シアターコクーン・オンレパートリー2017 『24番地の桜の園』

 くしだかずよし、攻めてる。そこにすごく吃驚する。尊敬する。この攻めの姿勢を評価するかどうかで、作品の評判が、変わっちゃうんだろうなー。

 ヒロインのリューバ(ラネーフスカヤ夫人)を親しみやすい小林聡美が演じる。原作に、「気さくで、さばさばして」(神西清訳)いるとあるから、適っているけど、日本では、本当に貴族だった人などが演じているので、ここも「攻め」だとおもった。

 閉じている舞台には濃緑色の羅紗を思わせる幕がかかっている。ビリヤード台の感触。ツークッションでセンターポケットへ、とレオニード(ガーエフのこと=風間杜夫)のセリフが聞こえてきそうだ。

 リューバやアーニャ(松井玲奈)の衣装が、頭と手足が木で出来た布人形のそれのようでものすごくかわいく、フィギュアがあったらほしいくらいである。窓やドアのついた壁は使用人たちの人力で滑るように動き、主人たちは労せずに家の内外を行き来する。一幕の照明は枠に四角く吊るされて、セットの上に低く下がり、登場人物のやり取りは、記憶がしばしばそうであるように、そこのみが明るく照らされる。フィールス(大森博史)のいいセリフが早々と出て、驚いて笑ってしまったが、行きつ戻りつする全ての対話やシーンが、それぞれシャボン玉に入ってふっと飛んでいくように儚かった。だが、ビリヤードみたいにちょっとせわしない。どっちかだとよかった。

 二幕に入ると桜の園を出る人々が、ディアスポラや引き揚げや亡命や震災の避難に重ねあわされている。「わらうところ」とそうでないところが、夢のように入り混じっていて、チューニングがむずかしい。ロパーヒン(高橋克典)が歌を交えて高揚する場面とてもよかったが、コンパクトにね。

イキウメ 『散歩する侵略者』

 高速道路の車の音と、波の音とが混ざって聴こえるような。けれどやっぱり波の音だろうか。はるか遠くから打ち寄せる長く続く波音。悪い夢のように椅子がいくつも、思い思いの格好で倒れている。アスファルトの上にアスファルトが乗り上げたように見える三分割された舞台、真ん中の地面は坂になっている。その坂の上に立って、こちらに背を向けた一人の男が海を見ている。男の名前は加瀬真治(浜田信也)。三日間行方不明になった後、保護された。しかし彼はもう以前の真治ではない。脳の病気らしいと診断された真治は、毎日散歩に出かける。同時に、町には奇妙な病気が流行り出し、隣国との軍事的な緊張が高まる中、残酷な心中事件が起きる。

 観終わって、あの長い波の音は、恐怖を運んでいたんだなーと思う。薄い皮一枚隔てて私たちを浸す恐怖、頬を掠めながら振り下ろされる刃。今にもはじまりそうな戦争、普段は意識しない、世代の違うものたちへの畏怖(大窪人衛と天野はなが楽しげに悪魔的な若い“異物”を演じる)、夫や妻の人格が変化してしまう姿。皮一枚で危うく成立している毎日を、芝居は衝く。でも奪われるばかりでもない。仕事をやめた青年丸尾清一(森下創)は、自由になり、新しい考え方を得る。

 浜田信也がまばたきさえ抑え、「人格が変わって帰ってきた男」を演じる。全編通して、とても素敵な男の人に見えた。全員がストイックに話の結構を支え、そこから生まれるリアリティが恐怖やカタルシスを成立させている。内田慈、先走った気持ちが溢れちゃわないように気を付けてね。

 妻加瀬鳴海(内田慈)の、真治の肩をおさえる手が優しく、あの概念は、もしかしたら、奪いきれないのかもしれないとロマンチックなことをちらりと考えたのだった。

東京芸術劇場 『表に出ろぃっ!』English version  ”One Green Bottle"

 「テレビを体に埋め込まれた部屋」、配線色のゴールドとシルバーとコッパーがだんだらに、揚幕みたいにすべてを染め分ける。

 開演10分、イヤホンガイドを外す。なぜなら、目の前の芝居とイヤホンの中、二重に芝居が進行し、ニュアンスが複雑になりすぎて追いきれないし、何より見ている芝居が面白いからだ。これ、どっちとも聞ける人がいれば、それはそれで楽しいと思う。でも英語駄目な人がイヤホンガイド取ったって、ぜんぜん大丈夫だ。

