチュラ(チョウセンアサガオ)、ドーリア式だかイオニア式だかの柱が斜めに倒れかかり、その背後にはうす紅い蓮がすっくと立ち、ロムルスとレムスを育てた狼の白く大きな像がいる。地球儀を置いた本だらけの大きな机、これらに侍すように控えめに、トラックや自販機があり、目を上げるとダンシネーンに来るあの森のような、アーデンの森のような、青葉をつけた若木が天井からさかさまに下がっている。

 この吹き寄せられた祭壇を前に、一人の俳優(清家栄一)が台本を手にセリフの確認を始める。流されたようにひっくりかえった縁台、横倒しの椅子、三輪車が透けて見える水槽、その間を縫って俳優は歩き回り、集中し、マクベスのセリフを語る。セリフは高揚していくが、そこにハムレットが入り込み、彼を引き戻す。自己陶酔を許さない台本だなー。今しも王を殺そうとした時、彼は祭壇の中に消え、一人の兵隊(白川大)がライフルを背負って転がり出てくる。ここからアラバールの『戦場のピクニック』が始まる。兵隊は前線に一人残されている。そこへ、なぜか家族たちが訪ねてきて、みんなでピクニックをするという話だ。アラバールは不条理劇で知られるが、ピクニックが挟まることによって、戦場、戦争という最強最低の不条理が強調され、あからさまになっていく。さらさらと茣蓙がいく筋も敷かれ、お重が持ち出され、電蓄で音楽がかかる。家族はさざめきあい、わらい、楽しげな、見事なピクニックシーンだった。このオムニバス劇のなかでは、この戦場のピクニック+マクベスと、老人(岡田正)が友達の葬式で旧友(大石継太)と出会い、14歳の心で生き始める話(『逆に14歳』)が好きだ。

 ほかに舞台の裏方が兄(飯田邦博)と弟(塚本幸男)に変容してゆく『花飾りも帯もない氷山よ』、脳のように前頭葉や視覚聴覚運動野を持つキャベツについて教授(野辺富三)が記者(新川将人)に語る不思議な話『キャベツ』、演出の井上尊晶までが登場する『12人の怒れる男』など。

 息子(堀文明)と父(妹尾正文)、車椅子の父は、「それじゃあ、俺はもう死んじゃうよ」という。それは露伴の臨終の言葉でもある。息子はそれを、一瞬動揺しながら受け入れる。受け入れる、難しいな。実際には幸田文は、死ぬ父に向かって手をついて、きちんと挨拶の言葉を述べ、父をみとった。「お父さん、お静まりなさいませ」。私たちは蜷川幸雄に向かって、もうこういわなければならないだろうか。

新ロイヤル大衆舎 『王将 第二部』

 第一部では、「将棋と生活」の相克を坂田三吉福田転球)は生きていたが、第二部では、「将棋と政治」が語られる。政治っていうか、世間の評価だね。それが三吉を引きさらい、持ち上げ、落とし、もみくちゃにする。早手回しに三吉をおだて、「関西名人」という、関根八段との信義に悖る位置につけようとする世話人西村(陰山泰)。これだからあほは困るといいながら坦々と事を運ぶ。こんな人には要注意だなと思うのだが、これといって「悪」の目印のようなものはない。後援会会長の金杉子爵(櫻井章善)だってそうだ。ただ駒みたいに、三吉をおもいどおりに「動かそう」としているだけなのだ。

 押し浪や引き潮の中で、三吉を支えるのは長女玉江(江口のりこ)と次女君子(森田涼花)だ。何日にも及ぶ木村八段との対局の結果を宿で待っている二人。劇場入り口に顔を向け、ふと「おとっつぁんとちがうか」と父の気配を聞く。一瞬のかすかな間、この時二人が待ち受けるのは、実際の三吉というよりももっと大きな、ソフトでなつかしいもの、「父性」のエッセンスみたいなものであるような気がした。そしてこの一瞬の中に娘たちの盲目的な愛が詰まっている。父に会わずに去る玉江の震えながら涙をふく指がきれいで、素晴らしい演技だった。指と言えば、坂田の弟子松島(石田剛太)の駒を置く手が決まっていて、挙措が美しい。中継で見る棋士の姿そのままである。

