すみだパークスタジオ 『扉座サテライト公演 LOVE LOVE LOVE 22』

 「きみとぼくには脳みそがある。他のやつらのは、《みそ》ばかりだ。」と、『くまのプーさん』で、たしかウサギがフクロに言うとった。

 一生に一度くらい、他人に脳を預け、演劇に没入する体験も、わるくないかもしれないなあ、とざわざわするパークスタジオ内で、ぼんやり物思うのだった。

 客入れからすでに演出は始まっていて、スタッフは舞台を小走りに走り、案内係は緊張した感じで話し、年寄も知ってるドリカムからヴォーカロイドの最近の曲までが大きく流れ、客席内の「湯加減」を上げにかかっているのだった。脳みそを手放さない脇役の中年者、でもぜんぜん大人らしくない自分は、「ふーん」と少し冷めた気持ちになる。上手下手から二人の青年が出て来て、気合を入れて青と赤の旗を振る。風を切る旗がきれい。『ロミオ(山中博志)とジュリエット(大浦雛乃)』が始まる。まず、男の人たちの「ヴェローナ」がきちんと聴こえない。特に林智和、伝統的な扉座発声。真情は伝わるけど割れていて、それじゃ大劇場に立てないよ。大浦雛乃はお姫様発声をしない珍しい女優で、役に近づくより、役の方から迎えに来てもらうというスタンスのようだ。「じぶん」が確立できて、発声がぱりっとしたら、いいかもしれない。

 今回一番よかったのは佐々木このみの猫(のびのびやっていた)と、最後に叫ぶ梅澤貴理子(わらった)だった。なにより、この二人には「脳」がある。「脳」を奪わず、便利に使わず(小器用にせず)、大切に育ててほしい。「さっちゃんの花火」の箕輪菜穂江、「実話」ってなかなか通じないよ。「ナマケモノ」が一番いい芝居してるようじゃダメ。みんな、ちゃんと自前の脳を持て。脳を預けてると、あっと言う間に年を取るよ。

新橋演舞場 『二月競春名作喜劇公演 華の太夫道中   おばあちゃんの子守歌』

 『華の太夫道中』 

美術 伊藤憙作。

 パンフレットの作・演出・題名の次に、その名の出ているのを見て、(あー、そうだろうなあ)と感じ入る。

 だってこの芝居、必ずしも「太夫さん」が主役じゃないもん。女の人たちが代々お灯明を上げ、格子を拭き、床を磨く島原遊郭の宝永楼、そこに流れる時間、引いては「京都」そのものを描こうとしている野心作なのだ。

 そこをばしっととらえた装置。宝永楼の内部は立派。でかい。小ゆるぎもしない。柱、お仏壇、厨、細緻にまた大胆に再現された宝永楼を、男たち、女たちが嬉しそうに、悲しそうに通り過ぎていく。

 戦争が終わって三年、労働争議の喧騒にまぎれて、2万円という金で売られてきた喜美太夫藤原紀香)と、宝永楼の女将おえい(波乃久里子)の交情が、ぽつりぽつりと舞台上に現れる。

 一番よかったのは3幕の太夫の道中を控えた宝永楼のざわめきの盛り上がりだ。あっちでお客様、こちらで男衆さんが草履をそろえ(何気なくてよかったよ)、いつもと容子の違う仲居頭(井上恵美子)がはきはき働き、禿は道中の歩き方の稽古をし、すべての騒ぎが有機的な生きものめいて盛り上がっていく。ここの演出がしっかりしているので、北条秀司の意図、伊藤憙作の装置が生きる。

 すこし頭のゆっくりした喜美太夫って、ジェルソミーナ(道・1954)がモデルかな。藤原紀香、よかった。足りない子という役は、賢い女の人なら皆できる。でも暗い気持ちにならずに見られるのは、北条秀司の「品」と、藤原紀香が無心だったせいだと思う。輪違屋主人善助(曾我廼家文童)とおえいのやりとりが、よかった。丹羽貞仁、控えめすぎる。遠慮しないでも少し客席向いて。3度も同じやり取りあるから工夫して。

 

 

