明治座 『劇団創立80周年 梅沢富美男劇団特別公演』

「プレバトのおじさん」とかおもっていてごめんなさい。梅沢富美男凄かった。

 二枚目で踊るとき、美女で登場するとき、

(なんなのこの人なんなのこの人なんなのこの人)という言葉が頭をくるくる回り、ちょっと思考停止した。

 あの脱力、っていうかリラックス、ぴりっとしているのに必要なところにしか力が入ってなく、舞台が自分ちみたいなのだった。

 美女が目を伏せる時(見られている時)彼女は何も考えていない。自意識がない。からっぽ。表徴の帝国。無心。岩田專太郎の美人画みたい。けれどいったんどこかを見る、と決めたときの柔媚な、目にあふれるやさしいこころ。前段の無心がめっちゃ効いていて、そんな心のきれいな美しい人から視線を戴ける、尊い。という気持ちになる。そしてその尊さに落差をつける三枚目も素晴らしい。例え美女の役をやらない梅沢富美男であったとしても、梅沢富美男という俳優は、必ず「売れて」いたに違いない。

 ただ、創立80周年特別公演なのに、台本にとても問題ある。長屋の第二場って何のカタルシスもないの?本筋と全然別の話になってる。いまどきそんな芝居珍しい。「おかま」を笑うのも、もう難しいと思う。

 眼医者の土生玄碩の役を研ナオコがやるというキャスト表を見て、「はっはっは」と思わず笑った。いいね。意表を突く。研ナオコは呂律のあやしい男と言えば男、女と言えば女に見える医者を飄々と演じる。友人の医師松庵(小松政夫)が「電線音頭」と「しらけ鳥の歌」をやってくれて、楽しく場内唱和。宴席で歌など歌わぬと突っぱねる玄碩と玄碩を招いた殿様(梅沢武生)は一触即発だ。代わりに役者の豚右衛門(梅沢富美男)を二時間以内に来させることができないならば腹を切る、よし切れという話になる。家老(梅沢智也)がそれとなく、腹なんか切らなくていいという温情派でとてもよかった。殿様も威がある。花道を豚右衛門と玄碩の若党嘉助(竜小太郎)と後見の丈太郎(小野寺丈)が急ぎ足で去るところ、三人三様の急ぎ方でよく考えられている。

 二部では研ナオコ、娘のひとみ、AKB出身の演歌歌手岩佐美咲、そして梅沢富美男が歌を歌う。

 研ナオコって、ヒット曲いっぱいあるんだなー。そして私はどの歌も知っていて、なんなら歌えるのだった。傷つく自分を遠く俯瞰するような、アンニュイな、鬱。しかし、その鬱はさらさら乾いていて、自己憐憫とかぜんぜんない。「アカシアの雨がやむとき」の他人事のように歌われる自分の死。淡々と歌いながら、「ぐず」という言葉だけが自分の体に響くように計らっているのに感心した「愚図」。

 ひとみは研ナオコと声質が似ているけれど、発散するように外向きに歌うところが違う。わたし「地上の星」って曲初めて通して聴いた。うまいし、いい曲だね。

 岩佐美咲も歌うまい。「耐えて忍んでとことん尽くす」ってとこできもちがさあっと歌から離れ、耐えたこともしのんだこともつくしたこともない自分の人生を振り返りました。

 梅沢富美男の「夢芝居」はとても素晴らしかった。濡れたように光るたぶん最上等のスーツの、ネクタイを取ってかっこよく歌う。「ヒットは一曲だけ」と言って笑わせるが、いいじゃん「夢芝居」すごいから。

 三部は踊り。夢芝居にあわせて皆で踊ったり、門戸竜二さんや竜小太郎さん(だとおもうのだけど、よくわからない。俳優さんて七変化だ。パンフレットに書いておいてほしい。)がソロで踊る。よく聴いているとミニマル音楽の気配や、ビッグバンドジャズもあり、いろんな仕掛けもあり、飽きさせない。梅沢武生梅沢富美男によるおさん茂兵衛もあった。梅沢富美男演出みたいなんだけど、梅沢富美男のあの執心のまったくない無心って、誰かにきちんと教えているんだろうか。

新橋演舞場 『オセロー』

 黒塗り?オセロー(中村芝翫)はムーア人で、一幕でさんざん見下されていて、二幕目、三幕目にそれが毒が回るように効いてくるというつくり。ということは、黒く塗らなくていいんじゃないの?一幕の蔑視が、とても鋭くよくできているし、なにより、オセローの表情が見えづらい。必要ない。

