東京デスロック+第12言語演劇スタジオ 『カルメギ』

 舞台を両側から挟む客席に向けてアーチが仕立てられていて、その真ん中の橋になったところに字幕が出る。ハングルと日本語。字幕を見上げていた目をそのまま舞台面に落とすと、そこはもう、「層になった」、処置なしの散らかりの乱雑な部屋、ハングルと日本字の新聞がくしゃっと敷き詰めたように落ちていて、中央には両開きの箪笥がリアリズムではありえない三角に埋もれて顔を出している。片側には赤い韓国ユニフォームやラタンの衝立や古いパソコン画面や本を積んだ机、もう片側には麦わら帽子や積み重なった服がかけられている。そばに一輪、花(造花)が落ちているが、これはきっと韓国の国の花木槿。ここは水面(みなも)なのだなと思う。文字の漂う湖、歴史の海。耳に水に潜ったときの反響する水音が聴こえてきて、水の中から流れてゆくさまざまを見る。

 チェーホフの『かもめ』が巧みに翻案されて1936年の日本植民地時代の朝鮮に移されている。

 調子こいてる中年の小説家トリゴーリンが、日本人の小説家塚口次郎(佐藤誠)となって、美しく可憐な19歳の朝鮮人少女ソン・スニム(チョン・スジ)をぎりぎりの状態にまで追い詰める。作家志望の繊細な青年リュ・ギヒョク(好演、トレープレフにしか見えない=イ・ガンウク)はスニムを愛していて、幼馴染のエジャ(チェ・ソヨン)はギヒョクを片思いしている。ギヒョクの母、女優のチャ・ヌンヒ(好演、ソン・ヨジン)は塚口の愛人だ。これら登場人物がラヴェルボレロに載せて、永遠にも感じる追いかけっこを繰り広げる。開演前に舞台にいた娘(作中で着替えて朝鮮人の少年ミョギを演じる=間野律子)、最後に現代の服に着替えてきたキャストが、現代と1936年をつなぐ。「行列」が、ある時は説明的すぎるような気がするが、それを除けば、とても素晴らしい芝居だった。

さいたまネクスト・シアターゼロ 『ジハード ――Djihad―― 』

 始まる前に配られた紙に、登場人物の辿った道の地図がある。

 ブリュッセルイスタンブールイスタンブール―キリス―アレッポ―ダマスカス。なじみがあるようでないこれらの地名の中で、一つだけ、ぴかっと光って感じられるものがある。シリアのアレッポだ。市街戦の起きた街。(石鹸の町。)三人の若者イスマエル(堀源起)、ベン(竪山隼太)、レダ小久保寿人)は、ジハードに加わり、これらの街を通って、銃を抱えて彷徨する。ゲーム(コール・オブ・デューティ?)とはまるで違う不条理な戦争なのだ。敵を一度も見たことがない。パイロットのいないドローンが爆発する。

 あら?どうしたんだろ眼がと思っているうちに涙が目尻をつつーと流れ、さまよう若い者に心を動かされたのだと気付くのである。

 蛇口を閉められてる。暴発する人たちって、そういうことなんだなと思うのだった。システムから無視されている。宗教や家族がプレッシャーをかける。恋人や生きがいを奪われたのが、引き金になる。ジハードを巡る重い、つらい話が、おもしろく、軽いタッチの台詞で仕上げられている。

 だがこれが、真摯でまじめで立派な芝居になってしまっているのだ。三人、いや鈴木彰紀も入れて四人ともが楷書の芝居で、遊び、軽さが薄い。立派なの。特に前半、笑いの呼吸――軽く受けたり、食い気味に台詞を言ったり、全く同じように台詞を繰り返したりする緩急がついてない。立派というのは皮肉ではなく、いい表情、いい演技がたくさん見られるのも事実だ。

 アフタートーク、親しいかもしれないけど、観客の前では役者を「さん」「君」づけで呼んでほしい。イスマエルの波乱万丈の次作、『地獄』ってどうなるのかな。

博多座 『六月博多座大歌舞伎』 (2018)