 まず父(ボー、名前のついているところが西洋風だなと思った=キャサリン・ハンター)が古典芸能のレジェンド的存在で遊園地に行きたがっていること、母(ブー=野田秀樹)がアイドルのコンサートに行きたくて熱くなっていること、娘(ピクル=グリン・プリチャード)は大事な友人との待ち合わせがあること、これだけをおさえていれば、あとは芝居が面白い所に連れて行ってくれ、思わずつりこまれることの連続である。特に、父が遊園地で見せる変化や娘がカルトを語り始める時に感じる空間の広がり方などがよかった。

 現代のルータースマホなしではどうにもならない社会や、孤立した核家族の孤立した成員を語る芝居だと、きれいにまとめることができる。クイズのdeathのくだりでためらいがないのは、意味がつきすぎちゃうからかな。ドライな会話?野田秀樹は実は、シンプルで素直な人なのだなと感じる。ガードを下げ、自分を曝し、相手の繰り出すパンチを待っている。ってところにパンチを出すのも気が引けるけど、話も作者の動機、フラストレーションも単純で、深さが足りない。家族それぞれの孤独やそれぞれへの怒りの切っ先を鈍く感じた。なにより、渇き、そして「水」というコントラストが、もっと鮮やかだったらよかったと思う。

東京芸術劇場 東京芸術祭2017芸劇オータムセレクション『オセロ―』

 軍服姿の男(キャシオー=ロベルト・デ・ホーフ)が背景の襞の寄った幕を次々に剥がすと、幕は風をはらんで躍り上がり、沈み込み、舞台の人物に飛び掛かる制御できない巨大な生き物のように見える。中から現れるのは鉄骨の矩形の部屋、細い黒い骨組みを除いてすべてが大きなガラス面で出来ていて、裏側には出入り口が二つ付き、正面はスライドで開く。薄い白い華奢なカーテンが、中と外を隔てたり、引き開けられて中をむき出しにしたりする。

この矩形の部屋が、ある時は手の中の心のように、小さい、または見えないものを表わしていて(デズデモーナ=ヘレーヌ・デヴォス  は中で雑誌を読み、オセロ―の心の中の点景のようだ)、ある時は愛するものたちを愛の言葉の真っ最中にもばらばらにしている絶望的なディスコミュニケーションを硬質に表現する。ロダリーゴー(ハルム・デュコ・スヒュッツ)がキャシオーを攻撃するくだりでは、部屋はものすごい勢いで現代に流れ着き、部屋の向こうで殺される女(ビアンカ=アンネ-クリス・スフルティング)はまるで知っている誰かであるような気がする。そして終幕、オセロー(ハンス・ケスティング)がデズデモーナを殺し、イアーゴー(ルーラント・フェルンハウツ)がエミリア(ハリナ・ライン)を殺すこの部屋は、どこかの家、どこかのマンションの一室にぴったりとおさまり、今も不信と疑いと嫉妬のために繰り返されるありふれた殺人を、身近にひきおこされたリアリティある悲劇にしてみせる。

 軍人たちの面子と「おとこらしさ」、ムーア人、アラブ人であることの影が精妙にシェイクスピアを彩る。オセローは肉体は老境に向かいながら(下降)、その年齢と軍功にふさわしい地位を(上昇)を得ている、ということが、服の脱ぎ着で明快に受け取れる。イアーゴーが口をきけなくなるのが何故かが、わかりやすくて怖い。

劇団スーパー・エキセントリック・シアター 第55回本公演 『カジノ・シティをぶっとばせ!!~丁半コマ揃いました~』

 いろいろびっくりである。まずキャストの配役表がない。誰が誰だかわからない。1000円を超える立派なパンフレットがついているのに。カジノを日本に作るあれやこれ、その候補地の一つ京都の片田舎、梶高校の同窓会のシーンが、冒頭なのにかなりのりが悪い。清水(きよみず)京都市長三宅裕司)の動きもぎこちない。どこか悪いのかな。辛そうに見えた。三宅裕司のぎこちなさがやっとおさまり、芝居がなめらかになるのは、市長(のちに府知事)の友人伏見(小倉久寛)が登場してからである。三宅の目が小さく躍る。うーん。妻の「清水音羽」がすごくおもしろく、「秘書の本願寺」も滑舌がびしっとしているのに、三宅は彼らと本気を出してコントしない。女優が裸体になってもいやらしくないことがあり、その芝居にエロスのない世界の憩いを求めて若い女たちが集まる時代。そんな時代になってますよと言いたい。

