劇団民藝 『時を接ぐ』 (岸富美子・石井妙子『満映とわたし』〈文藝春秋刊〉より)

 どうする民藝!

 どうした丹野郁弓!

 どうなってる黒川陽子!

 …と、縺れてなかなかほどけない焦燥感でいっぱいになって帰ってきた。まず、私が「若いほう」に数えられる客席がいかん。幅広いおきゃくさんに来てもらわないと。たまに若い人みても「関係者の孫だな」としか思わない。いまどき、客席で本を開いているような若い人、それは特殊な人だ。

 丹野郁弓の演出は、雑然とした「生き始める前」の大道具、小道具を見せる。それは風に吹き攫われるように儚い「現在」を示しているのだろうと思うけど、このような流儀、まえも見た。まあでも、世阿弥だって同じ演出ずっとやっているのだから、構わないといえば構わない。映画への愛が薄い。

 岸富美子の『満映とわたし』を読んで一番印象に残ったのは、無名の映画編集者であった岸が、「李香蘭はどんな人でしたか」「甘粕はどんな人でしたか」と訊かれてばかりで、自分の人生の一部を截りとられ、ほかの人の「映画」に差し出し続けだったのを、「とりもどす」「人生を一つにつなげる」ってところだった。日本人が仲間を陥れるところも強烈だった。黒川陽子の脚本は、「貧乏で苦労」「女として苦労」「戦争で苦労」と総花式で、岸(日色ともゑ)の人生の表面を撫でるだけ、その割には甘粕(境賢一?好演)の演説はとても長い。家族が卓袱台を囲むシーンでは、民藝の若い俳優も、そこまで若くないとわかってしまう。甘粕だって、うまくて当然なのだ。きっと初日の前は大道具の転換ばっかり浚っていたよね。そのせいか塩田泰久、子供の芝居ちょっと雑。

ふくふくや第19回公演 『ウソのホント ―真実なんてクソくらえ!―』

 自分が好き。自己肯定感ともいうけれど、山野海の「自分が好き」は人よりちょっと分量が多い。それが芝居を「お姫様(自分)の芝居」にしてしまいそうになる。いつも、(いい役で嬉しい)と見えるのだ。確かに以前観た時より抑制はきいている、だが、今回、芝居の出来がとてもいいだけに、微かな自己愛が惜しい。勿論その自己肯定感の助けがなければ、山野は五十代の今日まで芝居を続けることはできなかったはずだ。大変だったね。けどそれもう要らない。竹田新として、新しい乗り物に乗り換える時が来たのだ。一番いい役を、他人に手渡す時が。

 風俗の世界をよく調べ、江戸時代さながらのソープ嬢の住み替えとそれにまつわる規格外の人々(女装バー、AVグッズ店長〈山本啓之〉、風俗嬢〈中村まゆみ〉、ソープと中華を経営する謎の中国人〈かなやす慶行〉等々)を鮮やかに配し、清掃のおばちゃん(山野海)とその母親違いの弟(塚原大助)の過去を絡ませて、おもしろく目の離せない仕上がりだ。

 ビルを持っているボンボン(石倉良信)の目張りの顔が可笑しく、キメの芝居が押し付けすぎず、絶妙にうまい。女装バーの店長(浜谷康幸)は女装愛が薄い。薄いと、告白が浮き(茶々を入れるタイミングが遅い)、「いい場面を作ってあげました」みたいな作家の意図が出てしまう。上手外と下手の部屋で二重に進行するシーンはあまりうまくいってない。塚原大助の弁護士は弁護士に見えない。お勉強感がなかった。

 ふくふくやの、風俗で凄絶な一生を送ってきた人のインタビューは、そのインパクトもさることながら、竹田新の肯定も否定もしない受け止める姿勢がいいなと思った。ジャッジしない。作家はこうでないと。来年この芝居は第二弾があるらしい。楽しみです。