 夜の部の最初は『俊寛』。静かに静かに緑と柿色と黒の定式幕が開くと、そこは一面水色の(浅黄)幕。上手の隅に房を垂らした見台が見える。竹本なんだなー。と、目で確認。隣に三味線。どどどんと太鼓の音、波にも風にも聴こえる。義太夫が鬼界が島であると語るうちに、すうっと浅黄幕が落ちる。この水色は遠く離れた孤島の海や空を表わしているのかなあ。空撮で寄っていってる感じかしら。と考えていると、ややあって下手の岩山の向こうから、悄然と俊寛(片岡仁左衛門)が登場する。景色なんか見たくないのか伏し目で、背の高い枯れ木の杖を突いてよろよろしている。足元に海藻が落ちているのを、杖に強く体重をかけながら拾い、「浦のとまや」よりもっと粗末な小屋に入る。草履の砂を丹念に落とす。全ての動作がなんとなく上品で、「都人」の感じ、挙措がぜんぜん景色や身なりに合わず、かわいそうにみえる。

 丹波少将成経(中村鴈治郎)と平判官康頼(市川猿弥)が訪ねてきて、砂の上にちんまり座るところも、三人とも行儀がいいのが哀れ。一味のひとり、陰謀を企てたかどでとらえられた誰だったかが清盛に「心得違いすんなよ」といわれて「それはおまえだろ」と言い返し殺されてしまった話を思い出し、(この行儀のよさは、反省?)などと考える。成経は千鳥(片岡孝太郎)という海女と恋に落ち、妻にすることを俊寛に話す。成経が千鳥を呼ぶと、俊寛が小手をかざして千鳥の方を見る。南の島の白い砂の照り返しやら何も起こらない島での俊寛の、珍しいものをみる心の弾みやらがうかがえる。なかなか来ないんだよね。髪に紅い飾り紐をした千鳥は、黄緑の着物にふりが桃色。きょろきょろしている。盃することになって、アワビ貝の盃を受け取った千鳥は物問いたげにやさしい少将をみる。かわいい。盃を受け取る俊寛もとても好々爺。

 そこへ、鬼界が島を指して大きな船がやって来る。上品にしていた流人の人々も、わっと灰神楽が立ったように舞いあがる。上手から本当に船が来た。岩にもやって渡り板をだし、水夫家来が控える中、張り棒で袖を四角く突っ張らしたお侍が下りてくる。瀬尾太郎兼康(坂東彌十郎)。木目込み人形のようだ。すんごい股立ちとってるの。袴をたくし上げてて、こんなに短くするのは「高股立ち」っていうらしい。西洋の王様みたいだ。金の着物中は黄色、斜めに黒に四角いつっぱり袖(?)だ。岩の蔭から千鳥がそっと覗いていて、それがほんとに千鳥のよう。

 船は赦免状を持ってきたのだが、俊寛の名はない。のってない!信じられない気持ち、俊寛は座ったまま赦免状を穴が開くほど見つめ、そのままくるりと一周する。波立つ心、身をもみ、地面をたたいて何度も赦免状をみる。すすり上げ、悔しさに袖を咥える。もう赦免状を破りそう。すごい逆上の描写。

 と、もう一人(いちにんと読みたいところ)の使い丹左衛門尉基康(中村梅玉)が現れ、俊寛も備前まで帰ることを許されたと告げる。逆上から一転、腰が抜ける俊寛。波に転がされるように気持ちを揺り動かされる。

 瀬尾は千鳥の乗船を許さない。少将は千鳥とともに残るというが、これも許されない。瀬尾はまた、俊寛の妻東屋をころしたというのだった。

 可憐な千鳥は岩に頭をぶつけて死のうとするのだが、これを俊寛は止め、瀬尾に自分の替りに千鳥を乗せてくれと頼む。しかし、聞き入れられない。さあここだ。ばらばらにちぎれた俊寛の心が、ぎゅうっと中心に寄る。仁左衛門が今まで演じてきたいい人、悪い人のなかのエッセンスみたいな決心が顔に浮かぶ。時の権力者を敵に回してたたかおうとした男、清盛に心得違いだといった仲間を持つ男なんだなとここで思う。小さく指を動かし、千鳥をちょっとわきへよけさせて、俊寛は瀬尾を斬る。

