カクシンハン第11回公演 『タイタス・アンドロニカス』

 おもしろい!と驚愕し、さっきまであんなにパンフレット1500円に拘っていたのを忘れる。

 可動式の低いイントレに白い覆いが、いい具合に末枯れた感じで継ぎ目の皺を見せている。その上にぎっしりと立つ登場人物たち。エアロンになる俳優(岩崎MARK雄大)が、階数を英語で唱え、それは42階まで上昇するエレベーターだ。上がったエレベーターは急降下をはじめ、皆を時空を越えたところまで運んでいく。

 皮きりにサターナイナス(のぐち和美)が話し始めた途端、セリフの明晰さ、美しさに幸福感が押し寄せる。ちいさな目を見張ってみせるローマ人。聴きたくない話を聞きながら、爪をナイフで削っているローマ人。イントレの下に押し込まれたタモーラ(白倉裕二)の鍛えられた裸体が、幕のたるみや皺のトーンとよくあって、生々しく、スキャンダラスで、よく知っているような、全く知らないような、異国的な感じがする。

 この後木村龍之介の演出は、エアロンに変身していく岩崎の英語を使って、善悪というものが、いかに相対的であるかを簡単に説明する。これ、どうなのか。異化?間口を広げる?説明しすぎでは?

 シェークスピアは復讐ってなんだろうと深く考えていたと思う。カクシンハンの『タイタス・アンドロニカス』は、「穴」のなかで終わる。いつかスウェーデンの人に聞いたベルィマンのハムレットにもちょっと似ている。現代的な復讐の果ては、こうして何もかも終わってしまうっていうのが正解なのかもしれない。しかし、エアロンの子供への愛は、実はEVILそのもの、「生存への執着」、子供は「さらに続く復讐の元凶」なのではないだろうか、とちょっと考えたりした。この劇団にパンフレット1500円、全然払う、もっと払う、さらに大胆な、さらに美しい表現が生まれますようにと思った。

杉本文楽 『女殺油地獄』

 世田谷パブリックシアターの舞台の丈いっぱいに広がる大きな暗がりを、こちらも目をいっぱいに見張って見上げる。人形になったような気がする。あの暗さの向こうに、今日あたしが繰り出す膝、伸ばす指先の、決められた道筋があるのだ。そしてその先にキメラレタ死がある。てなことを考えながら舞台をながめていると、真ん中を止めて目のようになった幕が下りてきて、ひとつ、二つと柝の音がする。笛がなり、いわゆる「薄どろどろ」になって、鬼火が青く光る。中央に何か点々と光るものがあり、それが老人の人形の、着物の柄が光っているのだとわかってくる。老人は下手や上手でちょっと伸びをしてみせる。近松門左衛門。惜しい。このマイクに乗せた門左衛門の音が、不用意。それとどうして関西弁じゃないのか。近松自身による解説が済むと、三味線が三挺登場(鶴澤清治、鶴澤清志郎、鶴澤清馗)。たわんだ、ふしぎなアルペジオが聞こえてくる。湿気を含んだ空気が次第に重くなり、雲を呼び、暗くなる。手探りでゆっくりと、嵐の方へ、キメラレタ死の方へ、追いやられていく。三味線の糸の上を、しゅっと指を走らせるのが、嵐の息みたいだった。

 この後は素浄瑠璃(竹本千歳太夫、鶴澤藤蔵)で不良少年河内屋与兵衛の父親と母親との、子どもを見捨てることのできない辛い親ごころのくだり。子供って、絶対に姿が見えないとわかっていても、いつまでも曲がり角を振り返って様子を見てしまうような、諦めのつかない、始末に悪い、かわいいものなんだなと思った。

 とうとうお人形が登場する。深い舞台から、まず豊島屋女房お吉、それから間をおいて与兵衛。お吉を見守る与兵衛の気配が不吉。眼窩がかげると、怖い顔に見える。「不義になっても貸してくだされ」の所を近松人形が説明していたけど、それは説明じゃなく、芝居で見たい。凄惨な殺しの後、静寂にいつまでも滴る音がよかった。

日本総合悲劇協会 vol.6 『業音』

 〈好きなのにあの人はいない〉明るく暗く危険な愛の歌謡曲が女の声で次々にかかる。7か所で吊られた白い幕。緩んでる。〈あなたと会ったその日から恋の奴隷になりました〉幕の後ろに広がるのは、白く塗られた壁で、キルティングのようなランダムなふくらみを持っている。〈わたしはー、あなたにー、すべてをー、あずけたー〉なんとなく、幕ではなく膜だと思う。空調の風で幕がうっすら動き、たわみの襞が消えては現れる。この幕いきてる、とぞわぞわ来る。他者、とおもう。松尾スズキにとってそれは、女のことだ。ここにたくさんの時計がかかっているのは、女の月経や、子どもを持つリミットを表わしているのかもしれない。予期せぬ生理現象も他者なのだろう。

