東京芸術劇場プレイハウス 『奇跡の人』

 アン・バンクロフトパティ・デュークが、私の舞台『奇跡の人』鑑賞の、邪魔をするー。特にヘレンが触角のように手をあげてどこまでも歩くロングショットと、無愛想だったサリバン先生がー。

 高畑充希、尻上がりによくなるけれど、前半の、ハウ博士(原康義)との会話シーンは、自分を突き放して笑っちゃうシーンが多すぎるのじゃないかな。アニー・サリバンは、心のどこかに、ジミー(島田裕仁)の悲鳴が灼きついている。自分を突き放す余裕があるだろうか。このジミーの悲鳴の消え際が、こんなにリアルで重みをもっているのに。

 「ウォーター」、そこで感動するってわかっているのだが、やっぱり自分の中の『奇跡の人』にまた上書きして新たな驚きを受け取る。

 鈴木梨央のヘレンは、表情に理知の光が灯る瞬間が凄い。ちいさな太陽が体を横切っていくみたいだ。この表情、お父さん(アーサー・ケラー大尉=益岡徹)は、稽古の時見た?見ていれば、もっと緊った声が出ると思うよ。お母さん(ケィティ=江口のりこ)は演技プランがしっかりしていて素晴らしい。しかし、登場シーンは、芝居のまずい上品な女優さんに見える。

 長男ジェイムス(須賀健太)、エヴ伯母さん(増子倭文江)、きちんとこの芝居の骨を支え、ゆるみがない。

 ヘレンとサリバン先生の格闘シーンは、観客を意識せず、もっと緊密に、互いを見合って行われた方がいい。「ショー」になったらつまらない。

 劇場の中はすすり泣きでいっぱいだが、この芝居にはそれを受け止める度量と気品がある。もっといい芝居になると思う。それは高畑充希にかかっている。

シアターコクーン シス・カンパニー公演『LIFE LIFE LIFE ~人生の3つのヴァージョン~』

 おや?幕開け、子供を寝かしつけるアンリ(稲垣吾郎)の息が浅く、弱い。息が浅いと、次に続く妻ソニア(ともさかりえ)の台詞をまたいで続くアンリの感情がぶつ切りになってしまう。ええと、直線の並縫いの運針の感じね、針が布に潜っていても、糸は続いてなくちゃ。実はこの息の浅さが、弱気で落ち込みがちの1話のアンリを表わしていることがわかってくるが、「子供を寝かしたい」という糸が、息の浅さで見失われているよー。

 特にこの1話目、錯綜する筈の4人の糸が、ぜんぜん錯綜しない。アンリと所長ユベール(段田安則)の上下関係や共犯(?)意識、ユベールが妻イネス(大竹しのぶ)をいなすやり方、専業主婦イネスとキャリアを持つソニアの子供を巡る微妙なやり取り、アンリとソニア、ソニアとユベール、糸が続かない、声のトーンが安定しないためにいろんなことが見えてこない。ここ、めっちゃ大切なのに。この芝居、3話の「もしも」じゃないもんね。これ、三重の球体、三重の宇宙なのだ。しかも、どれが一番小さくて内側かがわからない。互いに包摂しあう構造になっている。例えば、誰かを表立って批判する空間があれば、それが行われない空間もあり、一方に「浮気」を隠している空間があって、他方に「浮気」の種があり、又全然ない空間がある。この3話は「17日に滞りなく行われたホームパーティ」から生まれてきたに違いない、ピカソ肖像画のような(たぶん平坦にすれば)、ひっくるめて一つの、同時の出来事だ。

 ストッキングの伝染のように綻び続け、微妙な差異で片方を呑み込み、或いは呑み込まれる宇宙を、もっと繊細に演じてほしいです。トーンを大切に。糸を切らないで。パンフレット(表紙入れて16葉)1000円、お買い得。

日生劇場 『笑う男 The Eternal Loveー永遠の愛ー』

 「ミュージカルにおける演技の概念」てものが、もひとつ掴めん。歌唱の安定のために、演技が犠牲になっていいか?演技の充実のために、歌唱が弱くなっていいか?

