原美術館 蜷川実花『うつくしい日々』

 蕃茉莉(ばんまつり)が白と紫の小さな花を咲かせ、深紅の薔薇が身を反らして花弁を巻き上げる季節に、蜷川さんは亡くなっちゃったんだなと思っていた。白、紫、赤。激しい、ヴィヴィッドな色。

 しかし、蜷川実花の写真に見る父の死は、淡い、美しいうす紅色、白い光のまぶしさでいっぱいなのだった。それは私には、「いる」と「いない」のあわいの色、「いなくなる」の色のように感じられた。心のこまかい繊毛で感じ取る「いなくなる」は、時々蒼ざめて白くなり、時々はまた紅色がさす。カメラを手にした蜷川実花は、うすくきゃしゃな、やっぱりほのかに紅い花びらの縁を、らせん状にぐるぐると、「いなくなる」の中心に向かって歩を進める。それは確かに「父がいなくなる」であって、父が見るだろう最後の花、父がいる最後の空を切り取っているのだが、いつのまにかその「いなくなる」は、不確かな(私が)に変わり、そして、その写真をみているこのわたしの「いなくなる」にみえてくる。

 ぐるぐると歩き続ける蜷川実花の足取りは、胸を衝かれるように孤独な女の子のそれなのに、「いなくなる」(このひとが)の極点にたどり着くと、勇気と、写真家としての(おとなとしての)冷静な目を感じさせる。「いない」「いる」「いなくなる」はグラデーションだ。「いなくなる」のなかには「いない」と「いる」が蔵いこまれている。らせんの中心にたどり着いた蜷川実花は今度は、広がっていく新しいぐるぐるのらせんを歩き始める。「いる」にむかって、「いない」にむかって、新たな「いなくなる」にむかって。

 写真展では写真の撮影がOKだったのであるが、そんなことでこの写真の芯は写し取れやしない、というか、私が写したところで決してこの数々の「じゃあね」は写りはしないという強い確信を持った。

秋田雨雀・土方与志記念青年劇場 第116回公演 『梅子とよっちゃん』

 「あんまり好かないから。西洋人ぶっているから。」

 控えめに、身を固くして登場した田村俊子(片平貴緑)は、築地小劇場に参加しない理由をこんな風に言う。

 土方与志とその仲間たちが作り上げた、鷹揚で明るく知的な雰囲気を、外側から批評する目、この視点が場面を引き締め、見る価値のあるものにしたと思った。

 土方与志は演劇に全体重を預け、一筋の人生を送った人である。父の自殺、持ち重りのする爵位、弾圧、亡命同然のソビエト行き、投獄と、事は多いが、彼が信じていたのは演劇だった。与志(船津基)とともに歩み、舞台衣装家になる妻梅子(池田咲子)は、何も知らない貴族の令嬢から、目的を持つ一人の女になり、いつか夫を問い詰めるまでに成長する。

 「日本の演劇の原点」、「築地小劇場に7億出資した人」(ウィキペディア)、「華族」、どれをとっても自分から遠く、ひゃーって感じだけど、この芝居を観て、与志のみならずどのひとも懸命に生きてたのだなと当たり前のことに感動した。特に丸山定夫大石達也)や千田是也(岡山豊明)など、はにかんで笑ったりルパシカ着ていたり、身近に風が起こって、ふと現れたみたいだ。

 梅子さんという人は、パンフレットによると、晩年の入院中、付添いの若い女優さんに、「女優に肌は見せたくありません」と厳しくいったと書いてある。なかなか一筋縄ではいかない人ではなかったか。「女優に」だよ。梅子に成長(セリフ回しの変化とか)と、複雑さ(台本にも)が欲しいです。梅子はよっちゃんがなぜ好きになったのかな。そこがすこしわからない。

 与志が作中で願ったように、「本当の自由」が、いつまでも続きますようにと思わずにいられなかった。

Blue Note tokyo 『JAZZ FOR CHILDREN チャイナ・モーゼス』

 子どもの日。路地や駅頭で、朝から、ものすごくハイテンションな子どもたちのきゃあきゃあ声が聞こえる。今日は子どもが主役だもんね。ブルーノート東京では、「JAZZ FOR CHILDREN」と題して、お昼の三時半からChina Mosesのショーが開催されました。