『おばあちゃんの子守歌』

 「日本は20世紀をもう一回やりたがってる」という意見を見て、(そうなのかなあ)と思っていたけど、この芝居観ると、(もしかしてそうなの!?)とちょっと思う。

 なぜいま一度目の「東京オリンピック」の芝居?船場の製薬会社の令嬢喜代子(春本由香)が駆け落ちする。それをおさめに駆け落ち先まで出かける喜代子の祖母節子(水谷八重子)、祖母に続いて世間体を気にする父平太郎(渋谷天外)もやっぱりやって来る。悲しいこともありながら笑わせられ、よかったなあと思ってお客さんは帰っていくのかも。それならそれで私が何も言わなくてもいいよねと考えたりする。

 でもさ、これ、実は喜代子の境涯の裏に、小説『シズコズ・ドーター』(12歳で母が自殺、父はすぐに会社の部下と再婚、家の中で孤立)みたいな話がくっついているよね?じゃあそこもちゃんとやろうよ。言わなくてもみんな体の中にその重さをおさえてないとね。話が薄くなっちゃうよ。一場の平太郎とか、苦痛がないから只の説明に。

 昭和39年、女の人の24歳から先は断崖絶壁、「こしかけ」よりも長い期間働く女は「オールドミス」だった。世界は単純で、ものさしは一つ、それが懐かしいのかな。あの新婚家庭、あんなに貧しいのにテレビあったね。

 駄菓子屋の主人(曾我廼家寛太郎)のびっくりするところ、久しぶりに体が生き生きしている人を見た。水谷八重子(声大きくね)のみが赤ん坊の抱き方上手、扇治郎はクッションみたいにひっくり返していた。伊藤みどり、台詞忘れないように。

 新喜劇、これからどうすんの?20世紀もう一回やる?21世紀も随分過ぎちゃってるけど?

三越劇場 『初春花形新派公演 日本橋』

 初演大正4年、以来通算24回の公演。この『日本橋』という作品が、新派でいかに大切にされているかわかる。愛が世界の規矩に勝つプロットで、古びないでいる泉鏡花作品だしね。「雛の節句のあくる晩、春で、朧で、御縁日」台詞だって、きゃーすてきと思う。

 けれどもこれは、これから先がとても難しい芝居だ。お孝(河合雪之丞)と五十嵐伝吾(田口守)のいきさつに、葛木(喜多村緑郎)とお孝が泣きあうシーンなど、なんだか不審な気がするし、葛木が雲水になってしまうのもちょっとよく分からない。子役(山口彩羽)が伝吾を見守るところは、芝居としてはいいんだけど、子役の情操がしんぱいで辛くなる。

 「初代喜多村緑郎」「新派」「花柳章太郎」「鏡花」、いろんなものが覆いかぶさって、役者の手足を縛り、台詞を重くしている。もっとさー、ミーハーに行きましょう。芝居が誠実を尽くすのは、「自分の歴史」ではなく、「芝居そのもの」、ご見物の皆様にじゃないだろうか。ここんとこ、乖離するのよくない。羅宇屋のくだりや、「進」と「晋」の字の違いのとこ、もっと笑えるはず。

 伊藤みどりの因業なおばさんお角が飛びぬけてよく、むっつりバナナを食べている姿に笑った。

 冒頭、清葉(高橋惠子)が葛木のそばを通り抜ける時、二人の間に糸がついているように緊張していていい。

 清葉は美しいやさしい人として、お孝は火の出るような負けないたてひきの人として、伝吾はわけがわからなくなっている熱い人として、おのおのその「空気」をもっと出すことが肝要。本人同士の台詞も大事だが、「空気」「性分」「フォルム」がばーんと舞台上にある方がいい。だってこれ、現代じゃあわかりにくい芝居になっちゃっているんだから。

劇団東京乾電池アトリエ公演 『授業』

 教場で説明している先生って、しーんとした中、自分の声が響くのを聴きながら、「意味わかってる?通じてる?」って不安な時があると思う。その不安のピークの状態を、イヨネスコは舞台上に意図的に作り出す。

 「数」というもの、その概念が、生徒(安井紀子)に伝わらない。教授(柄本明)は必死になってマッチ箱(架空)や黒板(架空)を使い生徒に説明する。(生徒は紺の丸首のワンピース、白いリボンが首回りを一周し、胸の前で蝶結びになっていて、後ろに白いウェストタブがついている。腰のあたりに左右一本ずつタックが取ってあって、すごくかわいい。すごく似合ってる。戦前のモガのよう。)

 コミュニケーションの不全。教授は質問し、生徒は答えるが、問いと答えは何光年も隔たっている。「意味」が雲母のように剥がれ落ちてゆく。このかみ合わないやり取りの、教授の熱狂(熱心)と生徒の歯痛(不熱心)は、私たちに全く別の事柄を想起させる。