 まず、この芝居で凄かったのは、セットだ。ダイナミックで計算され、シーンが移るのが楽しみだった。侘しい芸人たちの頭上に灯る無数のランタンの揺れる炎や、豪華に下がるシャンデリア、ジョシアナ(朝夏まなと)の部屋を表わす円形の素敵なカーテン、どれも厳しく考えつめられている。衣装も、グウィンプレン(浦井健治)のぼろいマントが体にぴったりで、それでいて翻すとシルエットが美しい。

 でもねー。そこじゃないの。結局芝居や歌がよくないと、セットも衣裳も輝かない。今日、一番よかったのは二幕の一場、フェドロ(石川禅)と出自を知ったグウィンプレンのシーンだった。召使のグレーと白と黒、小さな白釦がブラウスを留めるお仕着せまで神々しく見えた。裏の裏まで仕切るフェドロを表わすため、石川の歌はきっちり空間全部を背負ってい、揺るがない。浦井健治も一歩も引かず拮抗する。浦井健治二幕の歌どれもよかったけど、だめ押しに盛り上がるところが弱い。シアトリカルでない。只歌がうまい人になっちゃうよ。2014年製の作品として、「見ることを奪われている女の子」っていうのはいかにも前時代的なので、一つ仕掛けがしてある。ウルシュス(山口祐一郎)が裏主人公なのだ。もっとしっかり!弱さ、主人公でなさを出すために緩くした演技、音から外れる歌はどうなのか。宮原浩暢、登場静止画像のよう。歌がよかったのに、惜しい。この芝居の「がんがん行く」スイッチは、案外アン女王(内田智子)にあるのかも。女王いいよ。野放図に行こう。

東京芸術劇場プレイハウス 『世界は一人』

 難解。集合的無意識(個人の意識の古層にある、人類の、或いは民族の記憶のようなのかな)を扱った話だろうねこれ。

 まず、前野健太の「汚泥の歌」は、シンガーソングライター、歌手の歌として大変よく歌われている。でもさ、ちょっとエモーショナルすぎて恥ずかしい。追いつけない。ここでは「素人っぽく歌う」という技巧を使うべきだと思う。はっきり言って次に登場する松たか子の歌、瑛太の歌が素晴らしいのに引き立ててない。松たか子とか、妖精の網を泉からひきあげました。露がきらきら真珠のように光っています。のレベルだよ。瑛太は明け方新聞配達の音を聴く引きこもりの恐ろしいような孤独に届いてない。そこにさえ届けば歌はよろよろでいい。大体、良平(瑛太)の引きこもりの理由が、クープ、フランスパンの剃刀のキズのようにあっさり了解され、彼にとっては「のたうちまわる深いキズ」であることが描かれないので、瑛太があっさりしちゃうのだ。

 概略セリフがシンプルすぎ、なかなかイメージをジャンプさせられない。キズの深さに欠ける。枝葉が多く、険しい山道のような芝居だった。

 おじさんやおばさん、おにいさんやおねえさんがやっている小学生なのに、自然で、淡々としており好もしい。いたずら(?)を考えていた良平が一瞬で吾郎(松尾スズキ)のクイズに心を奪われるところがとてもよかった。

 貯水池のような、皆に共通の深い記憶を辿っているのは藍(平田敦子)なのかなと思ったが、あの三方に突き出した、脳のような、運命の巨大あみだくじのようなセットの中で、それぞれがみんな、「世界」を思い見ているのだなと考え直した。

中国国家話劇院 『リチャード三世  理査三世 』

 暗い舞台に真紅の扁額が置かれ、「古代中国の文字のような英語」でRichardと書いてある。筆字だ。「えー?古代中国文字でいいじゃん」と思うけれど、エキゾチシズムでは終わらないという演出の意志なのだろう。上手にドラムスのようにセットされた赤い胴のふくらんだ太鼓が大小5つ、銅鑼、小さな木魚が5つ、鐃鈸が見える。この組み立ても古代文字風の英語に似てる。

