新宿シネマカリテ 『霊幻道士 こちらキョンシー退治局』

 古びたエレベーターのB3F表示が光り、今しも降下してきたところだ。扉の中から現れた青い制服の警備員が、異変を感じて耳の横に懐中電灯をかざす。フロアの夥しい血、肉片、停まっていた軽トラックの中を見ると、運転席の男が死んでいる。「!」カメラは死んだ男を映さない、次の瞬間、襲われた警備員の恐怖の表情とその顔を掴む手をアップで撮る。

 はなしちがう!こんなこわいはなしって知ってたら来なかったのに!

 しかし、そんな心の叫びも数秒だ。襲ってきた男が、とつぜん、両手を硬直させて胸の高さまで伸ばしてあげ、ぴょん、ぴょん、と足をそろえて前進する。

 キョンシーかぁ。脱力と可笑しさで、怖さがどこかへ行ってしまったよ。しかし最近、映画の細部の血とか死体とかのリアリティ、すごいよね。それが映画全体のリアリティを支えるっていう思想なんだろうね。ちょっとイヤ。

 青年チョン・ティン(ベイビージョン・チョイ)は、清掃局を装い、キョンシーを駆逐する秘密の公的機関、キョンシー退治局(Vampire Cleanup Department)にスカウトされる。いろんなへまを重ねるうちに、チョン・ティンは一人の美少女キョンシー(リン・ミンチェン)に出遭うのだった。

 美少女をかくまい、そのお世話をするっていうの、古典やらなんやら、ある話だけど、今の日本で、特に女の目で見ると、変。この映画はギリギリのところでなんとかそこを回避できている。それは一重にベイビージョン・チョイの軽い嫌味のない芝居と、爽やかさのおかげだろう。師匠(VCDの上司)のジーチャウ(チン・シュウホウ)とのカンフーは、まるで、ほっそりしたお花が揺れているみたいだった。

天王洲銀河劇場 『遠い夏のゴッホ』

 「胸が大きくなりませんように、これ以上おとなになりませんように」と、毎晩うつ伏せで寝ていた子供だったので、惑星ピスタチオの『熱闘!飛龍小学校』を観た時は、むっとしていた。大きくなる子が悪者。そういう扱い?だって成長って、みんなに降りかかるんだよ。

 と、思ってから20年、『遠い夏のゴッホ』で西田シャトナーは、また成長と変化を扱う。劇場に入って舞台の明かりを見て、(おや?)となった。舞台面から見上げる光と、天井から地上を見下ろす光が、斜めにスモークを照らし、筋状に交錯して美しい。これ、視点が複眼化したことを示しているのでは。成長しちゃってるよ。

 虫たちの、生まれて生きて死ぬめぐりと、その中のあがきや喜怒哀楽。蝉の幼虫ゴッホ(安西慎太郎)は、恋人ベアトリーチェ(山下聖菜)より一年早く羽化してしまう。ベアトリーチェに会うため、ゴッホは何としても冬を越さなければならない。

 最初に赤いTシャツを着た人々が現れ、蟻だと名乗ってもピンと来ないのだが、舞台に葉っぱの乗り物のように設えられた大きなセットが、バッタの頭だと教えられると、とつぜん、全員ちっちゃいよく働くアリにみえてきた。

 ゴッホは「めぐり」や「時間」に抵抗するが、ファンタジーとして昇華されているので、無理矢理感はない。群唱がきれいで、風や星を表わす身振りもいい。セリフの間に擬斗や登退場が多く、話が緊密でなくなり、芝居の見せ場が薄くなる。パンフレットの表紙がかっこよく、ゴッホの頑張りを一瞬で表わしている。このようなシーンが、芝居の中にもあればよかったのに。ベアトリーチェ、「チュー」というセリフは重要なので、渾身の無邪気でやってもらいたいです。音楽にセリフが埋もれがちでした。

ムジカーザ 『第九回 上原落語会 夜の部』林家彦いち 音楽ゲスト ユザーン(タブラ)