 蜷川直系のシェークスピアを、新橋演舞場風に丸めて、糖衣錠にしたような芝居だ。二幕の終りでは、芝翫の熱演を受けて場内から自然に拍手がわく。壇れいのデズデモーナが素晴らしく、心の平安は要らないと叫ぶときの素に近い(もう少女とは言えない)、齢を重ねた女の声、すべて捨ててきた女の泣き声が耳に残る。イアーゴーの神山智洋は、小細工せず、きちんと全力で役にぶつかっているところに好感を持った。それはキャシオー(石黒英雄)、ロダリーゴー(池田純矢)も同じ。余計なことだけど、金を用意しておけという一連の台詞は、バッハみたいに二声の構造になっているのではないかな。ここ、どうやって言うか考えるのたのしい所だと思う。ブラバンショーの辻萬長、複雑な感情をにじませて好演している。彼の天鵞絨のマントが、デズデモーナのマントに重なって見える。エミーリア(前田亜季)の今後に期待する。

 芝翫は歌舞伎成分がとても多く、(きもちよさそうだなー)とまず思うのである。たっぷりやる所とストイックに行くところをもっと考えた方がいい。砦のうえで、イアーゴーの言葉を聞き、背筋に冷たい疑いがさしこまれる後姿よかった。

 井上尊晶健闘しているが、たとえば「差別」について「死」についてもっと突き詰めてほしい。この世は見てわかる差別だけじゃないかも。そこから蜷川風をブレイクスルーしよう。

彩の国さいたま芸術劇場音楽ホール 『大塚直哉レクチャーコンサート J.S.バッハ⦅平均律クラヴィーア⦆の魅力 ~ポジティフ・オルガンvsチェンバロ その1~』

 月~金朝6時からのNHKFM古楽の楽しみ』を聴いてる以外、私とチェンバロの接点はない。

 ――と、思っていたけど、よくよく思い返したら、一点だけありました。ホミリー(借り暮らしの)が、屋敷の客間のハープシコードチェンバロのことね)のうしろの羽目板の中に住んでいた「ハープシコード家」のことを言ってたよね。お茶に出るお菓子を食べ、やせてて、まあちょっと、気取ってる。

 クラブサンとかハープシコードとかチェンバロと呼ばれるこの楽器を、私は今日初めて見たのだった。ピアノよりはるかに小さい鍵盤楽器で、外側はマーブル模様の品のいいグリーン、傍に近寄ってみると、頑丈なんだか華奢なんだかわからなくなる。細い木の支えで上蓋が開けてあり、その内側にはクリーム色の地に美しい花と鳥が模様のように描きこまれ、古風な字体で製造年(1990)とラテン語の銘句が書いてある。「音楽は神の贈り物」「音楽は喜びの友、悲しみの妙薬」という意味らしい。

 調律師の人が一音一音確かめながらねじまきみたいなハンマーで絃をしめたりゆるめたりしていた。

 その隣に小さい小学校の教壇みたいなものがあって、あっさりした木の生地のうえに、金の豪華な西洋の唐草模様がほどこしてある。なにこれ?レクチャーコンサートだから演台?と思ってしまったが、この四角いものは「ポジティフオルガン」という、中にパイプを内蔵した立派なパイプオルガンだった。

 調律師が去り、下手のドアを開けて今日の演奏者で先生の大塚直哉さんが登場する。先週の『古楽の楽しみ』では鈴木優人さんと二人で「チェンバロ男子」の対談をしてたなあ。真面目な人という印象だったが、全身黒、黒のシャツに黒のジレ、黒のパンツに光るエナメルの黒の靴と隙がない。黒王子やん。かっこいい。お辞儀をするとマイクを持って、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」についてすぐ説明を始める。

   バッハの  平均律  クラヴィーア   曲集

なに?かっこいい、なんていうかこう…すらすらっと口に出すと「ハープシコード家の連中」になったみたいな、今日は客間でスコーン食べましたみたいな、すてきなかんじ。と同時に「平均律」って言葉が硬くて、わからなくて、ああそれなら、私台所でホミリーと何かお腹にたまるもの食べるんで、もうよございます的な気持ちも来る。

 大体平均律って何?1オクターブを均等に周波数で割って出す音階らしい。でもバッハはそんな風に厳密なものを言ってないと大塚先生は言う。

 Wohltemperierte            というのは丁度いい加減の温度、というとき、ワインや湯加減に使う言葉で、12の音をうまく塩梅する、気分をなだめるというような意味がある。これはバッハの野心作で、何重ものかけことばになっているらしい。

