渋谷TOHO 『三度目の殺人』

 ピーンと聴こえるピアノのような耳鳴りのような音、現れた三隅(役所広司)は、白っぽい眼をしている。凶いことをする人の眼って、あんなふうに白っぽく見えると思う。ところが、この30年前に強殺の前科を持つ男は、わけがわからない。強盗目的ですねと言われるとそうですと答え、保険金目当てで殺したのですねと言われてもそうですと答える。弁護士の重盛(福山雅治)は弁護方針を変更し続けながら、三隅の二度目の事件に引きずり込まれていく。

 この映画で大事なのは、「わけがわからん」ということだろう。世の中にはわけがわからないことがあるのだ。それを裁く。「わけがわからん」のために精巧なデコパージュ絵画のように腕利きの俳優たちによる演技が積み重ねられ、クローズアップが多用され、夢のような雪景色が映る。三隅と重盛は、どちらがどちらなのかが次第に不分明となり、最後のシーンで現れた三隅は、まるで死刑囚のもとに来た教誨師のようだった。

 しかし、なぜか思い出した『シークレットサンシャイン』で犯人が突然聖性を帯びたときのあの驚き(デコパージュを突き破って教会の塔が出たみたいな)に少し欠ける。みんな、「わけがわかって」いるんだろうなー。唯一「わけがわからん」のは斉藤由貴の演じる母親で、たぶん、この人は自分の「わけがわからん」のだろうと思う。デコパージュの後ろに、黒く穴が開き、巣食っているひっそりとした生きものが見えるようだった。次回も期待。

 空っぽの三隅と翻弄される重盛の関係はよく考え抜かれているし、広瀬すずは難しい役だが品のある芝居で演じきった。でもこの設定を差し出されるのに戸惑いがある。どちらも手つきがあまりに「わけがわかる」のである。

博多座 『坂東玉三郎×鼓童 幽玄』

 お能の鼓の拍子は、続けて強くたたかないのがものすごく印象的だ。同じ間合いで、つぎもやっぱり大きないい音が来るだろうと、観客の身体が予測して待ち受けているのに、それをすかすように、外すように、ごく小さな、デリケートな拍子が鳴る。受け手のアンテナの、極大と極小を、連続して揺さぶってくる。そうするとそのあと現れた演じ手が、振れの合間から、揺らめき出てきたみたいに見えるのだ。演じ手の心の産毛がそそけ立つ極小の世界と、演じ手の立つ曠野の広がりが、同時に目に浮かぶ

 舞台下手から静々とすり足で登場した14人の太鼓の打ち手は、両手の撥を交互に素早く動かし、太鼓の縁から真中まで、音の大きさをちがえて鳴らし続ける。小さい時は、観客席の咳きで聞こえなくなりそうな、微かな音だ。なんか、儚いなあとさびしくなってきそうだ。しかし、そこに集中し、心のチューニングを合わせることはできない。太鼓はまた、激しく、大きく鳴るからだ。あの、能のこころの揺れる感じ、それが太鼓で演じられる。下手から上手、上手から下手、一人ずつがおなじフレーズを続けて打って、音が渡る。笛(能管?)。お謡い。うすい水色の着物に、やわらかい黄褐色の袴をつけた若い人(白龍=花柳壽輔)が長い竿を持って登場した。まわりに踊り手がいて、白龍を囲んで船になったりその舳先で割れる波になったりする。白龍は見つけた羽衣を天人(坂東玉三郎)に返そうとしない。弱音の拍子がうつくしいが、天人が近づくと拍子が激しくなる。お謡いが、ブルガリア合唱みたいだなー。和音じゃないけど合ってるみたいな。不協和音なのに美しいみたいな。

 天人の冠から飾りの瓔珞が4本垂れていて、それがちらちらし、白い顔と赤く彩った目元を照らす。その揺れで、体全体が不安定に見える。そのせいでお能っぽく見えなくなるのは残念だけど、いるのかいないのか、この人、というところに気持ちが行くのはいい感じだ。天人は二つに分かれた太鼓の山台(?)の間に消え、返してもらった羽衣を身に着けて舞う。うつくしい。能面というのはこういう人のこの一瞬を永遠にするために考え出されたんじゃないかと思うなー。天人が足を上げて地を踏む、きっぱりと。扇を広げると飛んでるみたい。まわりに踊り手が来て、扇を動かすと、確かに風が起き、天人を高い所へ運んでいく。踊り手たちの扇が集まって、霞や雲になる。ふりかえる扇の美しさ。そして、銘々が扇をぱちりとしまう。あれ、今のゆめだったんじゃないのとその「ぱちり」の仕草が云う。