 開場を待つ列に並ぶと、前にいる女の人たちの首が皆細くて白い。あの、ごめんね、落語会的には今日はずいぶんと若い人たちが来ている。

 キーンと冷えた会場で、ひざ掛けを配る係の人が、すまなそうに、「もうなくなってしまったんです」という。いいのいいの、若い人に貸してあげて。痩せてると寒いもんね。

 ちょっと時間が押して、林家彦いち、タブラ奏者ユザーンが登場。ひとこと「...近い(客席が)。」という。二人でカレーの話をする。「ぼく、インドの楽器やってるからインド料理屋よくさそわれるんですよ」(タブラ、インドの楽器なのか!)と思う。例によって予習ゼロ、見たことしかわからないと、ある種の諦念を持って臨んだ今日です。おいしいインド料理屋、彦いちさんが好きな川魚のこと、かなり話して「おもしろいですね。」といったあと、ちょっと間があり、「...ユザーンと申します。」とぺこりと頭を下げた。その間が、プロの笑いの人ではないのに笑いの人のよう。わざとらしさのない、淡々とした人だった。

 てんてんてんまり(鞠と殿様)の出囃子にのって、林家彦いちが座布団に上がる、その前には自分で出番の「めくり」をめくっていたのだった。今日は「青菜」という話をやろうと思っていたこと、昼の部でその話が出てしまったこと、クマの話、クアラルンプールで落語をやったことなどを話し、今日の落語は「ムアンチャイ」というタイ人が主人公です、という。客席に二度ほど、主人公の名前を唱和させて(音響がよくて、会場全体がどよもす感じ)、話は始まった。

 ムアンチャイは日本のボクシングジムでセコンドにつくことを目指している。しかし言葉の壁があり、ジムではバンコクに帰れとすすめられているのだった。ちょっと暇をやるから日本の様子を見て来いと言われるムアンチャイ。歌舞伎町で果物屋の呼び込みをしたりヤクの売人と話したり、ティッシュ配りの手伝いをする。

 まず、このムアンチャイが凄くいい人だった。もしかしたら差別になりそうなところを、彦いちさんが主人公に思い入れ(思い入れてる?)、純朴な田舎の人に作ることでからくもまぬがれている。歌舞伎町では果物屋のおじさんすら目付きが「すすどく」、世知辛い。売人にヤクをすすめられ、ムアンチャイが「ご通行中の皆さま」と大声でいうとこ、訛ってないから誰が言ったかわからなかった。マウスピースをジムの「ハセガワ」が口に入れる描写が何気なく巧かったです。

 

 

こけざるの壺。『丹下左膳百万両の壺』で、子どもが金魚いれてたあの壺だ。あれをちょっと小さめにして、壺の口にあたる太鼓の鼓面をたたきやすいよう斜めに切り取ってある感じ。奏者の右に小さめのタブラ、左に大きいタブラを置く。ユザーンは空色と白のストライプのクルタを着ている。「いいかなとおもったんですが、人間ドックから出てきた人みたいかなあ」そうでも...ない。

 演奏が始まる。うーん、鼓の「ぽ、ぷ、た、ち」どころじゃない、鼓のような音、カンと乾いたおおかわの音、「どぉん」と胴に響く太鼓の音、でんでん太鼓のぱらぱらいう音、雅楽の鞨鼓みたいな音、ぜんぶある。それらすべてが両手で、恐るべき速さで演奏される。雨の日に、瓦屋根やトタン屋根、窓枠、木立の青い葉の上、地面に打ち付ける、激しい音を聞いてるみたいだ。

 雨だれの中にも規則性があるように、カン―カン―カンと乾いた音が整列して鳴り、深い音、足元まで響いてくる奥深い音がその合間を縫って聴こえる。人差し指で軽くたたく音さえ響く。右手は手首を右左に返しながら指を開いて一本ずつうちあて、左手は手首で縁を抑えて(手首でも打ってる?)とんとん打っているように見えた。