 「ミュージカル・アクション・コメディをコンセプトに、社会に警鐘を鳴らし、かつその重厚なテーマを笑いというオブラートに包み、より多くのお客様に伝わる作品を作り続ける」(パンフレット、(株)スーパーエキセントリックシアター代表取締役大関真)。昔々、戦前の軽演劇のころから今に至るまでの流れの中で、こんな風に、弱いものを撃つ芝居ってあったんだろうか。あったんだろうね。そしてやっぱこの(株)っていうのが曲者だよね。お金が流れる=善だもん。ルーツの違うものが悪の手先だったという最終的な形に仰天した。台本吉高寿男。その異質な人々が静かに紛れ込み、不気味な照明に包まれる。演出は三宅裕司だ。

 「日本人は最高の民族だ」(パンフレット、三宅裕司)。そう、でもね、いろんな国のいろんな人が、自国をそう思っていることをお忘れなく。

ヨーロッパ企画第36回公演 『出てこようとしてるトロンプルイユ』

 「ウィー」

 ジャン(本多力)、ブルーノ(諏訪雅)、アントニオ(石田剛太)が大家(中川晴樹)に返事をするとき、声を合わせてこういうのだが、これがフランス語に聞こえず、すごく可笑しい。

 幕開きと同時に伽藍の鐘の音がし、大家はダリ髭を生やした茶髪で、舞台はどう見ても『ラ・ボエーム』みたいなパリの貧しいアパルトマンなのに、ずーっと半信半疑である。

 どうなってんの?ほんとにパリか?

 そんな観客の心の声にはお構いなしに、三人の売れない絵かきたちは、払えない家賃のカタに働き、死んだ画家の荷物を捨て始める。

 一人の画家が、生涯かけてつくりだした絵を全て捨て去る、それは心削れる業(わざ)である。そして、捨て去られる絵と、その絵を描いた画家の側には、死んでも死にきれない、執念と業(ごう)が立ち上がり、その妄執に絵は「出てこようとしてる」。

 そしてその顛末はレイヤー(階層)を成し、層になった片岩のように固まり、少しずつずれながら膨張して宇宙を構成していく。っていう「業(わざ)と業(ごう)」の話だと思った。

 そんなむずかしい話が、おもしろくたのしく「でてこようと」する。ただ、逆に言うと、おもしろくたのしく「むずかしい」ために、飽き飽きするほど反復しなければならない。ここ、どうなのか。繰り返すやり取りにもっと緊密さと緊張がないと、「おもしろくたのしい」が緩んでしまう。

 最後にセットに目をやると、そこはやっぱり「パリ」じゃなかった。斜めの壁、羽目板の屋根、一見して全体を掴むことのできないアパルトマン、窓の桟が昭和の住宅のように細いそれは、いまここ、どこかに魔を潜めた「日本」のように思える。

恵比寿ガーデンホール 『Live Magic』 2017

 食べ物のブースにお菓子少なめ。というショックをよそに、ホール舞台上に、早やバラカンさんと稲葉智美さんが上がり、ライブマジックのTシャツの説明などしている。トートバッグには「やるのはマジックやり方は音楽」と英語で書いてあり、Tシャツのレコード盤の絵がすてき。

 いつものように、バラカンさんは一通りあっさり説明すると、ひとことで今日最初のミュージシャンを呼びこむ。「オマール・ソーサ、セク・ケイタ、グスターボ・オバーイェス」

 白い民族衣装などを着たように見える三人が位置につく。オマール・ソーサはキューバのピアニスト、セク・ケイタはセネガルのコラ奏者、グスターボ・オバーイェスはベネズエラパーカッショニストだ。ピアノは舞台下手、コラは中央、打楽器は上手側後方に座る。調弦してすぐ始める。音楽がいくつもいくつもつながったS字を描いて空中に漂ってるみたいだ。オバーイェスの呟くようなセリフに、コラとピアノが色彩をつける。今日は台風の雨。外では木々の上に垂直に重い雨が落ちる。聴いたことがない曲だけど、雨の日の底にある憂いが外に出るような気がする。蝋紙で包んだ憂い、紙を破るとそれは澄んだ水、ってかんじ。

 彼らのアルバムは「トランスペアレントウォーター」透明の水という題だけど、それを聞くと、水が澄んでないことがあるんだなと思う。赤さびの水やコーヒー牛乳のような水たまりの水のことを考える。遠い土地、遠い水。そのせいかこの水は一際透明に感じられるのだった。三人はにこにこしながら演奏する。すっごい勢いで手が動いているのに。