 ねー。普通の芝居だったらここで終わりだけど、俊寛には三人を船に乗せ、見送りする山場がまだあるのだ。

 両手を上げて「おーい」と船に呼びかける。まだ船の人の眼鼻が見え(たぶん)、俊寛はにっこりしている。「おーい」船が遠くなり、少し悲しい気持ち。波の音、風の音にまぎれて船の人々の気配が聞こえなくなる。ぼうぜん、後悔、気落ち、パニックで少し自分を見失う。しぶく波の中に駆け入り、着物が水にぬれ(と見える)花道のすっぽんで、胸まで海に入った格好になったかと思うと、また舞台に戻り、老人には登り難い岩に取りついて登る。この岩、崖に近いんだな。松に縋りながらまた船に声をかけるが、船は見えなくなってゆく。力を込めて身を乗り出していた松の枝は折れ、船は消え、俊寛は放心する。彼は自分で自分を葬ってしまったのだ。

 

 

 

 

『口上』

ラ・マンチャの男』で、セルバンテスドンキホーテだった松本幸四郎、『阿修羅城の瞳』で初めて観た市川染五郎、(それからSWITCHでぬいぐるみ劇場を見せてくれた松本金太郎)この人たちがそれぞれ襲名して、白鷗、幸四郎染五郎と名が変わる。前の名前の印象が強いせいで、観に来ている私はなかなか慣れないけれど、名前の変わった当人が、さらりと衣を一枚脱ぎ捨てたみたいにあっさり淡々としているので、それでなんだか納得し、受け入れやすくなっていく。そういう物なのかも、「襲名興行」。

 

 

 

『魚屋宗五郎』

 世話物。町人の生活の写実ね、と思うけど、具体的にはどうなんだろうと思っていた。幕が開くと、町家の座敷、玄関も見えるがとても平面的。宗五郎女房おはま(中村魁春)や小奴の三吉(中村亀鶴)が、背景から浮いて見え、悲しそうなのもよく分かる。そのための平面?主人魚屋の宗五郎の妹お蔦が、不義の疑いをかけられて、勤めていた磯辺のお屋敷でお手討ちになってしまったのだ。悲しむ友達(菊茶屋娘おしげ=中村壱太郎)やそのおかあさん(菊茶屋女房おみつ=上村吉弥)がお線香をあげる。あ、お線香の香り!急死した人を包むあわただしさやおどろきが、この線香にあふれている。外はお祭りで浮かれているのに、家の中は悲しさでいっぱいだ。

 と、そこへ宗五郎が帰ってくる。花道を町人の狭い歩幅で歩いてくるが、その足音は重く強い。無念なんだな。お寺で戒名をもらってきたんだって。足の間を拳でぽんとたたき、着物を割って座りよくしてから座る。これがなんかかっこいい。様になっている。ネットで見ると、このことを「裾割」などといって、浴衣や男の人の着流しとかは、最初にやっとかないと動きにくいと書いてあるが、現代のそれとはちょっと違う。芝居の空気の小さい句読点になっている。写実だよね。町人のいい形だ。宗五郎はお茶を淹れてもらう。このお茶が熱い。耳たぶ触るくらい熱い。九州のお父さんだったら、「あつかろうが!」と怒っちゃって大変だけど、お蔦が死んで家の中がとりのぼせているし、宗五郎は文句を言わず何度も手を伸ばし伸ばし、さいごはくるくる湯呑を回して飲み干す。ここも写実かな。ちょっと熱い。