 「楽しめてるこれ?古典の曲でもやろうかな」というと、シチュエーションにあわせて作られたという、俳句みたいに短い曲を続けてやる。

 「クリケットで4点入ったときの曲」(ホームランのようなものかな?ゆっくり余韻を持って消えていく。意外にのんびり。)

 「だるい人と怒っている人の会話」(口でリズムを取ってみせてくれて、それがすごい。あの中に、叩き方と音色が入っているんだろう)

 「機関車の曲」(パンジャブマハラジャがタブラ奏者に汽車の開通を記念して作らせた曲。蒸気や車輪の動くところがある)

 馬の走る音楽っていうのが、馬が地面を飛ぶように駆け、御す人の鞭が入り、加速していくところ(ギャロップ!)がリアルだった。他の楽器と一緒だったら、こんなによぅく聴けなかったろうと思う。ついつい旋律聞いちゃうもの。表目、裏目、掛目、ねじり目、単純な編図の中から複雑な模様編みが現れてくるようでした。

 

 

 

他人の旅行写真を見るほど苦痛なものはない。写真になってる時点でテレビみたいに他人事になっているのに、「へー」「ほー」「これなに?」をうまく混ぜながら相槌を打たなくちゃならないからだ。人んち行ったらアルバムとか見せられて、きついよね。あれ、見ても3枚まで、選り抜き精鋭の3枚にしてほしい。

 彦いちさんがダンガリーシャツに着替えて、パソコンの写真を一枚ずつ披露する。2年前ネパールに行ったんです。へー。エベレストのベースキャンプまで行きました。ほー。

 お蕎麦屋さんのご主人とご一緒したんですけど、その人店休む理由を「出前」って言ってました。あれっ笑える。写真見せたい人は、このくらいのこと言ってくれないとだめだよ。面白い話しながら、3000メートル、4000メートル、5000メートルと山を登っていく。よく行ったねそんなとこ。どうやって撮ったのか、水滴くらいの大きさの星が、空いっぱいに広がった山の写真がある。でも、この写真の説明を彦いちさんはしないのだ。渋いね。

 惜しいのは山であった日本人の女の人が落語家だといっても信じてくれない話。もうちょっとドライに話さないとつまらない。自慢に聞こえる。

 人の旅行なのに面白かった。でも、旅行写真は、やっぱり苦手だ。

新橋演舞場 七月名作喜劇公演 『お江戸みやげ』『紺屋と高尾』

 『お江戸みやげ』

「しわがよる、ほくろができる、腰曲がる、頭ははげる、髭白くなる」って、江戸時代のお坊さんが年寄りのこと言ってて、その他に、「さびしがる」とか「くどくなる、気短になる、愚痴になる」とかいろいろあるんだけど、今自分が着実にその道を辿りつつあることを考えると、夜中に目が覚めて索漠としちゃうことがある。みんなどうやって我慢してるのかな。

 『お江戸みやげ』のヒロインお辻(波乃久里子)は、苦労しているけれど、それを呑み込んで口に出さない賢い女だ。結城の里から、呉服の行商に来た在の人で、散々歩き回って湯島天神の茶屋で一服する。登場した時、とても遠くから歩いてきた感じがし、着物から出ている足を少し開いて座るところが「おばさん」だ。愛や恋は今までもこれからも関係ない、年は取っていくけれど日々坦々とそれを受け入れている女。そんな女が何の気なしに見た芝居にのぼせて、役者の阪東栄紫(喜多村緑郎)に夢中になる。

 最後に「やまとや!」と栄紫を送り出した後、すこし気脱けしたような表情のお辻が、『ローマの休日』の長いエンディング(会見場に一人残るジョー・ブラドレー、恋は去っても人生は続く)を思い出させ、これは索漠を輝かせる小さい美しいおみやげなんだなとちょっと涙出た。