 次々に現れるお父さんやお母さんに連れられた子供たち。外国の子、日本の子、車椅子の子もいる。来たことのない大人の雰囲気のブルーノートに、みんなややしゃっちょこばってる。

 チャイナ・モーゼスは、ディー・ディー・ブリッジウォーターという有名なジャズ歌手と、テレビドラマ『ルーツ』(黒人作家アーサー・ヘイリーが、自分の出自を追う物語。闘鶏で自由を勝ち取ろうとした男の人の声涙下る演技など、今も忘れられません)の監督ギルバート・モーゼスの娘さんだ。明るい人かな?それとも屈折したお嬢さんか?

 登場したチャイナ・モーゼスは白に大胆な赤や緑の柄のサックドレス、セルフィースティックをかざし、「わーい」みたいな、ものすごい明るい感じ。この登場シーンだけで、彼女が誰の娘でもなく、ただ彼女自身なのだということがわかる。

 バンドの奏でるSomeday My Prince Will Comeに続いて(敢えて音を膨らまさないサックス、ブラシの柄でシンバルをたたくドラムス、鋭い溝に音を嵌めこんでいくようなピアノ、よく鳴るベース、シンバルの上のチェーンが、光る蛇みたいに身をよじっている)、Jamming At Homeという歌を歌い始める。最初の盛り上がりの、いちばん聞かせどころのフレーズを、チャイナ・モーゼスは惜しげもなく前列の小さい男の子に向かって歌う。瞠目の伸びる声。子どもは目を真ん丸にして、「僕に歌ってくれたよ!」みたいなことを周り中に言っていた。いいなあ。素敵な思い出だね。

 次はジャングルブックの中の猿が歌う曲、I Wanna Be Like You。「Walk Like You,Talk Like You,」ってところがとってもキュートだ。それから「指を鳴らしてね」といわれて、子どもも大人も指を鳴らしたWatch Out、自動で動くライトに気を取られる子ども、指を真面目に鳴らしている子ども、そのテンポはあってたり、ややあってなかったり。すごいピアノソロが聞こえる。お父さんの膝の上で跳ねている女の子。

 サックスのフレーズを観客が復唱する(コール&レスポンス?)場面もあった。最初は簡単、最後は子どもにも大人にもすごく難しかったのだが、サックスがどれだけ歯切れよく、どれだけ難しいフレーズを演奏しているかよく解った。

 Disconnectedという曲は、ソーシャルメディアについて歌ったもの、テレビを切ってゲームもやめて、おたがいにじかんをすごすのは大切ですよね。私はフェースブックツイッターもインスタグラムもやってるんだけれどね。すこしハスキーな、少女っぽくも聞こえる声で歌い始める。アイパッドの楽器に自分の声が読み込んであり、触れると、Dis-connect-edとコーラスする。使いこなしてるなあ。若いんだね。

 私が好きだったのはRunningという曲、壁があっても突っ走ってしまう自分の性向を歌った歌。

 最後にチャイナが「ジャズはかっこいいと思ってくれた?」「どうだった?」と聞くと、椅子から、膝の上から、子どもたちが身を乗り出して「オーケィ!」と皆社長さんのように満足そうな身振りで応えるのでした。

新ロイヤル大衆舎 『王将 第三部』

 本筋の運びとはあまり関係ないような、「なごやかさ」を出すくだり、お茶だと思っていたものが違っていた、という、空々しい段取りと笑いになりかねないくだり、これ、北条秀司のオリジナルだろうか、腕利きの俳優たちの手にかかって、まるで今生まれてきたような間合いと味、押し寄せてきた波の泡みたいにふちっと今現れて今消えてゆく新鮮さ。これを見られたのは、とてもよかった。明治の漱石の冗談で大笑いした時のように震撼したのでした。

