マッチポンプ調査室 第八回公演『神家1/2』

 愛嬌は世界を救うか。いや、あの、救わない?よくわかんないけど、「マッチポンプ調査室」の作・演出白倉裕二は、愛嬌のある、いい人なのであった。そこに胸を打たれて帰ってきたよ。

 孤児で、十年間監禁されていた神家幸子(山口磨美、矢島美音)は、大学に進学し、そこでクスリを作る妖しいサークル主宰に祀りあげられる。宗教化、先鋭化してゆく団体の中で、幸子の立場は危うい、ドラスティックなものになってゆく。

 まずね、全部が、懐かしい。小劇場の感覚を久しぶりで味わった。私の知っている小劇場と違うのは、皆踊りがうまくて(心の中で「踊ってー」と何度も言った)、殺陣も目が覚めるように鮮やかだという点だ。「ララランド」にあわせて踊る所や、幸子の乗った車を追いかける幼馴染たち(中谷智昭、福山健介、赤間直哉)が追い付けずに転ぶときの体のキレがすばらしい。32人も出てるのに、誰もがきちんと自分の役を掴んでけん命に演じる。

 問題は人物と筋が複雑すぎ、ばらばらで、把握できないとこだ。もっと絞ったほうがよかったんじゃない?レイプシーンが不愉快、人体がバラバラするのも世相かなと思ったがいやである。それは白倉が呈示する世界が善悪で分けられないことを示している。例えば「あなたは天国行ですよ」と言われた人が天国に行ったら、地獄に行ったはずの人もやっぱりいて、「えー!?」って思う感じ。

 殺陣になったら白倉はじめ男子が皆生き生きして可笑しくかわいく、笑わずにいられなかった。「幸せになってもいい」と言ってあげるところ、温かい心を感じる。でも劇作相当頑張らないとね。

 岩崎MARK雄大、英語に寄り掛かっちゃだめ、「も一つピリッとしないアメリカの役者」に見える。

国立西洋美術館 『ルーベンス展――バロックの誕生』

 「工房を作って安い絵に加筆、大儲けして邸宅を買った碌でもない絵かき」。

 …と、まあ、私の中のルーベンスの評価はこのように最低だったわけだけど、田舎なら近場の温泉にも着くほどの時間をかけて、行ってきました。

 会場に入るとかなり大きなスクリーンで数分のルーベンスの紹介をみられる。ここが超重要。1577年生まれのルーベンスは、1600~1608年をイタリアで過ごし、1606年サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ教会の壁画を手掛ける。美しく彩色された天井画、ドーム型にせりあがってはまた引っ込む屋根の構造(ゴシック?)、見ているうちに自分が卵の殻の中にいる小人の様にも、宇宙を見渡す一人きりの人のようにも思えてくる。ルーベンスの絵は、このごっつい建築に負けない。豪胆で流麗だった。立派な絵描きやん。アントウェルペンに帰ってすぐ描いた教会の壁画も立派。じゃないとネロ、死んでも死にきれないよねー。

 ルーベンスの自画像の写しが会場の最初に掲げられている。思ってたのと違う。内省的でしぶい細身の男。まあそう思われようと考えてたのかもしれないが、ただ単に、語学、外交、人付き合い、商売、何でもできちゃう男の人だったのかもね。

 ティツィアーノの絵を模写した『毛皮を着た若い女性像』が、おもしろい。(どうしてティツィアーノの絵――コピーでいいから――並べなかったの?)私は賢そうなティツィアーノの絵の方が好き。ルーベンスのは顔のはば、腕、胸、何もかもがたっぷりしている。なんかね、「太っている」「弛んでいる」ということの中に、ルーベンスの趣味(たぶん)、「柔らかい」ことへの偏愛が滲んでいて怖いよね。という気がした。

 かと思えば『聖アンデレの殉教』のように「ご立派」感の出た絵もある。ダイナミックで、緊張していて、登場人物の視線がビームのように劇的に交差し、いつの間にか聖アンデレの天に向けた視線に登りつめ、集約されていく。

 ルーベンスの筆はなんだかみな波打っていて、会場を出た後も、視界から脈打つ「うねうね」がなかなか取れなかったのでした。

日生劇場 音楽劇『道 La Strada』

 ゾーイトロープ。切れ目を入れた黒い筒の内側に、すこしづつ動いている物を描いた絵を丸めて入れ、くるくる黒い筒を回すと、中の絵が動き始める、映画の先祖だ。ホリゾントの黒い雲と白い雲が、透き間に見える青空を、すこし、ほんの少し、気のせいぐらいゆっくりと動いてゆくような。これ、ゾーイトロープだねぇ。でも、『黒蜥蜴』の演出と、似てるねー。空の下にちゃちな円形の座席が四段続き、これが舞台を囲むのだろう。上手と下手にさびしく電飾をともした登場口が二つある。舞台の座席に本物の観客が入り、客席のざわめきが大きくなる。裏側の収納が見えているサーカスの古ぼけた二重。湾曲している。客席の向こうは、海なのかなー。空は悠久、その下をしょぼいちゃちな時間が流れる。悠久とちゃち、現実と虚構は一つのもの、ただ、ゾーイトロープの速さが違っているのだ。