 …はずなのだが、この『授業』ではそこがさらっとしている。「歯が痛い」はさ、「恐怖と苦痛」と、「うっとり」が見た目(男から、或いは犯罪者から)区別がつかないってところが大切。「苦痛」(或いは「恐怖」、或いは「うっとり」)は、自分にもっと集中しないと。「柄本明の台詞の糸」「台詞の調子」に乗せなくていいよ。「痛い、歯が〇」と息抜かないほうがいい。緊張が続かない。

 各国語の台詞それぞれ違うように柄本明は言うけど、同じ方がいいのでは?生徒と同じく昂進していく集中がいまひとつ。

 初演(?)で省かれた腕章シーンあり。母みたいなマリー(上原奈美)好演。

 強烈なディスコミのなかで男が女を征服するっていう昔話、いや、そうとも言えない、ナチスが昔話と言い切れないように。

明治座 『50周年記念 前川清特別公演』

 「そして神戸」は怖い歌だ。疵のかさぶたを剥がすような、こちらを撃ちにくる竹刀にわざと当たりにいって、「自分から行く」ことで痛さを軽くするような感じ。濁り水に靴を投げ落とす、と歌詞は言うのだが、ぽいっと靴のように女を捨てたのは男だったかもしれず、身を投げて死んでしまいたい女の気持ちと、その靴(自分)を見下ろす冷めた泣かない女の絶望が、幾重にも折り重なって「靴を投げ落とす」に入っている。そしてこの歌詞がフレーズの最後、次の展開を呼び出す「キメ」になっているのが素晴らしい。作詞千家和也、作曲浜圭介。

 何度も聴いているうちに、こうした曲に恵まれるということが、どんなに稀有なことかを考えてしまう。歌手って、①歌がうまい②頭がいい③こつこつ頑張れる じゃだめなんだ。めぐりあわないと。そう思って、第一部の「どたばたショータイム!冷たくしないで」を見ると、納得する。売れている歌手の人ほど、「出会い」がどれほど大切か身に沁みているんだねー。大歌手「前沢清」に扮した前川清のぼうっとしている態度、紺の襟のついたシックなカーディガンに同色のパンツを合わせ、若者のようにスレンダーな姿で少し膝を曲げ、「え?」と言っているところがもう可笑しい。芝居はとっちらかっていて、どうなるんだろと思うのだが、そこは俳優の渡辺哲(声も通るし意味も一番伝わる)がものすごい力業でまとめていた。

 前川清は花道から登場するなり、「いつもよりたくさんのお客さんですね。なんかあったんでしょうね」と言っていた。共演の純烈のことを言っているのだが、あかるく、かるく、とぼけていて、笑えるし、いいコメントだ。純烈のメンバーも芝居に出ていて、そろってこけるところなど、一生懸命だった。

 2幕「長崎は今日も雨だった」をショッキングピンクのスーツで歌う前川清、「長崎はぁぁ」と、伸ばすところでマイクを少し下げ、そこが懐かしく、かっこいい。

 純烈のトラブルを聞いて前川清は「もうかったー」と思ったといい、それが関西や関東出身の純烈に伝わらない。それお金の話じゃないのよ。九州あたりでは、「得した」「ラッキー」っていう意味。名を遂げた九州出身の男の人って、中年ぐらいから九州弁がばんばん口からでて、気にしない傾向がある。前川清もそのようだ。紅白出演が決まっても泣いたことないといって、「歌すきじゃなかったもん」。それ、極めつけの佐世保のおじさんの台詞だね。笑った。長崎のクラブで歌い、食っていければいいと思っていた。人様に自分の歌を聞いてほしいと思ったこともなく、それよりお金が欲しかった。田舎の若者の切実な気持ちと、あっさり巧く歌が歌えてしまう自分の才能への戸惑いが匂う「歌すきじゃなかったもん」である。

 それから純烈とかわるがわる歌う「この愛に生きて」。一曲が別々の曲に聴こえる。純烈の白川裕二郎がうたうと、セロファンで包んだ花束のようで、前川清がうたうと、ざらっとした、胡粉かなんか塗った紙を指でたどる感じ。アパートの透明プラスチックのきらきらしたすだれ、若い女の白いくるぶしとか見える。前川清は自分の歌う番が済むと、ちょっと気楽になったようにコーラスをつける。

