ビルボードライブ東京 スクイーズ 2018

 めちゃ舞台近っ!今日はカジュアル席平場、ステージ側から順に、縦に4人掛け×2、6人掛け、8人掛けとテーブルが並び、8人掛けの端っこに座りました。席は前方から段々に詰まり、皆ビルボード東京の、招待券プレゼントアンケートに鉛筆で書き込みしている。

 「クリス・ディフォードなぜ来ない?」

 『コンサートの感想』にさっさとそう書きながら、なめらかな粘土板に、へらで線を描くような、影の濃い、一オクターブ下のクリス・ディフォードのコーラスのことを考える。それから考えるのを止めた。

 スタッフが下手(舞台向かって左側)にたくさん置かれたギターのチェックをしている。隣に赤いカワイのキーボード、ドラムセット、ボンゴとその上に双子の小さな太鼓が並ぶ。ボンゴと太鼓は胴の所が白と銀色で、お姫様みたいにきらきらする。スクイーズのTシャツを着た賢そうなスタッフの女の人が打ち合わせしている。

 スモークがたかれて、暗くなる。拍手。規則正しく刻まれるエレキギター(たぶん)の音。Please Be Upstanding。あっ、新しいアルバムThe Knowledge からの曲だ。グレン・ティルブルックはグレーのジャケットにドットのグレーシャツ、照明に光るスーツ姿、黄色いエレキを持っている。ベースが女の人(ヨランダ・チャールズ)、しかもかっこいい女の人で驚く。シニヨンに結った黒い髪、薄いグレーの柔らかいジャケット、透ける黒い襟なしブラウスに、ボタン留めのベスト。遠慮がちに位置取りして、しっかりベースを弾いている。

 2曲目はPulling Mussels(From The Shell)、ギターソロをもうすでに最高度の集中で弾いているグレン、紺のピンストライプスーツのキーボード(ステファン・ラージ)の素晴らしい演奏、バンドの音圧で、ビルボード東京のカーペットを引き剥がし、会場全体がロケットみたいに打ちあがってる感じ。ドラムス(サイモン・ハンソン)は空気を鋭く切るように確実にスティックを動かし、パーカッション(スティーヴ・スミス)は太鼓やシンバル(?タンバリンの友達みたいな)を目まぐるしくたたき続ける。

 全体に新しいアルバムからの曲も多く、私はPatchouliって曲が好きなんだけど、それも5曲目にやってくれた。パチューリというのはハーブの一種で、土っぽいような独特の香りがするらしい。傷を治す効能がある。10代のころの自分、恋人、公園を思い出している歌かな。「In Maryon Wilson park」と歌うとほんとに暮れていく空が見えてくる。

 Cradle To The Graveも、ウクレレで演奏していたが、歌い終わりがきゅっと糸を絞ったようにぴたっと終わり、照明の変わるタイミングもバンドのメンバーみたいにピリッとしていた。この歌を聴きながら、私は背骨にスクイーズの音楽が入ったと思っちゃいました。

 後半はTake Me I’m Yours、Tempted 、Slap And Tickle、Cool For Cats(ディフォードの代わりにパーカッションのスティーヴ・スミスがうたう)など、最後はCoffee In Bedでかっこよく、白熱したまま終わりを迎えた。グレンが観客とコール&レスポンスをやったんだけど、音程も節回しも難しいのにグレンの指示する通りで、だれもかれも背骨にスクイーズの音が入っちゃったんだなと思ったのだった。

スーパーエキセントリックガールズ 『華 ~女達よ、散り際までも美しく~』

 光琳の流水模様が階段状に大きく客席に迫ってき、金色の大小の水滴のような紙が貼りこまれ豪奢。舞台中央から小さな花弁がはらり、はらりと散り、黒い舞台に張り巡らされた下へ垂れるたくさんの赤いリボンと相俟ってきれい。

 しかし私はうすいパンフレット「にせんえん」にちょっと驚いていて(役者の来歴がない)、美しいセットにも(あたりまえだ!)と反応するのであった。風が起こしてあり、そっとリボンが揺れる。

 時は戦国、今日秀吉が死んだ。正室おね(河西智美)と側室茶々(Kie)が過去と豊臣の行く末を「笑いながら」語り合っている。時代は変転し続け、仲良く見えたおねと茶々も、敵対せざるを得なくなっていく。

 河西はじめ全員がとても一生懸命やっている。例えば踊りだ。よく揃い、手足が伸び、キレがある。ちょっとAKBや乃木坂を思い出させるけれど、ここまで初日に仕上げてくるのは大変だったと思う。踊りはやればやるほど習熟し、考えなくても体がうごくようになる。だが、芝居はどうか。一生懸命やればいいってものじゃない。「考える」「感じる」ことがとても重要。「懸命にやっているから」でチャラにするとそれが「紙芝居感」につながってしまう。台本も問題。