 酒を断ってる酒癖の悪い宗五郎は、死の顛末を聞かされ、お蔦の朋輩(おなぎ=市川高麗蔵)の持ってきた上等のお酒を、さっきの湯のみで飲む。お茶とまるで違う。酒が見える。いい酒だね。高野豆腐がお湯を吸うみたいに一気に飲む。何事もなかったように、二杯目も飲む。ああうめぇとやっという。三杯目は、酒の表面を観客に感じさせながら(透きとおって、水とは違うすこしとろとろした感じが心の中でアップになる)味わっている。背骨が少しゆれる。呑兵衛の酒は後を引くっていうけれど、こんなものじゃ宗五郎は納まらない。思い屈していると酒は暴れる、と観ててはらはらするが、どんぶりのような片口登場。ごくごく飲むのだ。干天の慈雨って言葉を思い出すぐらいに。さっきまで気が晴れないだろうからお飲みなさいと勧めていたおはまも止めるけど、「もう飲まねえ、これでしめぇ(仕舞)だ」と言ってやっぱり飲む。三公につがせ、角樽をひっくり返して、とうとう全部飲んでしまう。この描写すさまじい。矢でも鉄砲でも持ってきやがれ。いつの間にか、ものすごく酔っ払っている。上体はぐらぐらだ。これ、ただの酔っ払いだったら笑えもするが、底にはきっちり「誰に断わって妹ころしやがった」という悲しさと怒りがある。江戸時代、お屋敷に上がった女の人には、こんな話がいくらもあったんだろうなあ。そして、その身内が怒ってお屋敷には、なかなかいけなかったんだろうなあ。角樽振り上げて玄関の格子を壊した宗五郎は、かっこいい怒りの見得を切って花道を引っ込んでいく。

 怒った宗五郎は屋敷の玄関先でさんざん悪態をついたが、最後には殿様磯辺主計介(大谷友右衛門)がとても丁寧に謝り、お金と扶持を下賜されることになる。(お金か…。)とおもっちゃうけど、こういうとりかえしのつかないことって、最後はそういう解決しかない所が現代と共通だ。時代物と違い、傍に立っている人(若い者の三公や、二幕の足軽)がリアクションとるのだなと、それも世話物の一部のように思いました。

 

 

 

 

『新歌舞伎十八番の内 春興鏡獅子』

 大奥。テレビや漫画で、なんか怖いとこに思ってるけど、女の人の就職口としては憧れだったはず。器量がよくて賢くないと務まらないのかも。やっぱ怖いとこかしら。

 お正月にお餅を曳く「お鏡曳き」の余興に踊りを所望されたお小姓弥生(松本幸四郎)。はじらう弥生、いったんは引っ込むけれど、断れないよね。長唄が七人、三味線が七人、太鼓、大鼓(おおかわ)、鼓が四人に笛の人。

 つーと音が幸四郎の体に入るのが目でわかる。憧れているような遠い目つきをする。あずき色と紫との間の色の着物、たぶんこれ古代紫っていうんだと思う、金色の刺繍(ぬい)の帯、オレンジのひもが衣装を引き締めている。緋色の袱紗を帯に挟んでいて、それを手に踊る。(「くちぐちにー」と歌が伸びると、なんか、生まれて初めて長唄きれいだなと思った、)幸四郎清潔で艶めかしい。袱紗で踊り、塗扇で踊り、手で踊り、二枚の扇で踊る。

 よく見ると、どの踊りも、助詞がいれかわる。

袱紗「で」踊り

袱紗「が」踊り

袱紗「と」踊る。

扇と踊る。袖で踊る。

 「ちりちりちりちりちりかかる」と詞章が進むと、扇の上におぼろ月や牡丹やちる花が載る。

 手前と奥に重ねて持った扇をさっと飛び越させたり、くるくる回したり、長篇だね、これ。中学の時の二年間、これを踊った幸四郎は厳しい試練をやり通すような大変さだったと思うな。

 手獅子が弥生と別の意志を持ち始めるのがぞわっと怖くて面白い。

 宗之助と壱太郎の二人の胡蝶の精が赤い着物で現れる。黄緑の帯、牡丹の刺繍。髪の銀色のぴらぴらした飾りが揺れ、胸につけた小さな太鼓を撥でたたく。

 鼓と大鼓の掛け合い、笛が鳴り、三味線が傍で音締めしている、とおもったら、三味線のソロ。立三味線ていうの?かっこいい。三味線二挺がつづけて演奏。はっこの演奏は、もしかして次の展開を呼び出しているね。緊迫の間。鼓。ここバシッとやらないと獅子が出てこれない。気合いの入った演奏が続く。拍手のしどころだ。

 きました!わくわくっとなんか座席にじっとしてられないきもち。白いカシラに金と薄碧と白の装束、揚幕が生き物のように素早く上がり、いったんは吹き飛ばされたように去る獅子。清浄。再び現れ、カシラを地につけてあげる。体の両側につけてあげる。回す、後ろに跳ね上げる、回す、はやい!