 いちいち口上が可笑しく、「一人になってからの歌も我慢して聞いてくださいね」とざっくばらんにはきはき言い、福山雅治の作った「向日葵」など。バンドのそばで水を飲み、そっとハンカチを口に当てている。歌に関しては繊細だ。上手に向かって歌い、下手側で歌い、中央で最後まで歌う。「男と女の破片」、一番は完璧、二番はちょっと残念、こういう所かなあ、マネージャーが「惜しいなあ」「練習ではうまいのに」というのは。

 3幕ではオールデイズを歌う。純烈、松居直美、息子紘毅と、どーんと派手に歌ってさっと引っ込み、紘毅が残る。「花束」という曲を歌う。少年のような、掠れた、甘い声だ。すこし、アニメっぽく感じる。私の言うアニメっぽいというのは、(他所事に聴こえる)という意味だ。自分のジャンル、自分のリミッターを越えて、攻めてきてほしい。まだ、めぐりあってないんでしょ。君のために生きるって、信じにくかった。それから純烈が3曲歌う。1曲目の音程外しても顔色変えず歌い切り、えらい。純烈はショウアップしていて、客席まわってきゃーっといわれていた。そういう位置から一歩一歩たたき上げてきたグループなのだろう。体の弱そうな少女が一生懸命ペンライトを振っていた。それから松居直美がやっぱり三曲歌い、観客を笑わせる。この人って、世の人の眼より、1ミリ嵩高に自分を評価していて、その1ミリのずれ、1ミリのお姫様っぽさがすべてを台無しにしていると長年思っていた。そこがなければ立派なコメディエンヌなのにさ。ところが、34年の芸能生活、結婚、子育て、離婚が彼女を変えていた。きゅっと集中して「ガラス坂」「はぐれ草」「涙の連絡船」をうたい、笑わすところは笑わせ、聴かせるところは聴かせる。とても受けていた。「おじさん足ずっと見てるけどさわっていいよ」っていうとこが、ちょっと辛くて、涙出そうになった。消えたはずの1ミリの差が、幻のように負の方向に出ちゃっている気がしたよ。

 水色のスーツに着替えた前川清が「雪列車」、それからヒット曲を2コーラスずつメドレーで歌っていく。

 「そして神戸」を全部うたったのだが、下手の花道で、手を振ったり、にこにこしたり、投げキッスしたりしながらの歌唱なのに、声だけ聴くと、「そして神戸」は厳然と悲しい絶望の歌として成立しているのだった。右手と左手で違う字を書いている人みたい、最後は「マイ・ウェイ」、辛抱強く、手斧で木像彫ってるみたいな前川清ショーでした。

渋谷CLUB QUATTRO  『エディ・リーダー』

 チケットの整理番号400番くらい、だというのに会場の人はまだ10番を呼んでいる。早すぎだよ、でもなんか早めに来ちゃうのだ。10番、15番、20番、あまりの番号の遠さに「ははは」と笑う。笑っているうちに順番がすんなり来て、ホールへ入る。今日は椅子がない、段差が円形に舞台を囲むところに一列あるくらい。30代40代、小さい子供連れ、50代、60代とそれぞれいる。どんどん人が増えてきた。ステージの真ん中にひょろんとマイクが一本立っている。それ以外はもう見えない。

 そこにエディ・リーダーとバンドが登場する。きらきらだ!きらきらのエディ・リーダー!耳から下がるラインストーン(?)のイヤリング、なんでそんなに光るのかと思うくらい光る黒地にラメのシャツ、赤く光る髪、「妹に写真送るね、」と言いながらスマホで会場と自分をさっと撮り、「信じないと思う、私が東京にいるなんて」、というと「はいはい、では機内モードにします」とライヴを始める。バンドメンバーの紹介を早口にして、アコーディオン(アラン・ケリー)、ダブルベース(ケビン・マクガイア)、ギター(ジョン・ダグラス)はわかったけど、ブー・ヘワーディーンの小さいウクレレのようなあの楽器は何だろか。マンドリン?バイオリンみたいなf字孔がついている。一曲目はComedy Waltz、ブー・ヘワーディーンの楽器がカットするように短く激しく鳴り、アコーディオンが音の通路を作る。エディ・リーダーの声も、短く激しい。彼女はステージの空気の中から声を取り出しているみたいに見える。すこししゃがれていて低い声かと思ったら、高い声、ファルセットも自在に出していて、「自分の声のベテラン」て感じにさっさっさっと喉を操る。でも前半より後半の方が調子よかったかな。