自殺願望の強い男堂本こういち(松尾スズキ)の妻杏子(伊勢志摩)は元アイドル歌手の土屋みどり(平岩紙)の車にひかれ、植物人間になってしまう。怒った堂本はみどりを拉致して無理やり妻にする。ここに宇都宮から出てきた兄妹(宮崎吐夢池津祥子)や、杏子に引き取られていた老婆財前(宍戸美和公)やゲイの丈太郎(村杉蝉之介)がからみ、魂と肉体、神と業をめぐる物語が進行する。

 予想もつかず、憎むこともできない他者、もしそれを拒絶するのであれば、丈太郎のようにゲイとなるしかない。しかし、丈太郎もまた限りなく自己増殖したいという業に取りつかれている。「生殖」も「テロ」も業だ。そしてどうやらその業は皆、自己愛から生まれている。松尾スズキは口(聖)から尻の穴(俗)を強い線で貫き、さらにそれをひっくり返してみせる。最後に他者みどりはスティグマとともに一人残される。この扱い、どうなのか。Go on。ただの女嫌いに見える。終幕弱く、スティグマが聖化したように見えないのである。役者はみんなよく、ダンスが素晴らしい。

渋谷TOHO 『メアリと魔女の花』

 『君の名は』があんなに当たったのは、6年前のあの地震津波の傷を、語りなおして慰め、なだめ和らげてくれたからだ。大きな天災に遭ったあのトラウマと同じように、原発事故のこと、原子爆弾のことも、日本に住む人々の深い傷になっている。あの時、爆発させないために、取れた手立ては何か。どんな態度で、臨めばよかったのか。『メアリと魔女の花』は、それを語りなおしてくれているように見える。鎮めたい。苦痛を軽くしたい。これは私の、良心の痛みなのだ。

 米林が作った『借りぐらしのアリエッティ』『思い出のマーニー』に比べて、この作品は数倍面白く感じる。冒頭から観客を燃える森に連れ去り、圧倒する。ほうきに乗った少女が凄い勢いで追手から逃げる。腕のような黒雲が、少女を掴もうとする。どのシーンにも、宮崎駿の刻印がくっきりと押されている。しかし、米林は宮崎から、もう逃れようとしていないし、追いかけようともしていない。宮崎駿の影響を、ストーリーテリングの骨法として受け継ぎ、自分の物語を語る。宮崎は私たちにとって、大切な「語り手と受け手の共有財産」となっているのだ。

 少女メアリ(声:杉咲花)の日常を囲む人々、シャーロット大叔母(声:大竹しのぶ)、お手伝いのバンクス(声:渡辺えり)、庭師ゼベディ(声:遠藤憲一)がトーンを抑え、静かな声を出すのが、とても好ましい。残念なのはピーター(声:神木隆之介)のキャラクターデザインと脚本が、生き生きしていないことだ。神木隆之介がどんなに頑張っても、ただハンサムな少年に見えた。

 動物たちをみると、原発事故で街に放たれた牛や馬を思い出し、心が激痛だ。メアリが花を捨てると潔さにほっとする。そして現実が、そのように進んでいないことを思い、再度胸が激痛なのだった。

明治座 『ふるあめりかに袖はぬらさじ』

 幕末、横浜の港崎遊郭岩亀楼。病に伏せる亀遊花魁(中島亜梨沙)の世話をやく芸者お園(大地真央)。亀遊はアメリカ人イルウス(横内正)に気に入られてしまい、思う人にも裏切られたと思って剃刀で自害する。それがいつのまにか、立派な辞世の歌を作って死んだ攘夷の志と評判になり、その死を発見したお園は、亀遊を語ってちょっとした人気者だ。話はどんどん実際の亀遊のそれと似ても似つかぬものになっていく。噂を聞きつけて、攘夷派の侍たちが岩亀楼にやってきた。

 通辞の藤吉どん(浜中文一)の、二幕初めの歌いだし「いつか」、ここが、綺麗で集中力があり、よかった。憧れと希望とデリケートさが詰まっていた。藤吉の芝居で一番重要なのは、愛する亀遊に通訳をしながら裏の本心を告白するのに、表から見るとそれが亀遊を売り買いする言葉になってしまっているところだ。もう少し亀遊を意識しているのがわかるようにやってほしい。

 大地真央のお園は、一幕、せりふを全て音楽的にしゃべる。せりふのひとつひとつが譜になっているようで、決して音を外さず、乱れない。二幕のコミカルなシーンでは、逆に堂々と外してくる。かっこいいと思ったが、閉めっきりの部屋で寝ている亀遊への同情心を示すため、あの場で一か所くらい破調が必要だと思う。