 初めて見た「コラ」は、不思議な楽器だった。ウミガメの甲羅を連想してしまう大きな丸いボディに(瓢箪だとネットには出てるけど)、美しい鋲が模様を描いて皮を留めている。客席を向いている盛り上がった背中に穴が一つ見える。ボディからネックが2本、触角のように突き出ていて、一本のネックが通常の形で21絃の糸が張られているとすると、合わせて40本強の弦をセク・ケイタは弾きこなしていることになるなあ。指を掛ける短い棒が3本ある。そこに中指、薬指、小指を置いて、親指と人差し指で鳴らしているみたい。ぽわんと響く、とても美しい音がする。

 アルバムを聴いたときは現代風の環境音楽のような気がしたのだが、手拍子したり、踊ったりできる曲もある。セク・ケイタが左わきに小さな太鼓を挟み、オバーイェスが足の間に置いた太鼓と掛け合いするところも素晴らしかった。そしてピアノがすべてを誘導していく。会場の聴衆に、踊るよう促すのだが、なかなか3人のようには踊れないよね。演奏が終わると、彼らは踊りながら去り、それをコミカルに繰り返して見せてくれたのだった。

 

 地下へ降りて小さめの会場、與那城美和とダブルベースを弾く松永誠剛。まず與那城さんの着物が、よく似合っていて、そしてシック。黒い光沢ある麻(苧麻?)に、チャコールグレーに見える織模様が肩と裾にある。闇色と影色が、どちらも引き立てあっている。たぶん、宮古上布っていうんだと思うな。地味なのに豪奢、繊細なのに厳しい。その着物の襟から、與那城美和の緊張した顔がのぞき、本当に素敵な取り合わせだった。與那城は集中し、一息おいて歌い始める。その声に、(地味なのに豪奢…。繊細なのに厳格…。)というフレーズが、頭の中でくるくる回り始め、いつのまにか私は、大きな水甕の底に下ろされて、膝を抱えて座り、外から聞こえてくる知らない国の知らない歌を聴いているのだった。

 松永誠剛は33歳、まだ若い。音楽のことは私にはよく分からないけれど、演劇的に言うと、演劇(ショウ)の基本がよく分かってないように見えた。お客さんがまだ心の中で靴も脱がないうちに、先に酔いしれちゃだめ。置いて行かれちゃったよ。

 

ここで私は休憩しました。ウェスティンのラウンジでゆっくり。

 

 バラカンさんがTシャツの歴史を話しているのをちらりとのぞいて(チェロキー、この曲を聴いていてチャーリー・パーカービバップを思いついたんです)ホールのわきを通りかかると、アイリッシュ音楽、はっきり言うとWE BANJO 3が聞こえてきた。えー?焦って会場に入ると、中には人がいない。まだリハーサルの最中だったのだ。なんとなく、最前列の柵の前に立っていると、4人のメンバーが並んで、(舞台下手からバンジョーマンドリン、ギター、フィドル)ヴォリュームやバランスを入念にチェックしている。ロング・ブラック・ヴェールをちょっとだけ歌ったり、フィドルの弓の乱れた糸を歯で切ったり。演者が引っ込んだあと振り返るともう聴衆が、幾重にも私の後ろに並び、行きがかり上なんとなく、一番前でWE BANJO 3の本番を待つ。どうしよう、一番前なんて。3分前にはスモークが焚かれ、人がぎっしりだ。7時をいくらか過ぎて、メンバーが登場、インストゥルメンタルから始める。拍手がだんだん大きくなる。ギターのディヴィッドが、再々拍手をするようにいうのだが、それが炭をおこす、火のお世話をする人みたいに見える。拍手をしているうちに、メンバーが掛け声をかけて、曲の速度が一段とはやくなり、その場で軽くジャンプする。会場もジャンプ。日本語で上手にしゃべり、Little Liza Janeではリフレインを観客に歌わせたり、乗せるのがとても上手。スモークがだんだん白熱の湯気に見えてくる。バンジョーマンドリンもギターもフィドルも、皆饒舌で陽気、もつれたりなんか絶対しない、信頼できる踊れる音楽だ。いくらでも踊れ、いくらでも歌えるような気がしてくる。その上みんなハンサムなのだ。いうことないじゃん。ディヴィッドのちらりと見えるサックスブルーの靴下を眺めつつ、一番前で見るWE BANJO 3は最高だったなと思うのだった。