 2曲目が、もう、有名曲Perfect。みんなわっと喜んだけど、戸惑いもある。えっもうあの盛り上がる曲歌っちゃうの?エディ・リーダーはセットリストを決めずに曲を選ぶらしく、合間に厳しい顔になって曲名をメンバーに伝えているようだった。今日の白眉はね、ライブ後半で歌ったStarlightだった。声が伸び、コーラスもすてきで、星明りの降り注ぐ異世界へ、彼女に連れ出してもらったと思った。2曲目にPerfectを歌うのは、ライブが毎日違い、いつも新しいことに挑戦しているってことかもしれない。

 Dragonfliesが始まり、3拍子の中をアコーディオンがソロを取る。赤いボディに左手の触るあたりに、丸い釦が山ほどついている。今日、アコーディオンは大活躍だった。のどかな曲。落ち着く。儚いような、さびしいような歌詞だけど、悲しいばかりじゃないみたい。エディ・リーダーが首に巻いているのは、紺のウサギの手ぬぐいじゃないか。ということにも気づく。

 次は新作アルバム『キャバリア』からCavalier。自由の歌だと説明する。エディ・リーダーの英語よく分かる。かんたんな単語にイメージ喚起力があるもの。世の中すべて「わかってほしい」「わかりたい」の往還だなー。とおもってしまう。その心が世界を回している。

 Open your heart/’Cause I love you(略)’Cause we’re all lonely

すてきな歌だね。

 アルバム『キャヴァリア』と、これまでの曲を交代でやる。

 ロバート・バーンズのChalie Is My Darling は、リフレインを一緒に歌わせてくれる。それから、知らない曲の、とても長いフレーズを必死で覚えて歌った。認知症のテストみたいだったけれど、たのしかったなー。

 私の家ではエルヴィス・プレスリーが王様だったのよと音楽好き一家だったらしいエディ・リーダーはいい、母ジーンがうたいたいような歌いたくないような煙草を持ったままの恰好で、ムーン・リヴァーをいい感じに(やだ!はずかしい!)と言いながら歌うところを演じてくれる。昔の女の人って、自分も含めてそんな感じだよねと思う。その上にエディ・リーダーがある。

 すべて歌い終わってしばらく、聴衆が辛抱強く、熱く拍手をしていたら、エディは一人で出て来てくれた。アカペラでAllelujahを歌い、糸を切る身振りをして舞台袖に去る。暗くなる舞台。小さい、赤い赤いばらが1輪、目の裏に見える気がする。

シアタークリエ 『レベッカ』

 「モンテカルロ」という、微かに軽薄さを漂わせた明るい土地から、広大で陰鬱な、秘密でいっぱいの「マンダレー」のお屋敷へ、物語は跳躍する。1926年、21歳の「わたし」(平野綾)はうわさ好きの上流婦人ヴァン・ホッパー(森公美子)の〈お話し相手〉として雇われているが、同じホテルに泊まっている「マンダレー」の持ち主マキシム・ド・ウィンター(山口祐一郎)と、あっと言う間に結婚することになるのだ。おずおずした、世慣れない娘なのに、上流の中の上流ド・ウィンター夫人となった「わたし」を待ち受けるのは、マキシムの死んだ前妻レベッカの影である。「マンダレー」の家政を取り仕切るダンヴァース(保坂千寿)をはじめ、屋敷にはレベッカの思い出、その趣味、その指跡が充満している。圧倒される「わたし」、驚くべき告白を受けて、「わたし」とマキシムとの関係はどうなっていくのか。

 …というような話だけど、実はこれ、「隠され」「秘められ」、決して表ざたにならない種類の愛、二重の同性愛がベースになっているんじゃないかなあ。「禁忌」となった途端、同性愛は魔を呼ぶ。

 保坂千寿、立派に歌いこなし、演じきっているが、ちょっと、魔が少ない。それはこの芝居全部に言える。山口祐一郎を以前観てから10年以上たっているけど、ささやくような生気の薄い、説得力のある芝居になってて、これまでの苦闘が思われた。でも少し弱い。平野綾、台詞の声に「全部載せ」で全て表現するのやめた方がいいと思う。声で表わすのは五分(ごぶ)以下でいいよ。あとは身体と表情で。「わたし」とダンヴァース、マキシムとの二重唱、今日はいまいちだった。森公美子、ぎりぎりまで役柄を膨らませていて、後半出て来てうれしい。ベン(tekkan)の歌がとてもよかった。衒いなく繊細だった。