 おねが茶々に「あの人の子供を産んでくれた」というのだが、その設定にリアリティがない。きっと「あれはあの人の子だろうか」とうっすら思っていたのでは。そういう逆転がいつ来るかとドキドキしたが何もなかった。ガラシャ(立川ユカ子)が恐ろしく嫉妬深い夫を持っていて、どう考えていたかも(神に走っている)、もっと深堀りしなければ女性客の集客は見込めない。女優さんを育てるためなら、地道に続けるもっと小さいスペースでの公演も、出来たはずである。

モダンスイマーズ 句読点三部作連続上演第一弾 『嗚呼いま、だから愛』

 ブラインド、冷蔵庫、食器棚、シンク、キッチンカウンター、仕事机(仕事部屋)、ダイニング、和室の座卓、ダブルベッド、長方形に作られたセットの長辺の3列目に座り、目で装置を一つ一つ確認する。どこの家にもあるために、(自分ち?)と思うくらい既視感でいっぱいで、実人生のほぼすべて、私生活の凝縮された舞台を小さな積み木がぐるりと囲み、そのグレー、白、黒の色分けされた家のミニチュアが、塔婆のように、位牌のように、びっしり生活を覆う。この感じ、なんか始まる前に、もう叫びそう。きゃー。

 この家に、星野多喜子(川上友里)は苦悩と夫一貴(古山憲太郎)とともに棲む。結婚6年、セックスレスになって2年。初め舞台には多喜子、そして一貴がいる。前の観客の頭でよく見えない、と少し苛立っていたが、実はそれくらいで十分。だって私たちは、息を殺してとある家の中を窃視しているのだ。多喜子は事情や真情を語ってくれるけど、やっぱり窃視の気分は離れない。役者の声は嗄れ、セリフは縒れ、ドキュメント感がピークになる。

この家に多喜子の親友(太田緑ロランス)とその夫(小林竜樹)、多喜子の美しい女優の姉(奥貫薫)、姉のマネージャー(西條義将)、多喜子のマンガの編集者(津村知与支)が現れる。

多喜子のセックスレスの悩みを重くしているのは「ブスである」「愛されない」というトラウマである。用水路を400メートル流されるという過去をもちながら、よく結婚できたね、しかも用水路に落としたグループの男と、とそこに執念めいたものを感じたり、絵空事のように感じたりする。大概の女が、たぶん、「ブス」だなと自分のことを値踏みしながら、ハードボイルドに生きているのである。役者は皆好演。酒場でこんな人たちみかけるなあって思うのだった。

東京芸術劇場 プレイハウス 『酒と涙とジキルとハイド』

 人間て不思議だと思わない?なんて、水色と白のバッスル(腰当)つきドレスを着たイヴ(優香)が淡々と語り始める。一番いいところを見せられるのは、緊張しないどうでもいい人で、好きな人にはなぜかそういうところが見せられない、云々。うーんそれは女の子の永遠の宿題だよね、と思うけど、男の子だって案外そんなものかもしれない。

 初演と同じ、開いた本のようなセット、壁いっぱいの薬瓶、屋上に二人きりの楽団(まるでもっと大勢いるかのように聴こえる)がいて、イヴに背を向け机で何か書き物する助手プール(迫田孝也)。だが初演と何か違う。イヴの体、プールの体、役者の体が皆ずーっと「ものを言って」いるのだ。

 これ、台湾で、海外公演の水をくぐってきてるんだね。感情がきちんと体に伝わり、体がいろんなことを表現している。テレビのテロップみたいにいいところで巧く入る音響が、喜劇を助ける。特にビクター(藤井隆)の前半は、集中が全く切れず、やり取りを拾って面白くし、芝居をとても引っ張っていたと思う。海外公演がいい方に働いて、ちょっと強引だけど、再演は初演と格段の違いがある面白さだ。

 「私は薬が…」とイヴが重ねていう所、すこし単調で、変化が必要。しかし優香の「差」はとても進化していた。

 ジキル博士(片岡愛之助)が「二つの」という時、人差し指と親指を広げて見せるのが、「おやじくさい」ジキルをきっちり表現していておかしい。歌舞伎めくところはさすがだった。声はもう少し工夫してもいい。

 いつ歌いだしても、踊り出してもおかしくない、もうすこしでミュージカルになりそうな作品に仕上がっている。上演時間も二時間を切りコンパクト、楽しく観て、さっと帰れる。

ヒンドゥー五千回 最終公演 『空観』

 「むげんにびぜっしんに」(無眼耳鼻舌身意)、とひとりこそこそお経を唱えると、すごーく遠くへ来たような気分が来る。昔の人も、苦が多かったんだなーと思うのである。全てのものが空(くう)で、確かな実体など何もないんだよ。というところにたどり着いた人の苦を思うと、自分の苦が軽くなるような気がするよね。