 裸足で腰に太鼓を斜めに提げた人たちが並ぶ。黒いベロアのような、ビロードのような、躰に貼りつく服だけれど、全然肉感がでない。太鼓を叩くのに必要な、厳しい筋肉が見て取れるだけ。なんというか、颯々としている。大きさも皮の張り方も違う太鼓は、色もばらばらだ。右足を少し前に出し、左足で体を支える。右の踵が少し浮いている人もいる。太鼓を聞いているうちに、観客席をさまようように、灯がやって来る。両手に灯を一つずつ持って、ゆっくり舞台に迫ってくる人々。ホリゾントに灯が這い登る。千灯供養を思い出す。弔っても弔っても消えない妄執。道成寺の娘(白拍子坂東玉三郎)は、邪恋の妄執で蛇体に変わる。蛇に変わっちゃったりしたら相手どんびきだし、恋にならないよね、とちょっと思うけど、「恋」と「恋の執念」は、別のものなのかもしれないな。愛ってホントに手に余る。

 金の烏帽子をかぶり、胸に小さな太鼓をつけて娘が踊り始めると、確かに女は太鼓を鳴らしているけれど、舞台に響く鼓童の太鼓の情炎に、鳴らされてもいるのだと思う。そのまなざしは蛇であって、同時に女でもある。そして彼女は太鼓なのだ。扱いかねる重い情念が、さっと舞い上がり、若い打ち手三人(颯々としている)のつくりだす仏像の前で、消えたように見えた。

 このあと、今回のプログラム中で、唯一、思い切り大きな太鼓を打つシーンがある。石橋の獅子を予告しているのだろうか。白いカシラがするすると現れると、揃えた前髪がふわっと風で乱れ、この鬘がどんなに軽いか(扱いにくそう)がはじめて感じられた。4人の獅子は鬘の両端をしっかりと手に持ち、くるりくるりと毛を振ってみせる。横に体を倒すように傾けたり、上下に首を振ったり、かしらは生き物のように鮮やかに動く。柿色の袖。白地に五色の袖。おおきな模様の金銀に光る上衣。白と赤の牡丹の花を持って美しく舞い納める。カーテンコールが何度も続いた。

新国立劇場小劇場 シス・カンパニー公演 KERA meets CHEKHOV vol.3/4 『ワーニャ伯父さん』

 揺れる葉叢、大きい葉、小さい葉、浅瀬で模様を描いて透明に盛り上がる小川の水、花、滴をためるくもの巣、丸く差し込む日の光。景色をぼーっとみていると、一つ一つが異なる音を発しているような気がしてくる。「調子」を感じる。このケラリーノ・サンドロヴィッチ演出の『ワーニャ伯父さん』にも、はっきり「調子」がある。

 婆やのマリーナ(水野あや)が編み物をし、エレーナ(宮沢りえ)はお茶を飲み、ヴォイニーツカヤ夫人(立石涼子)は読書に余念がなく、アーストロフ(横田栄司)は疲れ、ソーニャ(黒木華)は恋を隠す。ワーニャ(段田安則)はエレーナに魅かれていて、おおっぴらに大仰にそれを語る。

 交錯する思惑の違い、人々の佇まいのそれぞれの音が絡み合って、本当に美しい。その美しさは、「100年たったら」この絶望や哀しみが消えてしまう、覚えられてやしない、ってところから来るのだ。

 アーストロフが統計グラフをエレーナに見せて説明するが、エレーナはアーストロフのことを考えていて、アーストロフをじっと見る。こことても可笑しい。アーストロフは情事(森の番小屋)を思い、エレーナは「一生に一度」の恋を思う。この調子のくいちがい。可笑しく、悲しい。