 波乃久里子の最初と最後はすごくいいのだが、「吝嗇」と「酒好き」のスケッチが今一つ。愛嬌多めじゃないと喜劇に乗れない。観客一人一人のこの索漠を乗り切るために、波乃久里子にはもっと頑張ってほしい。仁支川峰子、「油をかけておくれでないよ」「いじのやける子だよ」など今はない言葉をさらっと言い、さすが。けど、もっと強さと重みがないと話が軽くなる。キーを下げてね。

 

 

『紺屋と高尾』

 昔、土曜日の昼下がりにテレビをつけるとたいてい松竹新喜劇をやっていた。アホだったはずの藤山寛美が最後にすごくいいことをいい、ぱーっとお客から拍手がわく。それを見ている小学生の自分。

 今日の『紺屋と高尾』は、なんだか、(子供のころ見たことあるんじゃないか)と思うくらい、懐かしい感じ。パンフレットを読んだら、紺屋の久造(喜多村緑郎)が、毎日藤山寛美のDVDを見たといっていた。そうかー。ハンサムなのに藤山寛美風味。あまりに寛美とちょっと思ったが、型をちゃんとやらないと型から出られないからね。

 大坂の紺屋職人久造が、見物に行った吉原で花魁道中に出遭い、遊女高尾ににっこりされる。一目で高尾のとりことなった久造は、年季奉公の金と一年分の給金を持って、お大尽のふりをして再び吉原を訪れる。

 案内の医者(やぶ)の玄庵(曾我廼家文童)に、つき袖して「おう」とだけいっておれと言われ、久造はずーっと「おう」という。ここ、ニュアンスを変えて客席にもっと細かく伝えないと、単調になる。

 久造と相対する花魁としての高尾(浅野ゆう子)が、すてきだった。戸を閉めて、座る久造を見ながら歩いてくる冷たい色気。三浦屋主人惣兵衛(瀬川菊之丞)と話すときは少し伝法すぎるが、格の高い遊女でありながら、苦界に沈むつらい身の上であることがやり取りや、鳶が空をゆっくりと、自由に飛ぶのをながめている姿から滲み、話を分厚くしている。あと、小紋の着物に黒羽織をつけた高尾が土間に膝をつくと、吉原からついてきた人々が「あ」と悲鳴のような驚きの声を小さくもらすリアルさがよかった。

熱海五郎一座 新橋演舞場シリーズ第四弾 フルボディミステリー 『消えた目撃者と悩ましい遺産』

熱海五郎一座っていうのは、伊東四朗のやってきたような(三宅裕司伊東四朗の白熱した懐メロ合戦をふと思い出す)、東京の軽演劇を受け継ぐ公演なんだって。

 夜の住宅街で痴漢事件が起きる。目撃したのはおばあさんたちだ。観客の目から見て、明らかに別の人、「一応芸能人」の原中イクラ(小倉久寛)が犯人として捕まり、留置所に入れられてしまう。面会に来たのは弁護士の橋上徹(三宅裕司)である。

 イクラは舞台前方にしつらえられた透明ケース(あの、口の所に音が聞こえるよう穴がぽつぽつ開いている奴)の中にいる。ケースの出っ張った角には白いテープがやや幅広に貼られている。下手から歩いてきた橋上は、なんということなしにそのテープの陰に隠れ、そこからイクラをちょっと観察する。ここではっとする。これ、「ふら」ってやつじゃないの。何もしてないのに、なんかおかしいっていう。橋上がただ立っている姿を(おもしろい!)と思ってる自分。朝早いドラマを見ていたら、三宅裕司が出ていたけど、微かになじんでなく、これが映ってなかった、「ふら」が。三宅裕司が鞄からさりげなく「もの」をとりだし、小倉久寛が気忙しく手を動かす繰り返しで笑ってしまう。この二人が痴漢の冤罪を二審までたたかう物語に、原中イクラのデュオの片割れ、美女の安藤京香(藤原紀香)の過去や恋や遺産相続が絡む。歌あり、ダンスあり、フライングあり、渡辺正行ラサール石井春風亭昇太などがきちんと笑いを取っていく。藤原紀香はまだまだだけど、誠実につとめていて、後姿まで取れたての果物みたいだった。筋が薄く、拡散しがちだと思うが、観客が満足しているのが感じられる。南井老人(丸山優子)、かっちり芝居をしていた。深沢邦之、怒られるほど前に出よう。