 後援者宮田(山内圭哉)と三吉の酒を飲む顛末が可笑しく、面白い。しかしもう少し、「俳味」っぽい可笑しさを出してもいいような。三吉は主役なので、冒頭シーンなど表情をくるくる変えたくなるところを今一息抑えた方がいいと思う。

次は第三部。玉江ちゃんと君子は、どうなるのかなー。

新ロイヤル大衆舎 『王将 第一部』

 客席数ほぼ90の小さな劇場で、15人の名のある俳優が、出はけに苦労しながらやる芝居って、どんなの?そんな近い所から見る長塚演出の『王将』って、どんなかんじ?と、みんながみんな思い、チケットは即時完売、運のよかった私は初日に行ってきました。

 縁台将棋の縁台のような羽目板の舞台。その板張りが客席の方まで伸びている。バックに張られた幕の黒が、ビロードのように黒い。

 まず、映像みたいな静かな、こっそりした芝居ではなかった。もうちょっと大きい劇場の、舞台の上に、雲が浮かんでいて、その雲に乗っかって、至近距離でお腹の底から声を出す芝居を目撃って感じだ。

 語り(大堀こういち)がタキシードで登場。明治39年夏の初めの大阪天王寺、関西線の走る天下茶屋の北側の長屋へ、観客を引き入れる。高利貸しからまだ登場しない草履職人の三吉が金を借り、その留守に無体な取り立てを受けた女房の小春と子供たちが、姿を隠したことが語られる。長屋のおばちゃん山内圭哉が、立派な髭を生やしているのにおばちゃんである。ただしその姉さんかぶりは、アラファト議長みたいに見える。小春と子供たちの心中を案じる長屋の弘中麻紀のわななく顎。無事で登場した小春(常盤貴子)の、薄紫のリラの花のような美しさ。薄紫のオーラが出ていたと思える近さだった。三吉(福田転球)とうどん屋の新吉(高木稟)のやり取りが親密でいい感じだ。三吉はもっと無邪気で、無学な感じなんじゃないかなあ。常盤貴子、びしびし来る玉江(江口のりこ)の芝居が、体に通っていない。もっとよく聴かないと、いい反応ができないと思う。新聞記者たちのセリフも、まだ使いこなせていない言葉遣いがある。終幕、三吉に泣かされた。明日へ続く。わくわく。

新宿「SPACE雑遊」 『やんごとなき二人』

 「絵を描く時の心持は、わかっています」。22歳、油絵を二枚描いた中川一政は、こういったそうだ。その二作目の『霜のとける道』(1915)をみると、(わかってんなー。)と思う。青い空、明るく強い日に照らされて影の濃い景色、鮮やかに赤く見える段差のある道。霜が太陽の熱に溶かされ、空気の中に漂っている。全体に(ぽわん)とした詩情がある。

 綾田俊樹ベンガルの『やんごとなき二人』も、何かが「わかっている」。場面は多摩川の河原のホームレスの小屋の前で展開する。ホームレスの男小鳥遊(たかなし=ベンガル)が、上手から自転車で登場する。小屋には両側に腕を伸ばしたように物干し綱が張られ、上手のそれには、ティーバッグが、一定の間をとって几帳面につるされている。その諧調が、すごくおかしい。その下をパイロット用防寒帽をかぶってくぐるホームレス小鳥遊は、無表情だが、やはり諧調である。首から下げたラジオを取って小屋の壁にかけ、下手の手作り郵便受けを開けてみる。焼きそばパンを出して食べる。トタンで背中をかく。飽きない一人芝居のあと、遠くを見て、ひとこと発する。

 「なんだあのバカ、橋の上で」

 「あのバカ」は綾田俊樹、朴ノ木という名前である。いろいろとわけありの様子で、小鳥遊の「シマ」でひとときを過ごす。鍋をつつく二人。いったい何を食べているのか。

 綾田俊樹ベンガルの老練な味のおかげで、芝居は「ぽわんとした詩情」を醸し出しつつ、無上に面白く進む。

 中川一政の『霜のとける道』は、実は、お金のなかった中川が岡本一平の絵を塗り潰してその上に描いたものだ。精進してきた俳優さんは、年を取ると、どうしても味が出てしまう。味だけではつまらない。もうひとはけ、凄みが欲しいと思ってしまった。