渋谷TOHO 『プーと大人になった僕』

 「おやすみのおいのり」(クリストファー・ロビンがおいのりをする)という詩の朗読レコードを、いじめっ子たちは繰り返し繰り返し、クリストファー・ロビンに聴かせた。その「面白さがすりきれて」しまうと、彼らはレコードをクリストファー・ロビンに進呈し、クリストファー・ロビンはそれを野原にもっていって粉々にした。…というようなつらい話は一つも出てこない。パンフレットは売り切れ、映画館は満員である。

 だってくまのプーがかわいいんだもん。ディズニーのプーではあるけれど、ずいぶんシェパードの描いたクラシック・プーに寄せてある。赤い上着のプーはいつか大人になったクリストファー・ロビンユアン・マクレガー)の心と重なっていく。クリストファー・ロビンは会社で猛烈に働き、妻(ヘイリー・アトウェル)と一人娘(ブロンテ・カーマイケル)と、なかなか一緒に過ごせない。

 ピグレット(なぜコブタじゃない!?)とプーは、クリストファー・ロビンが大人になった後も、時々クリストファー・ロビンの木のうろの家を見に行く。ここが泣かせる。いいシーンだ。CGでよかったのは、森(これがまた百ちょ森でない)にかえってきたピグレットがシダのにおいをかぐところだ。プーには眉毛もないのに悲しいきもちを表わすのが上手だった。

 結局これ、誰に向けた映画なんだろうか、そこがわからない。「プーが好きなみんな」にむけてってことなのかもしれないけど、視点がクリストファー・ロビンと娘の二つに分裂している。なぜ旅行鞄屋さんがでてくるのかもわからない、クリストファー・ロビンは妻と二人で本屋さんを経営していたはず。ディズニーは、子供と子供の本を巡る複雑な話には、興味がないんだね。

渋谷TOHO 『万引き家族』

 この映画って、「フリーハンド」だなー。

 定規やコンパスを使って作られた映画じゃない、まっすぐに引いたつもりの線でも少し曲がり、随時紙の凹凸を拾って太くなり、質感が出てしまう。「家族」「絆」ときれいに整理された「概念」を、「万引き家族」の、時におずおずした、時にのびやかなフリーハンドっぷりが揺さぶり、照射する。

 街の底に沈んだぼろ家で暮らす、寄せ集めの家族の遠い空を見上げる視線の屈託なさ、明るさ、それを知っている観客は終盤、定規を引いて繰り出される言葉の数々に、(ちがうちがう)と反論する。あの時曲がっていたあの線のゆがみ(ふれあう足先)、それが証拠だ。掠れて消えてしまっているいくつも引かれた輪郭(きいろいワンピース)、それが証拠だ。

 隅々まできちんと役者に演じられているのがかんじられる。特に安藤サクラは骨太にこの映画を支え、後半気の強い、負けてない女を演じた。しかし、前半の「産みたくて産んだわけじゃないといわれたら」というセリフと、ゆり(佐々木みゆ)を抱きしめて縁側にいるシーンが今一つ。ここ、たぶん信代の重層性、表情の亀裂(自分も虐待を受けた可能性、産めないこと)を見せることができたのにと思ってしまう。蜜柑が効果的に使われ、治(リリー・フランキー)の飲むコーヒーの湯気がとても温かい。緒方直人、もっとその場の空気を体に通して。

 細野晴臣の音楽がきらきらしたのん気な空気を不意にゆがませる。「家族」という物は本来フリーハンドで、「すて」たり「すてられ」たりを不意のゆがみのように繰り返しているものかもしれない。だけど、それじゃあ定規とフリーハンドの狭間のゆりはどうなるか、映画は鋭く怒気を発するのだ。