 エレーナが出ていくと叫び、ワーニャが自分の行為にショックを受け、ソーニャが婆やを呼ぶシーン、ケラはここを3人とも同じ調子の音にそろえるのだが、私は高さの違う音の方がいいと思う。

 セレブリャーコフ(山崎一)が、明らかにそんなには痛くない痛風で大騒ぎしているほかは、案外嫌な奴ではない。ワーニャのあれほどの絶望を誘い出す、とすれば、もう少し絶対的なのでは。黒木華の凛とした声と心に動く恋のかげが、芝居を深いものにしている。

FUKAIPRODUCE 羽衣 第22回公演 『瞬間光年』

 暗い舞台。波の音。スモーク。

 ランダムに4つ下げられたやや大きめの電球に、飾りのシートがうろこみたいに貼られている。宇宙のただなかに、電球のように吊るされて、自分のつま先越しに、底深い闇を見る。

 窓を開けようとしている男(男ちゃん=キムユス)。男がなかなか心を決めないので、窓がどこの窓だかわからないし、男の足元でうごめく四人の、とても性的な感じのするものたち(淀んだ空気=日高啓介、岡本陽介、飯田一期、石川朝日)が何なのかよく把握できない。やっと、男が窃視者などではなく、自分の部屋の窓を開けるかどうか考えているのだと知る。彼は窓を開けないことに決めた。その日買ったスツールが、宇宙船に変わる。男のリビドーが、宇宙船を飛ばす。宇宙船は太陽系の星を巡る。次々に抑えきれぬ性(さが)を背負った男女(うち一人はAI)が登場し、抑えきれない自分を語る。彼らは超新星となり、星の運命をたどる。

 白のオーガンジーで出来た淀んだ空気たちの衣装が奇妙で秀逸。白い全身タイツの顔のまわりをふわっとしたフードが二重に覆い、胴のあたりで三角形を構成し、足元をゆったり囲む。何というかこの衣装がとても「本気」である。笑ったりできない。プロのものとして真剣に受け止められる。この「本気」が、美しく歌わない羽衣の歌唱、綺麗に踊らない羽衣の踊りを支えている。前回の、目がこそばゆくなるような宮澤賢治的センスは影を潜めた。

hand clap man(岡本陽介)の壁に手を添えて立っている姿が昔の人気スターみたいで可笑しい。インドに行くといった時、当然、ボリウッド風をアレンジした踊りが見られる!とわくわくしたのに、素通りして残念。収拾のつかない膨張と爆発を、一言でおさめた手腕に感心した。

シアターコクーン・オンレパートリー2017 『プレイヤー』

 先週お能観たばっかりだからかもしれないが、異界って、目に立たないほどのゆるやかな坂をすり足でのぼり(あるいは下り)、気づかぬうちにたどり着いている場所なのだろうと思う。あるけどない、ないけどある、そんなところ。作者の前川知大も、異界について、パンフレットで能楽師の方と対談していた。

 地方の公共劇場が主催の、演劇公演の稽古場。地方の俳優、若手、有名ベテラン俳優があつまって、今は亡い新人作家の「PLAYER」という芝居の稽古をしている。「PLAYER」では、ある瞑想ワークショップの団体の中に、「死者」となって友人の肉体(それをPLAYERと呼ぶ)を通し蘇ってくるものが現れる。死者を通じてこの世界を再生しようとする指導者時枝(仲村トオル)に、警察官桜井(藤原竜也)は次第に浸潤されていく。

 入れ子構造の二重の芝居というけれど、そもそも演劇が皆で何かを共有し、テキストの言葉を立ち上げる「PLAYER」のものなので、実際には三重四重の複雑な構造である。最後の気が付いたら違う場所にいる感じが飛びぬけて素晴らしい。観ている私も浸潤されたと思うのだった。

 ただ、カルトの人々の言っていることがとても紋切り型で入りづらく、芝居の奥行きが能のあの、「観たこと全て夢」の「なかった感」に及ばない。「わたしという個人から解放される場所」と時枝が云うと、すぐに禅や能のことを考えたのに、馬場(本折最強さとし)の冥界めぐりのシーンなど浅く、「なま禅」風に仕立ててあるのかなーと思った。