 「ザンパノが、アンソニー・クインじゃないけど、ザンパノだわ。」と思うくらい、草薙剛はザンパノ、粗暴で考えることを止めている力自慢の大道芸人に没入している。ジェルソミーナ(蒔田彩珠)は、頭が足りない感じはしないけど、声に汚れがなく清純で(この時点でジェルソミーナをほぼクリア)、嬉しいおまけとして感情に嘘がなく、すべてに集中を切らさず芝居が連続していた。それからイル・マット(海宝直人)は軽やかに、口の立つ綱渡り芸人を演じる。三人ともなんも問題ない。問題は関係だよねー。やり取りに微妙なニュアンスが足りない。隠された愛や奪われた希望、考えるのを止めている失望、それらが欠けております。ザンパノは芝居の幅が狭く、ジェルソミーナは哀しさが足りず、イル・マットは流暢すぎる。デリケートにね。楽器を自分で演奏しないところ、すこし場内から笑いが漏れていました。

劇団民藝 『グレイクリスマス』

 おっ、びりっとしてるね民藝。という今日の『グレイクリスマス』であった。斉藤憐の戯曲が面白く、一人一人の俳優が、登場人物と真剣に渡り合うのが感じられる。

 ぱっと見、ここがどこなのかわからない、という装置。上手(かみて)に材を選んだ大きな階段、朝香宮邸だの加賀様だのを思い出す壁紙やソファセット、庭を見渡すガラスのフランス窓(しかしそれは『曇って』みえる)、中央奥に日本国旗を思わせる古風なステンドグラスの明かりとりがある。供待ち部屋?差し掛け部屋?玄関に近すぎるこの部屋――家――は、実は伯爵五條家の離れだ。日本の縮図、この小さな家の中で日本の戦後が生まれたり、消えたりする。

 アメリカ人の兵士が、アメリカ人らしく登場しなければいけない物語だが、神敏将は、髪型から何から、背面とびでぎりぎり難関を越えてくる。観ていてほっとした。日系将校イトウ(塩田泰久)も、「アメリカ」とかを英語発音するが、もう、最初のくだりの発音なんか、「めりけ」でじゅうぶんだよー。

 気合の入った作劇だが、皆トーンが、一緒。空間にセリフを張りつける調子が単調で飽きる。そのせいで軽さが出ずもひとつ笑えん。境賢一のトーンも軽いほうがいい。

 あと岡本健一、のんべの兵士とか老眼の亡霊とか、通な役が続いているけど、おもいだして!あなたはかっこいいんだよ!ひしゃげた声じゃなく、いい声も出さないと、雅子(神保有輝美)とのシーンがもたない。雅子ここでは声大きすぎ。二人きりでやり取りしてください。客に「見せよう」とする必要はない。イトウと五條伯爵の妻華子(中地美佐子)も、「見せよう」とするから面白くない。萌えないよ。ここデリケートになったら泣くと思う。五條伯爵(千葉茂則)二幕で突然よくなった。みやざこ夏穂声に説得力がある。

新橋演舞場 『喜劇 有頂天団地』

 演じる女の人がみなハンサムで素晴らしい。新島襄が八重さんをハンサムといったハンサムね。きりっとしてる。

 昭和50年ごろ、郊外の住宅地に立った六軒の小さな新興住宅。ここへ越してきた主婦たちの近所づきあいの、波立つ悲喜こもごもが語られる。…って、その主婦の芯になるのが渡辺えりで、対立するのがキムラ緑子だから大型台風のよう。鷲尾真知子の高見沢夫人が和服で静々でてくるだけでわくわくする。ハンサムやん!