オンワードpresents新感線☆RS 『メタルマクベス disc2』

 「お父さんの芝居観たことあります。」お父さん世代でーす。

 前から3列目、あとからあとから座る客の顔がみな、思わず、そして必ずほころんでいる舞台の近さ。

 真夏の『メタルマクベスdisc1』の次は、この『disc2』、主人公のランダムスターを歌舞伎俳優の尾上松也が演じる。尾上松也よかった。なんといっても近いので、迫った眉と切れ長の目の間に施したグレーの翳と、凛々しく端正な顔つきがあっていて、見とれた。レスポール王(木場勝己)に伝令ヤマハ(インディ高橋)が戦況を報告(実際に報告するのはコブシの効いたメタルを見事に歌いこなす徳永君こと徳永ゆうきである)する時に見せる立ち回りはゆっくりでふわっとしており、「殺陣あんまり好きでない派」の私は、心の中で(要らんやん)というのだったが、芝居が進むにつれ、メタルは松也の中に滲みこんでいき、殺陣は次第に「肉を切らせて骨を断つ」間合いをつめた、惨酷なものになっていく。その滲みこみ加減、リアリティといったら、ランダムスターとマクベス魔Ⅱ夜の重なっていく姿を表わしていて鮮やかである。アフタートークを聞くと、松也さんという人は賢くて程よく自分が好き(自己肯定感がある)、そして気遣いもできるとわかるのだが、聞いているうちに欲が出る。この人もっとできるはずと思うのだ。歌舞伎をちょっとやって見せたりとかじゃなく、そこ抜きにして、骨太な、大きい役で観たい。メタルの滲みこみがちょっと遅い。もっと深いさまざまな貌ができると思う。そして歌詞気を付けて。大原櫻子、健闘してるけど、きぃぃぃっと叫ぶところ減らした方がいいよ。いいところを立てよう。「キャラメルの歌」の時の「眠れない顔」とか。レスポールJrと元きよし(原嘉孝)「奇妙なほど振付が体に入ってる人」としてよかった。門番(逆木圭一郎)、役を自分のものにしている。

劇団時間制作第十七回公演 『白紙の目次』

 まず、劇場の大きさに比して、声が大きすぎる。頑張ろうという気持ちが声に出てしまっている。頑張る気持ちは集中力に使おう。チラシにあらすじが書いてあるが、それが面白そうでなく、「テーマは『依存』。」ときちんと説明されていて、そんなことは観るほうが決めるのに、そんなセンスで大丈夫?と心配になる。

 神谷舞子(山本綾)が旅館の娘であることが、チラシを見ないとわからない。たくさん登場する女の人たちの、そのうちの一人として明快な描写がない。たくさん登場しすぎている。小説家沢木樹(はらみか)とその「マネージャー」福島栞(堀内華央里)ってなに?小説家にマネージャーっているの?声のトーンの重なりがきれいでない。二人だけの会話をみんなが聞いているのがリアルでない。作と演出が問題。

 この芝居で一番のもうけ役はすたか荘従業員池田晴菜(田中柚香)である。登退場のたびに心の色が変わり、おもしろい役だ。よく演じられていたのは舞子の夫雄太郎(田名瀬偉年)、何でも屋弓削敦(野村龍一)、雄太郎の幼馴染輪島大地(金田侑生)の三人だった。特に輪島はちょっとしか登場しないのに、逆転した世界(価値観の倒立した世界)の手触りをしっかり伝える。田名瀬偉年は芝居もいいけど、小道具とってもよかったよ。宿のカウンターに置かれた千葉県の観光案内とか、スナック菓子のスタンドとか、芝居にぴったりで胸が躍る。

バッドエンドやハッピーエンドを気にしてる年頃の人に言うのもなんだけど、脚本2500円(紙を綴じたもの)ってどうかと思う。自負するって素晴らしい、自信持ってるっていいことなんだろうが、山尾悠子の本だって2000円なんですよ。