 岩亀楼に浪人たちがやってきたとき、刀を携えている手が左右まちまちなんだけど、あれは、①左手(今にも斬られそう)、②右手(そうでもない)、③左利き、どれかな。

 「うそ」と「ほんと」をめぐる面白い音楽劇となっているが、「圧し潰されていくほんと」「圧し潰されている女の人」の芝居としてはどうかなあ。少し物足りない。思誠塾の人々が冒頭ユニゾンでなく二声でうたい、なにかはっとした。

彩の国さいたま芸術劇場 蜷川幸雄一周忌追悼公演 『NINAGAWA・マクベス』

 劇場を入った途端、巨大な仏壇の白い格子の引き戸(閉じている)が目に入り、「きゃー」という。2015年の公演を観ているのに、胸がときめく。真ん中にその引き戸、両側に舞台端までいっぱいの、金色の扉金具を飾った大きな黒い木の折り戸が一組ずつ、その上は四つに区切られ、雲のような金の模様が四つ並ぶ。天辺に鳳凰とおぼしき金の浮彫。折り戸には縦にまっすぐに板目が浮いて、時代のついた「古さ」を表わしている。眺めながら、蜷川さんは年に何回も何回も観客をわくわくさせていた、と思い、悲しいような、ありがとうというような気持が同時に来る。アンバーと水色の光が引き戸を照らす。生と死。仏壇は、生者の時間と死者の時間が、共に流れるところなのだ。

 私田舎者だからはっきり言う。この作品は、もう蜷川さんのものとは言えない。何故なら、俳優が自分の持ち場を一生懸命やりすぎているからだ。その結果、皆が皆、自分の一番いいせりふを「たてている」。せりふとせりふの間もあき、ひとつづりのせりふ全体の印象が薄くなったり、ぼやけたりする。マクベス市村正親)の「バーナムの森が、ダンシネーンに向かってくるまではな」というせりふは目立ちすぎているし、マクダフ(大石継太)があらわれて、死闘を繰り広げるまでの間合いは、本人もパンフレットで触れている通り、後期の萬屋錦之介をあまりにも強く思い出させる。

 マクダフが妻子の死を知らされる、知らされてからの芝居が素晴らしかった。知りたいが知りたくない。全身が慄え、どこにもなかった大石だけのマクダフである。ダンカン(瑳川哲朗)の死を知って動転する所(声が迫真でない)と、マクベスを戦場で発見する所(体に沸き立つ戦場の興奮がない)を、がんばってほしい。このお芝居イギリス行くんでしょ。井上尊晶さんも、がんばってください。

新国立劇場小劇場 JAPAN MEETS...―現代劇の系譜をひもとく―Ⅻ『怒りをこめてふり返れ』

 遠い奥の扉の向こうに白い光が射し、手前に向かって、大きくしっかりと遠近法で作られた屋根裏部屋。横に並列に見るのではなく、縦に、扉から戸棚、台所、ダイニング、居間が仕切りなく見通せる斬新な配置だ。屋根裏自体が、差し掛け部屋のように三角形をしている。下手手前の窓の横にドレッサー、その後ろにダブルベッド、中央手前に肘掛け椅子が二脚、上手にレコードプレーヤーやロッキングチェア、すこし離れた上手の奥にアイロン台が出ている。

 静かにポニーテールの娘(アリソン=中村ゆり)が登場し、アイロンのスイッチを入れてからロッキングチェアに座り、思いにふける。ベッドの窓から風が入り、白いカーテンが揺れる。うすい珊瑚色に見えるカーディガンに、リバティプリントの手作り風ワンピース。芝居が始まると、この女の人が、怒りでいっぱいの、とんでもない夫(ジミー=中村倫也)と一緒にいることがわかってくる。有り余る知識、正義への絶望、階級社会に対する怒り、子どものような無垢、女への憎しみ。全てがない交ぜとなって狭くて広い屋根裏に充満する。(このセットは不思議だ。アイロン台やテーブルが、ある時は2メートルもある巨人の為に作られているようで、登場人物たちが小さく頼りなく思われ、またある時は人物が等身大より大きな存在に見える)大きく見えるジミーは、アリソンを責め続け、緩衝材となる同居人のクリフ(浅利陽介)が、自分がいなかったら二人は既に終わっていたろうと語ると、終わらせていた方がよかったのにと思ってしまう。中村倫也はじめ皆けん命に演じるが、なぜいまこの芝居を?と強く感じる。アリソンの友人ヘレナ(三津谷葉子)は、賢い、辛くも虎口を逃れた女に見えた。50年代のイギリスに対する、私のお勉強が足りませんでした。