中村橋之助改め八代目中村芝翫襲名披露 六月博多座大歌舞伎        (2017)

 はしのすけふくのすけうたのすけ、口の中で何度も唱えながら、開演を待ってる。五分前、青白赤のモダンな祝い幕が上手に消え、黒と緑と柿色の定式幕がそれに変わる。橋之助さんには3人も男の子がいるんだねえと思いながら待っている。はしのすけふくのすけうたのすけ。

 今日最初の演目は近松門左衛門の『信州川中島合戦』、その『輝虎配膳』というくだりだ。武田信玄に仕える軍師山本勘助を、敵対する長尾輝虎(中村梅玉)はなんとしても自分のもとで抱えたく、勘助の妹唐衣(中村児太郎)が、長尾の家臣山城直江守(中村鴈治郎)の妻であることから、勘助の母越路(中村魁春)を呼び寄せ、懐柔しようとする。

懐柔、でも、それってそんなにすんなりいかないよなと、越路が嫁お勝(尾上菊乃助)に太刀を持たせて従え、花道から御殿に上がったところで劇場にいる人全員にわかる。娘唐衣が下手に、嫁お勝が上手に控え、脇息と刀掛けをおいて中央で正面を向く。目が違う。鎮座したって感じ。白い切り下げ髪の額に薄墨色の帽子(時代物のしるしなの?)、薄墨色の着物から、手が切れそうに鋭く白い襟元がのぞく。打掛は黄朽ち葉色っていうのか金茶っていうのか、いかにも年寄らしい色だけど浅いグレーとの取り合わせがクールだ。白い顔の目元がふわっと紅くみえ、目の中が深々と黒い。その目の奥の黒さが、舞台全部を統べているように見える。思惑を、知りもしないで見通してしまうような眼差し、それがあるから拝領物の小袖を断っても、「ああ...。」そうですよねと思ってしまう。

お膳を輝虎が直々に運んでくると(はっとする唐衣の伏し目がきれい)、「見るもなかなか忌まわしい」と言いざま、刀のこじりで膳ごと階段から押しおとしてしまう。でも目が冷静。気迫と胆力がある。

怒る輝虎は朱の縁取りのある金の着物を脱ぎ、中に着ていた白の着物を脱ぎ、また脱ぎ、もっと脱いで、怒り続ける。この白は、邪な心はないという意味なのかなー。そういえば越路の襟が白いだけでなく、唐衣の襟も白、お勝の襟も白く、山城守の裏地も白い。唐衣が止め、山城守が止め、とうとう、口の不自由なお勝が琴を弾いて止める。場が泡立ったようになってて、お勝はすごく慌てているはずなのに、琴の音が丸い。しっかり弾かれたいい音がする。振り上げた刀の腕もふと緩むかんじだ。歌舞伎俳優さんって、琴まで弾けて、しかもその琴の音が、心を捉える音でなくちゃならないんだなあ。輝虎は越路を許すことにし、越路は打掛を再度はおり、「ほ」と小さく息を吐いたように見えた。年寄らしい少し角ばった動き、花道を去る老女は、ちょっと腰を伸ばしてみせる。その後ろを嫁のお勝が、なめらかにするすると付き随うのだった。

 

『口上』

口上のときいつも思うのは、頭を下げた俳優さんたちの肩衣が、ぴりっとも揺れないということだ。頭を下げて礼をするという仕草が、踊りとか型と同じように、とても美しい。今回襲名する三人の若い人、中村橋之助福之助歌之助の裃も、ちっとも動かない。若いのにすごいなあ。下げた頭、控えている顔がほんの時折ちらちらするのは、ごくかすかなまばたきまでが客席に伝わっているからだ。口上というのはご挨拶を越えて、心を伝える一つの厳しい芸のように見えた。