東京富士美術館 『長くつ下のピッピの世界展  リンドグレーンが描く北欧の暮らしと子どもたち 』

「『ピッピ』シリーズが人生を変えた、と語ってくれた人も大勢います。でもね、最高のお賞めの言葉は、あるときだれとも知れないご婦人が紙きれに書いてくれたことづてです。『暗鬱だった子ども時代を、輝かせてくださって、ありがとうございました』。これだけでしたが、わたしは満足しました」(『子どもの本の8人』ジョナサン・コットのインタビューによる)

 ここんとこ読むと、いつも泣く。ピッピが大好きだった自分、夜寝る時も、滑り台をすべる時も持ち歩いていた『長くつ下のピッピ』を思う時、気づかない所でとんでもなく憂鬱だった6才の自分の分も、この知らない女の人がお礼を言ってくれていると思うのだ。

 はーい、というわけでとってもとっても遠い美術館にやってきました。スウェーデンの「アストリッド・リンドグレーン アーカイヴ」と呼ばれるリンドグレーンの資料は、書庫で140メートル分ある、というのに、会場の始まりにばーん!とリンドグレーンが娘のカーリンに贈った手作りのピッピの本が飾られている。表紙に肩の張った手足の長いおさげの女の子が、青と赤に塗り分けられた服を着て、「ハーイ」とこちらにあいさつしている。オレンジの長靴下とグレーの長靴下、そしてあのすごく大きい靴。子供の時ボタン留めのエナメルのお出かけ靴がどんなに痛かったか、こんな靴はいてればそれも解決だ、と、大人の心でちょっと笑う。きれいにタイプされた本文は、すでに完璧だった。

 この夏イングリッド・ヴァン・ニィマンの挿絵版の『長くつ下のピッピ』が岩波から発売されたが、私は櫻井誠に申し訳ないくらいすんなりとこの本を受け入れた。岩波の初版のころは、日本の真面目なお母さんたちが漫画を敵視している時代だったから、この躍動する、破天荒な絵は載せられなかったのだろうか。それとも、ニィマンが59年に自死しているために、版権に問題があったのかな。とにかくニィマンのピッピは、敏捷ではつらつとしていて、コーヒーカップをかぶり、垂れてくるコーヒーをものともせず、座っている椅子を二本足にして大笑いしているところなど、こちらも笑わずにいられない。

 かと思うと、ピッピが庭でトミーとアンニカと三人でコーヒーを飲んでいる。ペン画だ。片手で隠れるくらいの小さい絵で、アンニカの碁盤縞のワンピースが、こまかくこまかく、生真面目に繊細に黒白塗り分けられているのをみると、この人は性格にふり幅の大きい人だったんだなと感じる。日本の着物を着た人形を描いた絵が何枚かあり、そういえば『カイサとおばあちゃん』(岩波書店)に出てくる子は皆少し目尻が上がっていて、葛飾北斎が好きだったというニィマンの東洋趣味をうかがわせる。病気で片目が見えなかったイングリッド・ヴァン・ニィマンの人生、伝記がでれば、私かいます。

 その他の本でリンドグレーンの本に挿絵をつけたイロン・ヴィークランドについては、リンドグレーンの最高傑作である『はるかな国の兄弟』に、イロン・ヴィークランドもまた、最高の挿絵をつけている、というにとどめる。大きな滝に棲む恐ろしい竜カトラめがけて巨石を落とそうとするヨナタン、今回の展覧会に来ています。あと、90年代に描かれたこどもは、何かいたずらっぽい老人の妖精のようにも見えて来て不思議です。

 リンドグレーンは17歳で地元の新聞社に勤め始めた後、新聞記者と恋愛して19歳で長男ラーシュを生んでいる。しかし結婚に至らなかったため、彼女はデンマークに子供を預け、ストックホルムで秘書として働いた。そのことはリンドグレーンの軛となり、重石となり、浮き輪となり、作家としての羽の一部だったと思う。それ、もっと早く知りたかった。