世田谷パブリックシアター りゅーとぴあプロデュース『エレクトラ』

 ほんとうに怒ると、人の怒りは破壊的で、自分をも他人をも滅ぼさずにはおかない。自分の怒りでありながら、制御できず、自意識は怒りに仕える巫女さんのようになってしまう。「いま、怒ってらっしゃいます」みたいな。おてあげだ。自分でも、どうにもならないのだ。

 してみると、高畑充希エレクトラは、怒りにリミッターをかけていたように見えた。上限と下限、見やすいように、きちんとサイズが決められている。サイズが小さい。怒りのあまり、自分でもびっくりするような声が出る、って感じじゃない。現代風。

 そのかわり、オレステス村上虹郎)とのやりとりは、新しい野菜の青い茎をぱきっと折ったとき、水気がさっと飛ぶようにみずみずしく鮮やかだ。エレクトラオレステスクリュソテミス仁村紗和)も、この病んだ家庭で苦労している子供たちに見える。

 実の母クリュタイメストラ白石加代子)が愛人アイギストス横田栄司)と謀って父アガメムノン麿赤児)を殺した。文句のつけようがないほど非道な話だが、クリュタイメストラの話を聞くうちに、この人にも掬すべき理由があると思っちゃうのである。娘イピゲネイア(中嶋朋子)をアガメムノンギリシア軍の風待ちのいけにえにしてしまったこと、トロイア戦役でプリアモスの娘カッサンドラを連れ帰ってきたこと、白石加代子が「傲慢なあの男」と力を込めて言うと、幾千、幾万、幾億の、「あの男」たちが目に浮かび、一瞬で彼女の味方になってしまうのだった。アイギストスだって、アガメムノンに復讐しただけともいえる。ちいさな家族の大きな悲劇、この『エレクトラ』は、ギリシア悲劇であることを越えて、現代まで連綿と続く家族の復讐の悲惨を訴えるものになっている。

蜷川幸雄一周忌追悼公演 さいたまゴールド・シアター×さいたまネクスト・シアター 『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』

 乱れている赤い幕。上手の幕と、下手の幕、合わせ目が疵みたい。日常の亀裂としての非日常が、いま幕を開ける。

 それは透きとおる四角いお墓。いくつもいくつも、透明の水槽が整然と並べられ、一つずつに一人、老人たちが横たわり、胎児のように体を丸めている。手指が静かに、揺らめきながら動き、海の中の光る藻を思う。死につつありながら、生まれ出ようとしているのだ。

 駆け込んでくる若者が二人、手に持ったボールで戯れにキャッチボールをする。爆発音!それはボールではなく、爆弾だった。

 青年A(松田慎也)、青年B(竪山隼太)はつかまって裁判を受けている。彼らは革命を信じていた若者たちである。法廷はもっともらしく、判事たちはしかつめらしい。ここに証人として呼ばれた青年Aの祖母鴉婆(田村律子)は証人の宣誓はいったい誰に向かってするのかと疑義を述べる。そこへ、20人からの老婆たちが乱入し、第八法廷をゆっくりとその生活で占拠する。彼らは爆弾を持っていて、法廷関係者を皆人質にとり、老婆たちによる裁判が始まる。

 「考える」「言語化する」ということから自由になれない若者たち、そこにこだわり続ける限り、自分たちの思いや革命は先細りであるだろうという予感が、この芝居をつくりだしている。「考えない」「言語化されない」未踏のジャングルのような、青年たちを囲むすべて。それはギリシャ神話のハルピュイアのように、無慈悲で意地汚く、攻撃的で、また、闇のように黙り込んでいて、愛と狂気を含んでいる。顧みられなかった下の下のそのまた下の地層、闇の内の闇、その中に芽吹くことなしに自分たちはあり得ない、という切羽詰まった思い。汚れた足の裏をはたく手拭いの手慣れた動作、お菜を刻む皺ばんだ手、遺影を負う小さい背中、そこから若者たちは咲き出でる。まるで舞台が、一つの、透きとおる胎内であったかのように。