 

 

『祝勢揃壽連獅子(せいぞろいことぶきれんじし)』

「夫れ牡丹は百花の王にして」という長唄を聞きながら、どうしてこれ最初狂言師として出てくるのだろうと考える。

獅子頭に長い布のついた手獅子と呼ばれるものを片手に持ち、布の部分を肩にかけた四人の狂言師たち(中村芝翫中村橋之助中村福之助中村歌之助)。能の影響ですと言ったら終わっちゃうけど、リバーシブルの布のように、存在が一度ねじれて続いている。別のものなのにひとつなのだ。手に持っていた獅子に命が吹き込まれて、踊る人(狂言師)が内側に入っちゃうようにみえる。獅子の精に化身する。そこが凄くスリリングだよね。清涼山の描写をする狂言師は、まだ咲きかけの牡丹の花のよう。露に濡れているようにフレッシュだ。そして揃える踊りに迷いがない。橋之助のまなざしの送り方がきれい。見るとこ多くていそがしいな。音楽が急になり、仔獅子が突き落とされるくだりになる。芝翫さんとこの仔獅子、そう簡単に突き落とされたりしない感じ。気迫がこもっているし、何よりこの人たちが、芸の厳しさを知っているのがわかる。低く高く、四人で輪を描く。花道の所で芝翫さんが三人の引っ込むのを見送り、にっこりする。それが莞爾というか、「にっことわらい」という文章を思い出すような笑顔で、襲名のうれしさみたいなところに観客も思い至る、いい笑顔なのだった。

ここで場面はちょっと変わり、高僧の伴をして清涼山にやってきた萬年坊(中村松江)と長楽坊(中村亀鶴)が、目の回るような高い橋の恐ろしさを振り払おうとお酒を飲み、酔って舞う。二人の師匠昌光上人(中村梅玉)と慶雲阿闍梨中村時蔵)が登場し、彼らの清らかな思いのせいか、文殊菩薩坂田藤十郎)が顕現する。揺れる瓔珞。清い有難い感じ。五人の人たちがすーっと舞台下に消え、そこから親獅子と三人の仔獅子の精が現れる。仔獅子のきゅっと結んだ口元に入った朱の色がきっぱりしていて、赤いかしらの前髪がおかっぱみたいでかわいく、緑に金糸の衣裳も鮮やかだ。穉いけど強そう。こんなフィギュアがあったらほしいな。どの獅子も、歌舞伎の決まったときに開いた手みたいに、ぱっと体の隅々まで気力が充実している。かしらを左右に振ったり、叩きつけたり、回転させたり、その回転が倍速になったりする。舞台の後ろに青い空と、大きく咲いた牡丹の花が、クローズアップで見えました。

 

 

『幸助餅』

グレーの霰模様(?)の着物の襟に、たっぷり綿が入っていて、襟元が大きくくつろげてある。上半身が強そうに、分厚く見え、それに高足駄、っていうか、普通の下駄の倍ほど背の高い下駄をはいているので、見たところがもう、立派な関取だ。千代の富士以来、お相撲さんをかっこいいと思うことをわすれていたけど、雷(中村亀鶴)は精悍な威のある大関で、餅米問屋の大黒屋幸助(中村鴈治郎)が、没落するほど相撲に入れあげたのは、雷の向こうに透けて見える、一番一番、勝ち負けのはっきりつく、真剣勝負の熱さと厳しさなのだということがよく解る。

幸助は商売が立ちいかなくなり、妹お袖(中村児太郎)をかたにした三十両で、何とか盛り返そうとしている。桜の花の木の間がくれに現れた幸助の着物はよれよれ、三ッ扇屋の女将お柳(中村魁春)によくよく言い含められるけど、ちゃんと聞いてなかったねと思うくらいあっさりと、大関昇進を知らせてくれた雷に、その三十両を祝儀として渡してしまうのだ。そしてまた、たしなめられると返してくれという。あー。ねー。ここが幸助の性根の甘い所で、残念なところ。