 さて、有名な最初の台詞をエドワード四世(田征)が語って、『リチャード三世』は幕を開ける。魔女(佘南南、王顥樺、張鑫)が現れ、お告げをリチャード(張皓越)に与える。リチャードは凛々しくすっきりした貴公子だが、悪心が兆すと、その背は曲がり、右足の踵は浮き、指は捩れる。体の中に棲む別人を示す。(さいごひきがえるみたいになってほしかったなあ。)リチャードに夫を殺されたアン(張鑫)の登場。京劇の声が繊細に、震える糸みたいに、哀しみと憎しみを紡ぎだす。途中から「話劇」のようになり、そしてまた京劇に戻る。ごく自然で違和感ない。

 この芝居のバッキンガム公(杜松岩)がとてもよく、リチャードの受け皿に見える。双子の悪事のようなのだ。逆に弱いのはマーガレット(佘南南)と魔女である。マーガレットが呪う時、低いノイズが聴こえるのが、現代を示しているのかもしれないが、ちょっと垢抜けない。最後の、地霊のうめき声に聴こえる、というすてきなシーンが効かなくなる。

 幕に赤い筋がつき、次第に地上が血まみれに見えてくる。放り出された赤い布包みから、ふきあげる血飛沫を幻視する。この赤がリチャードの手袋を生み出す。玉座にかかる赤い手、リチャードは肩を波打たせ、血の梯子をかけて天に手を伸ばすのである。

 

 

 

 

 僭主リチャードに拍手する観客が、なんか、ほんとーに恥ずかしかった。アフタートークが長すぎる。30分の予定が1時間を超える、これもうシンポジウムでしょ。俳優さんは疲れているし、体も冷えてしまう、次の日も公演がある、これからは時間超過しないようお気を付け下さいって思いました。

新国立劇場中劇場 『毛皮のマリー』

 男なのに化粧をされて、映画初出演の俳優はちょっと泣いたと生前語っていたが、寺山修司は『毛皮のマリー』で、同種の涙を一筋、少年欣也に流させて幕にする。昭和、それは明らかに男が威張っている世界で、女は劣ったものであり、女のようにふるまう者など人外の扱いだった。この戯曲は少年が女のような者へと『堕ちてゆく』構図を象ってもいて、その通俗と「ありきたり」が美輪明宏には「退屈」だったのかもしれない。美輪は『毛皮のマリー』をスパンコールのついたチュールの布地のように扱う。さっと広げたうえで、一回直角に折ってみせるのだ。折り曲げたところは色が濃くなり、縫い付けられた星のようなスパンコールは二倍になる。顕れるのは母と子だ。

 「母子関係」、噎せかえるような香のかおりのなか、母の胎内を思わせる緋い絨毯の通路や蝶が二羽映し出された緞帳がまず示される。もう逃げられない感じがここからも漂う。美輪の着るドレスは片胸が出ているのだが、それが男の平板な上半身であることが何度登場してもショッキングである。美少女紋白(深沢敦)は男女が判別しがたく作られており、マリー(美輪明宏)は女のみか、男まで、つまりセックス全般を欣也(藤堂日向)から遠ざけている。そして、紗幕の開いた世界は、まるで、美輪明宏の自叙伝の重みのようなものがそっくりそのまま観客の胸に来る。これは美輪の人生だ。嘲笑い、死んで行ったかつ子を哀れに思う心、その子を憎むどころか守ろうとする心、それはマリーでなく美輪だ。「この子をおまもりください」。「これ、毛皮のマリーじゃない」という次元をとっくに超え、私が今日観たのは美輪の全存在をかけた愛の物語である。

 ちょっと弱いところもあるが、全編にわたって美輪明宏のトーンが正確、欣也、ナイフの所作が弱い。

東京国際フォーラムホールC 『ルーファス・ウェインライト』

 ステージの天井真ん中から、客席前方中央を、しゅっと一筋サスぺンションライトが照らす。舞台のつらのスタンドマイクが影をつけ、かつ明るく光る。マイクの後ろにグランドピアノがあり、湾曲した側面に観客の動く人影が映ってちらちらする。ピアノがこっちを見てるみたいだ。「スマートホン以外の撮影を禁じます」と(たぶん)書いてあるプラカードを持った係の人が行ったり来たりするけど、スマートホンで撮っていいんだねぇ。とちょっと感動する。