 第一巻第一番はハ長調。メロディがなく伴奏譜のようだから、グノーがずーっとあとで旋律を書いた。「アヴェマリア」。有名だよね。それはバッハの意図がわからず一小節足した譜なんだって。まずオルガンで弾く。ちっちゃい学校のオルガンみたいな見かけから、湯気のような優しい音がする。ぶわわわと途切れて聴こえる低い音。肺の奥のような音。旋律の追いかけっこが始まる。淡い影踏みみたい。オルガンて鋭い音とか出せないのかも、となんかちょっとその性格に悲しさを感じる。ハンスのことが好きな自意識過剰のトニオ・クレェゲルとか思い出した。

 今度はチェンバロで同じ曲を弾いた。鮮やか。オルガンが内省的な感じがするのに比べて、チェンバロって主人公ぽい。オルガンは音が減衰しないけど、チェンバロはキープするのが難しいそうだ。はかなく消えてゆく華麗ではなやかな音。

 ハ短調の説明をするとき、チェンバロで、「パルティータの2番」だのこれこれだのといって、立ったままちょいちょいっと冒頭部を弾いてくれるのだが、もうそれが、手抜きのない真剣な数小節で、呉服屋さんが豪奢なうちかけをちょっとみせて引っ込めるみたいで、「あのそれが」いいです、と言いも果てぬうち次のうちかけが来るような感じだった。

 オルガンは高い音をすっぽ抜けにしないのむずかしそうだな。曲の合間に、何度も調律師の人が来て、調整する。フーガの中には旋律が二つ入ってたり、三つだったり、三声といっても六声のときもあるそうだ。

 そうだ、一曲が「プレリュード」と「フーガ」で出来ている。プレリュードは前奏曲、フーガは遁走曲。バッハの「平均律クラヴィーア曲集」は1巻に24曲おさめられ、すべての長調短調の曲がある。

 とても速いむずかしいところを、大塚先生は普通の顔で弾く。CDとかでこの曲集ききかじっているから、同じ旋律がいくつも浮かび上がってきた後、(ああーあの速いとこ来る)と、聴きながらスリリング。音楽っていろんなこと言う。言えないことや言わないこと、言うのを忘れていること。などと思う。

 この曲には「かえるのうた」が入っていますよと言って弾き始めた曲は、もう、カエルの歌にしか聞こえないし、楽譜の中に十字架が潜ませてあったり、バッハにはいろんなことができて、いろんなことをして見せたんだなと思った。

 チェンバロを聴くと、音の林に迷い込む感じ。旋律が、かぐや姫の竹のように光って見える。絵巻物みたいな景色なのに、大塚先生は淡々と、すいすい弾いていく。一曲ごと、大塚先生は丁寧なお辞儀をする。あと、「Nr.6 in d-moll」のようなことを一息に言うのが音楽家らしくてかっこいい。3時間のコンサートだったけど、12番のチェンバロを聴いたとき、(これは今日チェンバロで弾いてくれなくちゃね…!)と思うくらい素敵だった。

 演奏を聴きながら上蓋をながめていると、違うとわかっているのに、「音楽はあなたがたの内側にあります。」と書いてあるような気がしてきちゃうのであった。冒涜かなー。

ハイバイ15周年記念同時上演 『て』

 「あれどうしたの、顔すっきりしているよ」昨日『夫婦』を見て帰宅すると、家族がそんなこと言ったのだ。すっきりしたーめっちゃすっきりした、自分の中の一部が成仏したみたいにすっきりした。今日はその前段、ばらばらになっている荒んだ家族が、もう一度やり直そうと認知症のおばあさん(井上菊枝=能島瑞穂)の家に集まる『て』である。

 ここの家の父(猪俣俊明)は家族全員にほぼ平等に、立ち直れないほどの心の傷を負わせている。暴力、父はそれを愛情だという。殴るというのは、あれは愛情ではなく、「わかってくれ」という甘えである。次男の次郎(田村健太郎)は父に「百万くれ」という。この百万円は愛情が諦められない裏返しだ。愛、甘え、憎しみ、恨み、復讐が入り混じり、どこにも行けない家族はまじまじと顔を見合って大声で話をする。

 家族の再集合は二度語られる。最初は次郎の視点。それから母(浅野和之)の視点。「認知のゆがみ」という言葉を思い出す。鬱に陥る人は辛いこと、痛い記憶が強化強調されるというものだ。次郎と母の視点が働くことで、芝居は客観的になり、「悪者」や「悪い発言」という単純な理解から逃れることができる。太郎の平原テツ、母の浅野和之が、避けられず免れられなかった傷を最もよく表していたと思う。浅野和之、笑わせるシーンが巧みなので最初戸惑うが、父と別れ話をするところが凄い。ぐつぐつ煮えている。苦しみの声。生きながら焼かれた人のような声だった。