 夥しい数の細い綱が、微かに円錐形を成して、空に向かって、群がり上がっているような、ぶらさがっているような。この両義的なところが大切だなと思う。綱の樹(もしもそれがつりあがっているものなら)が上手と下手に一つずつ立ち(もしもそれが立っているのなら)、真ん中に紙(手稿か?)で囲われた真円がある。そこはまた穴かもしれず柱かもしれず、或いはないのかもしれず、ふと舞台脇に目をやれば何もかも取り払われてむき出しになっている。

 上手奥から、カニのような生き物、四人でつかまり歩く生きもの、下手から二人で抱き合い進む生き物が現れる。生き物は瞬く間に結界の紙を乱してゆき、たくさんの人が一方向を向いてたおれ、それはきっと「死」なのだがもちろん「生」でもあり、みな何事もなかったように起き上がる。クレズマーが鳴って、どこか辺境の家族がわからない言葉を発しながら、すばらしいマイムを演じる。「わからない言葉」で演じられる「ぶれた」場面は「ぶれた」父らしい男をもう一人運んでくる。「わからない言葉」の場面の、キャストは皆、異国の人の身振りが堂に入っている。綱の塊は二重の十字架にも見える。「ぶれない」日本語で演じられるシーンは迫力が落ちる。芝居が瘠せて縮む。般若心経のシーンは、いわでものことに感じられた。最後のシーンとてもよかった。アニメーションをみるように、変態していく体がそこにはある。色即是空

TOHOシネマズ日比谷 『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』

 踏むと弾力を持って靴裏を押し返してくるあたらしいカーペット、3月29日にグランドオープンした日比谷ミッドタウンのTOHOシネマズ日比谷は、映画館にしては4階と高層でなく、ながい通路の大きな窓越しに、日比谷公園のもくもくと盛りあがる新緑の欅の群が見える。

 おもえば、クリント・イーストウッド監督の『グラン・トリノ』って、世界のおじいさんというおじいさんが、「よし!」ともろ手を挙げて寿ぐような映画だったけど、この『ペンタゴン・ペーパーズ』は、世の中の中高年女性がみな嘉し、また映画によって嘉されるような作品なのであった。

 語られるのはアメリカ政府が何十年も秘匿してきたベトナム政策とベトナム戦争の真実を、明かそうとする新聞社の戦いなのだが、その中心に立っているのは、一人の中年女性である。

 ワシントン・ポスト社の社主キャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)は、夫の死によって、主婦からその地位についた人だった。株式公開を控え、ベッドにまで書類を持ち込んで勉強しているシーンで彼女は登場する。キャサリンには自信がない。主婦ってお金持ちだろうがそうでなかろうが、求められるのは「感じがいい、niceである」ってことで、それ以上ではないもの。社のブラッドレー(トム・ハンクス)にはぴしゃりと「口を出すな」と言われる。むかつくー。でもキャサリンの態度は、私たちがよーくしっているあの、「私に非がある」申し訳なさそうなそれなのだ。最終決断を迫られたメリル・ストリープは圧巻だ。血が波立ち、世界がぐらぐらする中で女は受話器を握っている。「とても決められない」と、体の中の「niceなひと」が慄える。彼女は決める。彼女の皺を美しく思う。それは皆奥深い感情の静かな波紋のようだった。

DDD青山クロスシアター 『Take Me Out 2018』

 「あんな連中が、最前線へ行く。」家を建てるガタイのいい若者たちをみながら、サリンジャーがふと呟いたと、娘のメモワールに書いてあったと思うけど、言うても甲斐ないことながら、この日本版『Take Me Out』は、みんな体が小さい。いながらにして、暴力、生と死、エロスや欲望、武骨と繊細などを感じさせるのは、スター選手のダレン・レミング(章平)、その親友のデイビー・バトル(Spi)、キャッチャーのジェイソン・シェニアー(小柳心)などの数人である。他のメンバーは、ものすごく努力して、「プロ野球選手」と自分との距離を埋めている。観るほうも、その脳内補完に忙しくて、この芝居全体の「キャラ」がうまく立ってこない。

 キッピー・サンダーストーム(味方良介)はショート、機敏で目配りがきいて余裕がないといけない。歴戦の人らしい余裕がない。メイソン(玉置玲央)は冴えない会計士だけれど、それとは別に魅力がないと。「同性愛者として」ダレンのカミングアウトを憧憬する感じが薄い。もう一息繊細に演じてほしい。水気がないよ。

 ダレンとデイビーが最後に言葉を交わすシーン、章平は好演しているが、ここが山場。気持ちの移り変わりがもっと精緻に見えるといいのに、惜しい。

 架空の球がミットに収まるところ、スイングしてホームランのシーンが(効果音も)気持ちよくかっこよく、一番野球を感じた。

 チームがユニフォームを野球から看守に変え、社会やコミュニティの圧力を示していて面白い。セットはフェンスに囲まれた檻のようで、ロッカーは一人一人をおさめる独房のようなのだ。

 栗原類、変わった男をイメージ通り演じる。「俺は投げたいんだ!」ここ、哀しくてとてもいいセリフだなと思った。