雷は返してくれない。悔しさのあまり、雷の羽織の紐を引きちぎった幸助は、商売に励み、幸助餅と呼ばれる名代の餅屋として知られるようになる。引きちぎった紐が、額に飾られているのが、ちょっと可笑しい。幸助餅の店先に雷が現れ(登場した瞬間、「かっこいー」といってしまう)、茶代に三十両を置いていく。追いかけた幸助に雷の心底がわかり、大団円。

登場の雷、もうちょっとだけ、自分の間で、ゆっくりあるいてほしかった。あと、幸助の甘い所に時間をかけて、愛嬌が描写されてたらなー。お芝居の尺が、伸びちゃうだろうか。

ブルーノート東京 ビル・フリゼール

 白黒のエレキギターテレキャスターというんだって)を抱えたビル・フリゼールとメンバーが舞台に上がる。拍手。

 ビル・フリゼールが、「Thank You」という。静かな声だ。そしてルディ・ロイストン(ドラムス)、トーマス・モーガン(ベース)、ぺトラ・ヘイデン(ヴォーカル)とやっぱり静かに一人ずつ紹介する。時計(?)を外し、ペグを調整する。ドラムスのルディ・ロイストンはドラムスを目でチェックする。その間、ベースのトーマス・モーガンとぺトラ・ヘイデンは少しうつむいて待っている。その姿は、何か敬虔な感じすらする。

 ぽつん

 ギターの音が鳴り、雨が一粒降ってきたような気持になる。

 ぽつん

 もう一度ギターの音が聴こえると、雨はスーパースローになり、水面に落ちてゆく水滴の形を目で追っているようだ。そこへ、そっとやってきて静かに、ながく鳴らされるシンバル。

 アルバムで聴いているのと違う。アルバムで聴くときは、映画音楽の有名な旋律をどうしても追っかけてしまうのだったが、ここでは違うことが起きている。ぴったりくっついた自明の事柄の間に生まれる何か。うすいクレープを何層も何層もクリームで挟んだお菓子のミル・クレープのことを考える。クレープを一枚、破れないように剥がしているみたい。いや、水で濡らした古い水彩画の裏打ちを、丁寧にピンセットで持ち上げて、水彩画の元の色を探っているみたいだ。確かめながらの一音一音が響いてくる。水彩画と裏打ちの間に新しい層ができて、徐々に広がっていく。奇妙で不思議な音の層が生まれる。ビル・フリゼールは急がない。できたばかりの音の層を、今すぐ広げようとしない。そーっとそーっと、隙間をつくりだし、その中に入り込んでいく。

 When You Wish Upon A Star。ぺトラ・ヘイデンの声は明瞭だけど、デリケートに絞られている。スキャット(?)の繰り返しを聞いていると、不思議な謎の森に迷い込んでしまったと思い、メロディが始まっても、その感じはかわらない。ぺトラ・ヘイデンは肱の少し上でスリットになった広がる袖の素敵なワンピース。白地にピンクとグリーンの大きな柄だ。

 To Kill A Mocking Bird、ヴォーカルが細く甲高く歌うと、不可思議感が倍増しだ。とおくから近くから聞こえてくる木の妖精の声のよう。下降する有名な節をやらないでいる。ぺトラ・ヘイデンがマイクの前から下がり、ドラムスが静かに手数(っていう?)を増やし、ベースが聴こえ、不意に暗い森の中の空き地に出たみたいになり、その開けた場所に立っている。これってフリージャズ?音が斜めに降ってきて、考えているうちにこの映画音楽の主題が出てくる。かっこいい。なんか、よく知っている自明の歌(旋律だけの単純な世界)が新しくなってジャズとつながった瞬間を見たような気がした。ひと筆ひと筆に、そっと息を吹き込んで、古い水彩画を新しく蘇らせているようなライヴだったのでした。