 私は『て』より『夫婦』のわけわからなさが好きだ。これ、ちょっと、理に落ちると思ってしまう。観ながら「泣くために泣く」なんか、いやなんだもん。

ハイバイ15周年記念同時上演 『夫婦』

 幸福な家庭は似通っているが、威張ってるお父さんというものは、もっと似通っている。

 と、驚嘆の念でいっぱいになって家へ帰ってきた。どうしてあの人たちってローソクで勉強した街灯の下で勉強したって言いたがるのかしらねー。立派な仕事をしている/嫌な仕事をしているって子供にかずけるしねー。

 食台、テーブルが弱肉強食、食物連鎖の三角形を成して組みあげられている。家庭が食(お金)を基本にした集合であることや、生から死、のぼりつめても最終的に死んでしまうことを象徴しているのだろう。上部のテーブルに白地に赤の十字のものが見え、赤十字や神を連想する。洒落た和風の照明が三つさがり、それが全体に宇宙的な広がりをもたらしている。重ねたり、並べたりした食台の合間を抜けたり、テーブルの上を渡ったりしながら芝居は進む。ともすれば散らかった(岩井によればスライムのような)乱雑な空間で、虐待やら手術やら会話やらが行われるが、ひとり母通子(山内圭哉)がこの世界にきれいな水の流れをひきこんでいるように見える。山内圭哉の芝居は、全く重心がぶれず、糸で吊るした静まっている錘のようである。そのために「なにしたの」と訊くときには無力な感じがし、「でていきなさい」と迫っても逃げ場を奪うようには見えない。甘い。優しい。しかし、顕微鏡をのぞいていた若い時代と、主婦、老年になってからがちゃんと続いている。老年になっても何か娘らしさが匂うのだ。後半、後景で片足になってバランスを取って見せるところがあるが、通子はじつはやじろべえのように、この半分崩壊した家族の重心を取り、支えていたのだなと思った。小岩井(過去の岩井=渡邊雅廣)、もっとお父さん(岩井秀人)にがんがん迫りましょう。

ブルーノート東京 矢野顕子トリオ featuring ウィル・リー&クリス・パーカー

 オープントゥの靴を履いている女の人は、青山の街にも、ブルーノート東京にも、もうほとんどいない。8月下旬。秋だね。初めて一人で来たブルーノート、割といっぱいいっぱいです。

 スタッフがピアノの前に譜(歌詞のようにも見えた)を置く。ピアノの中央の「C.BECHSTEIN」の鈍い金文字が見える席。高級、よい音で知られるベヒシュタインのなかでも、いい種類だということがわかる。ピアノ越しに、青く照らされているドラムスが見えた。矢野顕子お勧めのずんだのパフェ、ずんだって、枝豆の皮をいちいち剥がさなきゃならないから自分では作りません。お洒落なパフェの口に広がるすりつぶした枝豆の青く懐かしい味、暗がりの中で確かめる東北の遠い遠い、広い旧家の板の間のすり鉢の気配。これちょっと矢野顕子に似てないか?表面のクリームをスプーンで割りながらしばし考える。いやいや、下手の考え休んでるみたいなもん、だって、ほら、ベース(ウィル・リー)とドラムス(クリス・パーカー)が駆け足で舞台に上がり、腕周りのゆったりした緑の服の矢野顕子ブルーノートのスタッフに先導されて登場した。

 ウィル・リーは白いTシャツにグレーのチェックのジレ、赤いベースを抱え、暑さ除けの風に当たっている。前髪がふわっと風で浮き上がり、サングラスがクール。かっこいい!弾きもしないうちから、めっちゃ弾けると感じる。たたずまいが違うのだ。メルセデスの塗料が、とろりと分厚いような感じなのだった。それは白の長そでシャツに黒のジレ、ドラムスのクリス・パーカーの静かに待っている様子も同じである。と、舞台上で問題が起き、青くなったスタッフが2人、調整に入る。ウィル・リーが「ちょっと待ってください」と日本語でじょうずにいってベースを弾き始め、軽々と短い歌にする。矢野顕子が(英語で)「その歌あるよ」と(とうとうじかに聞けたあの声、)ピアノで『ちょっと待ってください』を歌う。ピアノがうたい終わるとベースがまた始める。これ録音しようあした、てなことを言っているうちに機材直る。その間矢野顕子は、予期せぬことが起こる、これも人生。と悠揚迫らざる態度なのだった。