 第三部の主題は、「老いをどう受け入れるか」というものだった。田んぼに力と書くように、力なしでは、特に昔の男の人は、へなへなになってしまう。日常生活に心理的な基盤がないからね。

 まず将棋を研究する上で片腕だった愛弟子松島をなくし、かわいがっている次女君子(森田涼花)にも恋人ができる。徐々に力を失っていく三吉、木村名人(古河耕史)に勝った弟子森川(大東駿介)には嫉妬のあまりひどいことを言う。しかし、ひどいことを言っても、三吉のキャラクターは素敵に作ってあって、あんなに怒っていた君子に対しても、お父さんが婚家先についてゆくと折れて出るし、森川にもあやまる。木村名人の前で号泣すると可哀そうでたまらなくなる。「階段を下りる」というのは、本当に難しいものだ。福田転球は折れるところがとてもチャーミングだった。大東駿介棋譜を読み上げる時小さく座っているところが真面目らしくとてもよかったが(二部)、奥手な男の人はそんなに好きな人の顔は見ないと思うよ。大堀こういちの語りの三吉のところは、もう一人の三吉ぽくていい。

第一部の「御大」は「おんたい」、第三部の「水漬く屍」は「みづくかばね」、「こうっと」は、わざとでなければ小さい促音の「っ」だと思います。ええっと、みたいな感じね。わざとかな。

GEKISHA NINAGAWA STUDIO公演 『2017・待つ』

 舞台が暗くて、隅にあるデュシャンみたいな便器しか目に入らない。しばらくすると薄暗がりに、祭壇のような(ぎっしり)正面の混沌がぼうっと現れる。ラッパ型の顔を伏せて群がり咲くダチュラ(チョウセンアサガオ)、ドーリア式だかイオニア式だかの柱が斜めに倒れかかり、その背後にはうす紅い蓮がすっくと立ち、ロムルスとレムスを育てた狼の白く大きな像がいる。地球儀を置いた本だらけの大きな机、これらに侍すように控えめに、トラックや自販機があり、目を上げるとダンシネーンに来るあの森のような、アーデンの森のような、青葉をつけた若木が天井からさかさまに下がっている。

 この吹き寄せられた祭壇を前に、一人の俳優(清家栄一)が台本を手にセリフの確認を始める。流されたようにひっくりかえった縁台、横倒しの椅子、三輪車が透けて見える水槽、その間を縫って俳優は歩き回り、集中し、マクベスのセリフを語る。セリフは高揚していくが、そこにハムレットが入り込み、彼を引き戻す。自己陶酔を許さない台本だなー。今しも王を殺そうとした時、彼は祭壇の中に消え、一人の兵隊(白川大)がライフルを背負って転がり出てくる。ここからアラバールの『戦場のピクニック』が始まる。兵隊は前線に一人残されている。そこへ、なぜか家族たちが訪ねてきて、みんなでピクニックをするという話だ。アラバールは不条理劇で知られるが、ピクニックが挟まることによって、戦場、戦争という最強最低の不条理が強調され、あからさまになっていく。さらさらと茣蓙がいく筋も敷かれ、お重が持ち出され、電蓄で音楽がかかる。家族はさざめきあい、わらい、楽しげな、見事なピクニックシーンだった。このオムニバス劇のなかでは、この戦場のピクニック+マクベスと、老人(岡田正)が友達の葬式で旧友(大石継太)と出会い、14歳の心で生き始める話(『逆に14歳』)が好きだ。

 ほかに舞台の裏方が兄(飯田邦博)と弟(塚本幸男)に変容してゆく『花飾りも帯もない氷山よ』、脳のように前頭葉や視覚聴覚運動野を持つキャベツについて教授(野辺富三)が記者(新川将人)に語る不思議な話『キャベツ』、演出の井上尊晶までが登場する『12人の怒れる男』など。

 息子(堀文明)と父(妹尾正文)、車椅子の父は、「それじゃあ、俺はもう死んじゃうよ」という。それは露伴の臨終の言葉でもある。息子はそれを、一瞬動揺しながら受け入れる。受け入れる、難しいな。実際には幸田文は、死ぬ父に向かって手をついて、きちんと挨拶の言葉を述べ、父をみとった。「お父さん、お静まりなさいませ」。私たちは蜷川幸雄に向かって、もうこういわなければならないだろうか。