 すーと暗くなる。バンドが位置につく。下手(左)の台の上にキーボードが2人、その下にギター、上手(右)の後ろにドラムス、その前にベース。そしてまんなかにルーファス・ウェインライトが来て、ギターを弾いて歌い始める。April Foolだ。今日は3月29日、そりゃこの歌だよね。バレンタインデーから流れ出した愛が、4月1日で滞る歌かしら。長髪の静かな横顔の『Poses』のCDジャケット写真がとても印象的なので、いま目の前にいるルーファスの髪がトップでいい感じにくしゃくしゃっとしてて、もみあげが白いのに驚く。2曲目のBarcelonaを歌った後で言っていたけれど、ルーファス・ウェインライトは今キャリアのちょうど20周年だそうだ。ピンストライプの黒いスーツを着て、その右胸には光る三日月の大きなブローチをつけている。なにげなく、頑張ってる風もなく、じゃんじゃんギターを弾き下げながら歌う。まぎれもなくルーファス・ウェインライト、近所の小さいカフェで流れていた「賢い人の声」を聴いて、お店の人に「これ誰ですか」と尋ねてから(Posesだった)ずいぶん経つなー。17年くらいかー。やっぱり賢い声だけど、声量凄い。高音だって下から仰ぎ見るように苦しく出すのじゃなく、上から音を「支配している」出し方なのだった。

 4月1日にはブリュッセルで公演とスケジュールに出ていたから忙しいんだなと思っていたが、日本のコンサートの前に長崎と神戸と京都に行ったんだって。南座玉三郎を観たみたいだ。伴侶のことを「ハズバンド」という。彼はゲイだとカムアウトしているけれど、このライヴを見た限りでいうと、ゲイという風に言えない。男でもなく、女でもなく、ゲイでもない。カテゴライズできない、なんかこう、ジェンダーの間でこまかく揺れている繊細な「新しい人」だった。to Barcelonaというフレーズなど、とても大切に、やさしく歌っていて、家族(伴侶?ハズバンド?)がこの歌をとても好きだというのはよく分かる。

 残念だったのは、この曲含めFoolish Loveに至る最初の3、4曲が、バンドの音とうまく溶け合っていなかったところだ。ばらばらに聴こえたよ。コーラスともうまくいっていなかった。そのせいかピアノの前で歌う時、むずかしい箇所に差し掛かると左手が胸の前で祈るような形になっていた。Foolish lo-ve と音を伸ばすところがとてもきれい、ビブラートがさざ波のように正確だ。そのうたい終わりのピアノがどしんと鳴ったのは、これがデビューアルバムの一曲目で、難しい曲だったからなのだろうか。

 Millbrookを凄く早いテンポで歌い、ジョニ・ミッチェルのBoth Sides,Nowと新曲The Sword of Damoclesを歌って、ファーストアルバムの第一部は終わり。

 第2部、ルーファスはびっくりするようなローブを着ている。たぶん、チュールで出来ているとても大きなローブで、白いからますます大きく見え、足元に入ったアクセントの紫色が、裾に向けて濃くなっている。えっこれ着て歌う。しかもCigarettes And Chocolate Milkを。えええ。しかしとても素敵に歌う。2コーラス目からピアノを弾いて、しっとりした歌とビジュアルとのギャップが凄い。右手の小指に金の指輪が光っている。

 この後、ブラックプリンスのようなマントも着るのだが、それが何ていうか、ルーファス・ウェインライトの中の揺れのようにも感じられた。ルーファスは歌巧いけど、その歌の中にも「揺れ」がある。彼が声を張るとき、聴いている方は「眼路が開けた」(晴ればれする)という気持ちを強く持つんだけど、ときどき少しずれた音になって、正しい音へ何気なく近寄ることがある。それがねー、真実にたどり着く人の揺れにも思えるんだよねー。ルーファス・ウェインライトを聴くとき、私は「賢い人の揺れ」を聴いているのかもしれないなー。

 後半、バンドと声がうまく混ざり始め、アンコールのAcross the Universeの力強いリフレインを聴くと、揺れの不確定さの中でつかみ取った、ルーファス自身の「自分」がそこにあるような気がしたのだった。