 早い!と叫びたくなった心に、一斉にかかるこうらいや!という掛け声が嵌ってる。やー、すごくかっこよかった。心が躍りました。

吉祥寺シアター 『日本文学盛衰史』

 紙の上に横たわる例えば森鷗外夏目漱石などの文字が、空気を入れられ、初めはよろよろと、次にはスーツなどを着て、髭を生やして立ち上がる。私が感じ入ったのは「星野(河村竜也)さん」という人物で、この人きっと星野天知なんだけど、学校で習った符牒のような人が、服を着こんで、畏まって座っている。ふーん。生きてたんだなあ。

 障子、矩形の変形畳、天井の枠、すべてが原稿用紙みたいで、ここはマス目に囲まれた近代文学の国だ。この空間でいろんな文学者の通夜ぶるまいや精進落とし(?)が、小さな四角い膳を並べて行われる。「内面」という物があるらしいと気付いた明治の文学青年たちが、それを表現するすべを、二葉亭四迷(大塚洋)の翻訳から獲得したり、幸徳秋水山本雅幸)の幾度かの登場が、無限に思えた文学の世界を狭める象徴となったり、焼け野原になって日本が滅びたり、2時間10分、作品は忙しい。ここにツイッターやラップが挟まれて奇妙な世界が成立する。過去だけど平気で現代なのだ。芝居は高橋源一郎の原作から飛び出して、整然と美しく可笑しく描かれる。脚気でミソをつけた鷗外(山内健司)やら日蔭茶屋で神近市子に四角関係のもつれで刺された大杉栄やら、細かいトピックには事欠かない。書かれた文字にしか過ぎなかった文学者たちは、足袋や靴下で、白い紙の上を歩き回る。

 しかしここには「業」がない。なんかちょっとそこを残念に思う。「業の痛み」がぜんぜんないんだもん。

 作家の足が紙につけた、微かな凹みや捩れ、青年団をみる時、いつも好きだった小さな感情の波立ちとか、もうないのか。小石までがかりんかりんに凍ってる冬の夜、駒場の道をあごらまでマフラーに鼻を埋めながら通った日々、それは言葉にできない感情の交換を眺めに行ってたんだけど、知らない間に変わってしまったのかも。

丸の内TOEI  『終わった人』

 机の並ぶ広いオフィスの一隅に4,5人の人だかり、一人の男が紙袋を下げ、皆のあいさつを受けている。彼の名は田代荘介(舘ひろし)、今日で定年だ。荘介は別れの挨拶を受けながら、紙袋を持った方の手をあげて、眼鏡の位置を直す。ここ、よかった。無防備で計算がなく不器用な男、いや無防備になり計算を忘れた不器用な男が、そこにいた。ここんとこで私は荘介を好感を持って受け入れたのだが、この仕草で全編を支えるには、『終わった人』は長く、事が多い。コメディなのか違うのかが判然としない。もしやコメディではないのかもと思うのは、荘介の妻千草(黒木瞳)が、荘介のしみじみとした述懐や、定年後の愚痴を聞いて、曰く言いがたい表情、顔の上で二つの違う水が逆まいてぶつかり合っているような顔つきをしていて、決して「暗っ!」だの「重っ!」だのと一言で片づけるわけでもなく、ちょっと、エッジがきいてないのだ。ここに切れ味がないために、後半が転がらない。ここ、突然文芸物だよ。

 さんさ踊りは大事なシーンだけど、あんまり練習できなかったみたいに見える。踊りがもっと体に入ってないと、ストーリー全体に納得がいかない。

 荘介の妹美雪(高畑淳子)が飛びぬけて巧く、墓参りのシーンで兄の事情を分かっている顔をしていた。岩崎加根子はもっと見たい。

 荘介の同級生たちはみんなきっちりしっかりつとめている。二宮(笹野高史)の顛末などそうだろうなと思うけど、役者はちゃんとやっている。きちんとソツなく撮れている映画だ。しかし、誰も彼もが「ソツなく」「無事に」「出すぎず」と願っているようなのが画面から零れちゃってる。皆が皆「無事」「無難」を願っていたら、どうして面白い映画が撮れるでしょう。