新ロイヤル大衆舎 『王将 第二部』

 第一部では、「将棋と生活」の相克を坂田三吉福田転球)は生きていたが、第二部では、「将棋と政治」が語られる。政治っていうか、世間の評価だね。それが三吉を引きさらい、持ち上げ、落とし、もみくちゃにする。早手回しに三吉をおだて、「関西名人」という、関根八段との信義に悖る位置につけようとする世話人西村(陰山泰)。これだからあほは困るといいながら坦々と事を運ぶ。こんな人には要注意だなと思うのだが、これといって「悪」の目印のようなものはない。後援会会長の金杉子爵(櫻井章善)だってそうだ。ただ駒みたいに、三吉をおもいどおりに「動かそう」としているだけなのだ。

 押し浪や引き潮の中で、三吉を支えるのは長女玉江(江口のりこ)と次女君子(森田涼花)だ。何日にも及ぶ木村八段との対局の結果を宿で待っている二人。劇場入り口に顔を向け、ふと「おとっつぁんとちがうか」と父の気配を聞く。一瞬のかすかな間、この時二人が待ち受けるのは、実際の三吉というよりももっと大きな、ソフトでなつかしいもの、「父性」のエッセンスみたいなものであるような気がした。そしてこの一瞬の中に娘たちの盲目的な愛が詰まっている。父に会わずに去る玉江の震えながら涙をふく指がきれいで、素晴らしい演技だった。指と言えば、坂田の弟子松島(石田剛太)の駒を置く手が決まっていて、挙措が美しい。中継で見る棋士の姿そのままである。

 後援者宮田(山内圭哉)と三吉の酒を飲む顛末が可笑しく、面白い。しかしもう少し、「俳味」っぽい可笑しさを出してもいいような。三吉は主役なので、冒頭シーンなど表情をくるくる変えたくなるところを今一息抑えた方がいいと思う。

次は第三部。玉江ちゃんと君子は、どうなるのかなー。

新ロイヤル大衆舎 『王将 第一部』

 客席数ほぼ90の小さな劇場で、15人の名のある俳優が、出はけに苦労しながらやる芝居って、どんなの?そんな近い所から見る長塚演出の『王将』って、どんなかんじ?と、みんながみんな思い、チケットは即時完売、運のよかった私は初日に行ってきました。

 縁台将棋の縁台のような羽目板の舞台。その板張りが客席の方まで伸びている。バックに張られた幕の黒が、ビロードのように黒い。

 まず、映像みたいな静かな、こっそりした芝居ではなかった。もうちょっと大きい劇場の、舞台の上に、雲が浮かんでいて、その雲に乗っかって、至近距離でお腹の底から声を出す芝居を目撃って感じだ。

 語り(大堀こういち)がタキシードで登場。明治39年夏の初めの大阪天王寺、関西線の走る天下茶屋の北側の長屋へ、観客を引き入れる。高利貸しからまだ登場しない草履職人の三吉が金を借り、その留守に無体な取り立てを受けた女房の小春と子供たちが、姿を隠したことが語られる。長屋のおばちゃん山内圭哉が、立派な髭を生やしているのにおばちゃんである。ただしその姉さんかぶりは、アラファト議長みたいに見える。小春と子供たちの心中を案じる長屋の弘中麻紀のわななく顎。無事で登場した小春(常盤貴子)の、薄紫のリラの花のような美しさ。薄紫のオーラが出ていたと思える近さだった。三吉(福田転球)とうどん屋の新吉(高木稟)のやり取りが親密でいい感じだ。三吉はもっと無邪気で、無学な感じなんじゃないかなあ。常盤貴子、びしびし来る玉江(江口のりこ)の芝居が、体に通っていない。もっとよく聴かないと、いい反応ができないと思う。新聞記者たちのセリフも、まだ使いこなせていない言葉遣いがある。終幕、三吉に泣かされた。明日へ続く。わくわく。