 藤原竜也、冒頭の役に入り込む瞬間がわかりにくくて、そこが好き。足の裏がちょっと狭くて、場の空気がもひとつうまく吸えてない。白石加代子に似せた声は、あまり効果的でないと思う。

カクシンハン第11回公演 『タイタス・アンドロニカス』

 おもしろい!と驚愕し、さっきまであんなにパンフレット1500円に拘っていたのを忘れる。

 可動式の低いイントレに白い覆いが、いい具合に末枯れた感じで継ぎ目の皺を見せている。その上にぎっしりと立つ登場人物たち。エアロンになる俳優(岩崎MARK雄大)が、階数を英語で唱え、それは42階まで上昇するエレベーターだ。上がったエレベーターは急降下をはじめ、皆を時空を越えたところまで運んでいく。

 皮きりにサターナイナス(のぐち和美)が話し始めた途端、セリフの明晰さ、美しさに幸福感が押し寄せる。ちいさな目を見張ってみせるローマ人。聴きたくない話を聞きながら、爪をナイフで削っているローマ人。イントレの下に押し込まれたタモーラ(白倉裕二)の鍛えられた裸体が、幕のたるみや皺のトーンとよくあって、生々しく、スキャンダラスで、よく知っているような、全く知らないような、異国的な感じがする。

 この後木村龍之介の演出は、エアロンに変身していく岩崎の英語を使って、善悪というものが、いかに相対的であるかを簡単に説明する。これ、どうなのか。異化?間口を広げる?説明しすぎでは?

 シェークスピアは復讐ってなんだろうと深く考えていたと思う。カクシンハンの『タイタス・アンドロニカス』は、「穴」のなかで終わる。いつかスウェーデンの人に聞いたベルィマンのハムレットにもちょっと似ている。現代的な復讐の果ては、こうして何もかも終わってしまうっていうのが正解なのかもしれない。しかし、エアロンの子供への愛は、実はEVILそのもの、「生存への執着」、子供は「さらに続く復讐の元凶」なのではないだろうか、とちょっと考えたりした。この劇団にパンフレット1500円、全然払う、もっと払う、さらに大胆な、さらに美しい表現が生まれますようにと思った。

杉本文楽 『女殺油地獄』

 世田谷パブリックシアターの舞台の丈いっぱいに広がる大きな暗がりを、こちらも目をいっぱいに見張って見上げる。人形になったような気がする。あの暗さの向こうに、今日あたしが繰り出す膝、伸ばす指先の、決められた道筋があるのだ。そしてその先にキメラレタ死がある。てなことを考えながら舞台をながめていると、真ん中を止めて目のようになった幕が下りてきて、ひとつ、二つと柝の音がする。笛がなり、いわゆる「薄どろどろ」になって、鬼火が青く光る。中央に何か点々と光るものがあり、それが老人の人形の、着物の柄が光っているのだとわかってくる。老人は下手や上手でちょっと伸びをしてみせる。近松門左衛門。惜しい。このマイクに乗せた門左衛門の音が、不用意。それとどうして関西弁じゃないのか。近松自身による解説が済むと、三味線が三挺登場(鶴澤清治、鶴澤清志郎、鶴澤清馗)。たわんだ、ふしぎなアルペジオが聞こえてくる。湿気を含んだ空気が次第に重くなり、雲を呼び、暗くなる。手探りでゆっくりと、嵐の方へ、キメラレタ死の方へ、追いやられていく。三味線の糸の上を、しゅっと指を走らせるのが、嵐の息みたいだった。

 この後は素浄瑠璃(竹本千歳太夫、鶴澤藤蔵)で不良少年河内屋与兵衛の父親と母親との、子どもを見捨てることのできない辛い親ごころのくだり。子供って、絶対に姿が見えないとわかっていても、いつまでも曲がり角を振り返って様子を見てしまうような、諦めのつかない、始末に悪い、かわいいものなんだなと思った。

 とうとうお人形が登場する。深い舞台から、まず豊島屋女房お吉、それから間をおいて与兵衛。お吉を見守る与兵衛の気配が不吉。眼窩がかげると、怖い顔に見える。「不義になっても貸してくだされ」の所を近松人形が説明していたけど、それは説明じゃなく、芝居で見たい。凄惨な殺しの後、静寂にいつまでも滴る音がよかった。