 波乱万丈の二幕は尻上がりに面白くなるけども、一幕がきつい。芝居が皆装置の奥にこもってて、まえへ出てこない感じである。例えばくに子(キムラ緑子)の夫伸一郎(田中美央)が妻と隣の家の秀子(渡辺えり)の意見に挟まれてどっちつかずになるシーンは、もっとはっきり演出して、観客にアピールした方がいいよ。一幕はメリハリがついてない。休憩後帰ってこなかったお客さんがいた。あと、上手側の隅に座っていたのだが、舞台が回るときセットの端の黒幕が気になった。

 キムラ緑子の芝居がとても充実していて、みんな!早くキムラ緑子捉まえて、自分の所の芝居に出さなくちゃだめよ!という気持ち。二幕はジェットコースターのように感情が上下し、身も世もなく泣き崩れる場面もあるが、どれも迫って来るのに押しつけてこない。

 渡辺えり、おもしろいがもすこしメリハリ。「素」が薄く、何かしでかしそうな予感でいっぱいなんだもん。

 姑の富江広岡由里子)はもうちょっと前に出ていい。

 前に出てこないといえば往診の女医豊田(泉関奈津子)や、新入りの筆塚夫人(田辺佳子)と京堂夫人(沖中千英乃)が前に出ずきっちり役目を果たしハンサムである。特に沖中千英乃ぴりっとしていた。

PARCO STAGE 『命売ります』

 とりあえず、東啓介、いま、きらっきらな時間を過ごしているのだよきみは、と、説教じみたことを言ってみよう。アングラのレジェンドや小劇場の腕利きと、たった今、舞台に立ってる。いいよね。しかも、イカの足的に味わい深い、ずれ続けるノリを表現するという難しいおまけつき。

 冒頭の東啓介をみてどうすんだ!とちょっとあせった。不用意に呼吸しちゃだめだよ、呼吸も「見せる」ものだし、ためしに町田水城が台詞言いながらどんなふうに呼吸してるか、見てごらん。体に台詞を落としてない、いつでも何かを「してみせている」、とメモしていたら、なんか突然、中盤から別人のようになり仰天した。呼吸が深くなり、相手役の台詞がよく聴けていて、喘ぎ声など自然。集中したのかなあ。なんだよーできるんじゃないかー。

 二階と一階、上下にドア(一つ一つ意匠を変えてある)が15も並び、舞台上には柩のようなテーブルがいくつか据えられている。ドアと柩との相似性、「住所」が死への道のりを決定づけている。すると羽仁夫(東啓介)は、住所不定になることで、宙ぶらりんになり、同時に死から逃げまくることになるなあ。いろんな女から愛されて「死に」きれない羽仁夫は三島そのものかもしれない。血を吸われて平穏に幸せに暮らす、という皮肉な視点は、結婚生活に三島が抱いていた恐怖心だろう。

 平田敦子が金髪のかつらを問い詰められて、筋肉だって衣装でしょと泣きながら言う。終幕、市川しんぺーは問われてやっぱり泣き崩れる。筋肉や、思想に圧迫された魂、三島って、乙女のような(乙女も演じていたのか?)誰かだったのかしらん。薫(上村海成)の「いきてね」とてもよかった。

新国立劇場小劇場 『スカイライト』(プレビュー)

 舞台を挟んで両側に階段状に客席。仕切りを取り去ったアパートの部屋。貧寒としている。右端と左端に上げ下げ窓があり、左端は四角く囲われてキッチンになっている。みすぼらしいダイニングテーブル、ちぐはぐの椅子、こたつと見まがう寝乱れたベッド、へたった安楽椅子の足元、部屋のそこここに、乱雑に積まれたり、それが崩れたりしている本。自分ちかー。

 どんなにキラ(蒼井優)が否定しようと、キラがアリスを裏切ってトム(浅野雅博)と不倫したことをすごーく悔いていることがはっきり伝わってくる。妻アリスが死んで一年、キラと別れて三年、トムはキラのアパートを訪ねる。トムは失われた可能性を取り戻そうとし、キラは悩みながら掴んだ信条ごと自分をわかってもらおうとする。愛しあっているのに理解しあえない二人、皮肉を言い、怒鳴りあい、抱きあって、もどかしい一夜は過ぎ去ってゆく。彼らの前には過去の罪と、階級差や「ビジネス」と「献身」の違いが立ちはだかるのだった。戯曲が面白くて、二人の応酬が始まると客席が息を飲んで集中する。最初にキラが自分の立場を説明しようとするところ、たぶん蒼井優も腑に落ちないのだろう、よくわからん。六年半もつきあっといて罪悪感て何。ここ、戯曲の弱いとこだと思う。しかし、キラがリネンのナプキンに顔をうずめる表情が素晴らしい。一緒に激動の一夜を戦った気になる。浅野雅博、ストーブに足つけるリアルさに笑った。もっと横柄でもいいよ。心の全てを込めた手紙を置きっぱなしにする、致命的な感じが欲しい。葉山奨之、台詞忘れちゃったの?忘れても台詞の感触があっているところはすごいが、吃音がリアルすぎる。心配で芝居に集中できません。あと、雪が冷たくまたシェルターのようで、よかった。