 子どもたちのきゃあきゃあ騒ぐ効果音に続いて、「ひまわりの影が短い」と『夏休みの子供』がオープニングナンバーだ。一曲目から背骨が揺れ、ぱしっと気持ちよく音が入ってくる、そして、そしてこれ名曲やん。糸井重里、『ふりむけばカエル』だけじゃなかった。夏の全てが詰まってる。2曲目はキーボードに向かい、C’mon Let’s Falling Loveと歌う曲。ドラムス、ベース、ピアノと、なにかサウンドを眺めている気分。明るい茶の揺れる髪、むかしテレビで矢野顕子のライブやったとき、髪の色がとっても素敵で(なんだろう、なんか「巴里」っぽいつやつやした栗の色なのだった)あの色に染めたいなと思ったことあったなー。

 矢野顕子は、こんばんは矢野顕子です。1年ぶりにブルーノートに帰ってこれて、家に帰ってきた感じです。皆様ようこそ我が家へ。カクテルおかわりの方。あ。どうぞどうぞ。などと言い、次に『悩む人』を弾きはじめる。

 あたらしい朝まではここに悩む人

 矢野顕子の声を、口蓋と喉にちょっと力を入れて真似ながら、自室で何度も何度も歌ったもんだ。しかし、ライブをみればすぐわかることだが、矢野顕子はあの声を、「肚」から出している。担保がない。凄みがある。『悩む人』聴いてるうちに、何を聴いているのかわからなくなる。20代のひよこ色の短パンはいて歌ってた自分か、思い出か、なんだ。心の中はもう泣きじゃくっているのだった。指の先でピアノに波を立てるように押すように、矢野顕子が音階を弾く。Welcome To Jupiter、ドニー・ハザウェイの曲、段々に音楽の姿が見えてくる。

 ドラムス、ベース、ピアノ、それぞれがきりっとしたこれから綯う縄みたいなのだ。低く唸るしっかりしたベース(ぜったいださくならない垢抜けた音)、これ見よがしにならないセンスいいドラムス、たくさんたたいてもクールだ、そして矢野顕子のピアノ。ピアノの勁い音と、それに対立するような、負けまいとして出す声を聴いたとき、わあと思いました。

 ピアノはともだち、

 ピアノはモンスター、

 ピアノはライバルなんだなー。

 三本の清浄な縄が、互いを求めて空間に立ち上がっているような、少し怖い光景、低い地鳴りのするベース、攻めの手を緩めないドラムス、捩れる声とピアノ、次第にすべてが撚り合わさっていく。舞台の3人は弾いているけど聴いていて、その聴くことの中に見ることが入っている。この人たちは見ているのだ、音が空へ身をひねりながら昇っていくとこを。

劇団青年座 第233回公演 『3組の夫婦による ぼたん雪が舞うとき』

 原発から30㎞離れた町、地震原発が壊れ、コンクリートの建物の中にいるようにという指示が出ている。夫(横堀悦夫)と妻(津田真澄)はほかに選択肢もないらしく、木造モルタル築30年の自宅の、いちばん奥まった子供部屋に避難する。夫は片耳が遠く、妻は心筋症だ。一人娘はフランスにいる。一見元気そうな二人が、目に見えない不気味な災害に押し流され、恐ろしくも美しくも見える孤独の中を漂う様を描く。

 横堀悦夫津田真澄、どちらも言葉が浮かないように細心の注意を払っていて、好演している。最初の「あいたっ」っていうのがちょっと痛そうでないのと、体を動かすときに柔軟ばりばりやってますというのが匂う以外、気になるとこはない。優しくかなしく怖い芝居である。

 妻は古いアルバムを見つけて夫の両親に思いを馳せ、自分たちの来し方を振り返り、娘や孫の将来を想像する。原発事故の死の影との対比の「生命」、これがこの芝居の落としどころになっているみたいなのだ。しかし、私には子供がいないせいか、ここ、引いた。それはある人の家を先輩が訪問した時、子供たちのコーラスでもてなした、という話を聞いたときの(うひゃっ)というかんじと似ている。この疑いのない感じ。臆面のなさ。スコップを地面に入れたらすぐに岩にあたってしまったような手ごたえ。死と並列されてるからいいの?誰もが皆納得する。異論も唱えられない。だけど、ほんとにそんなことをそんな風に言いたいのか?疑問に思った。

 見えない恐怖に狎れていくところが、もっとデリケートに描かれていたらよかった。あと倒れたキューピー人形の頭が、なんだかセクシャルに見えたけど、いいのかな。