シアターコクーン・オンレパートリー2018 『ニンゲン御破算』

 「吾胸の底のこゝには 言ひがたき秘密(ひめごと)住めり」っていうの思い出しました。心の底に頭蓋の奥に棲みつく、もう一人の私。

 幕末。錦旗を押し立てた官軍と、彰義隊とが相争っている。そこへ割って入るお弁当売りの女お吉(多部未華子)は、官軍に入った黒太郎(荒川良々)と彰義隊に味方するその弟灰次(岡田将生)と同郷だ。黒太郎、灰次のマタギ兄弟には、侍になりたさに殺人の密命を果たした勘定方実之介(阿部サダヲ)を脅した過去がある。その実之介は南北(松尾スズキ)と黙阿弥(ノゾエ征爾)に狂言作者として弟子入りしようと、身の上話を金を払って聞いて貰う。

 さっきの歌はこう続く。「身をあげて活ける牲(にへ)とは 君ならで誰かしらまし」、藤村の歌だけど、この『ニンゲン御破算』って、いつも誰かが誰かの犠牲になっているのだった。芸人の捨て子お吉は村の犠牲になって女郎に売られ、実之介は殺人の責任を押っ被されて殺されそうになり、黒太郎は暗殺の首謀者に仕立てられる。蛇が尻尾を喰いあうように、家の犠牲、作者の犠牲、犠牲が犠牲を生み、この世の弱肉強食やそれがねじれた円環を成してゆく様を、観客は3時間にわたって眺めつづけることになる。

 阿部サダヲ、体のキレもいいしめっちゃ頑張っているが、最後、声に背負わせすぎでは。変化って、そういうもんでもないような。ノゾエ征爾の土方歳三、目をこすって二度見するくらいかっこいい。岡田将生

 灰次 …知ってたよ。俺よく茂みにいるから。

という台詞は、ここ、少し工夫してほしいです。あとカーテンコールの時、着物邪魔くさそうにするけど、するなら灰次で、もすこしきれいに邪魔くさそうにしてください。

熱海五郎一座 新橋演舞場シリーズ5周年記念 東京喜劇『船上のカナリアは陽気な不協和音~Don't stop singing~』

 「お客さんが面白いと思っているあたたかい拍手。テレビの人が出て来て面白いことをやってくれる喜び。」

 と、去年の熱海五郎一座第四弾を見て、手控えにそう書いてある。

 今年の熱海五郎一座、おっと思いました。贅肉が落ちてる。テレビの過去のネタが極端に少なくなり、いま、この場で、このお客さんを笑わせようとしてる。話はここから始まるべきだ。持ちネタなんていらない。ちゃんと笑わす技倆あるじゃん。芝居の途中でラサール石井が「それのどこが笑いにつながるんだ!」と半ば真面目に(って見えた)渡辺正行にいっていたが、なんか笑いの優先順位が恐ろしく高く、恐ろしく厳しくていい。この人たちには笑いが尊いのだ。面白かったのは一幕と二幕のつなぎ目と、あるスイッチを巡る東貴博小倉久寛のやりとりだった。

 筋はほとんど紹介できないが、ある豪華客船に乗り合わせた人々の物語だ。客の中には引退を宣言した演歌の大歌手迫芝千夜子(小林幸子)とその愛人、大臣の永田(渡辺正行)がいる。船にはジャズのビッグバンドがある。金管が13人、ベース、ピアノ、ドラムスで構成されていて、このドラムスを三宅裕司が務める。音が分厚い。ちょっと籠っている気もするけど、すてき。

 小林幸子は大劇場にちょうどいいサイズで芝居する。大仰に見えそうで、見えない。何より華がある。ジャズをうまいなあと思っていたら、持ち歌を一節うたい、あまりの輝きに瞠目した。後半の人情的やり取りはゆっくりすぎる。しかし、観客にあわせているのかもしれない。カーテンコールで観客にとてもサービスしていた。みんな満足していたと思う。丸山優子、白土直子がプロのコーラスがつとまるほど歌がうまいんだなって知りました。