京都芸術センター 地点『三人姉妹』京都公演

 「きゃー」、長い長い、新しく張り替えられた瀟洒なローズウッド色の廊下を歩くと、とおーくの床が、思わぬ具合に軋む。ここは「アンティーク」という言葉がぴったりな元小学校だ。ここで今日、地点の芝居を観るのだ。

絶望したように見える白樺が、舞台天井のあちこちにぶらさがっている。静かな林が倒立し、足元に星が明滅する。舞台前面に8枚のアクリル板、薄く粉っぽいペンキのようなもので粗く白く吹き付けられてる。虚実の皮膜のこのアクリル板には、ノブのないドア(ロープの取っ手)と、上手側に4つも桟の付いた裏口(?)がある。

 3拍子の映画のテーマソングが大音量でかかるので、頭の中を大急ぎで繰る。なんだこれ?クラシックなのに通俗的に哀切、クレズマーのように民謡ぽく、サーカスのように寂しく、でも最後のところでぎりぎりに品がある。ショスタコーヴィッチ、The Second Walts。

 上手の奥のドアを開き、ゆっくりと明かりの方へ、四つん這いの人がやがて立って、誰彼なしに抱き合い、格闘する。それは白樺林の出来事であり、『三人姉妹』の出来事であり、私たちの出来事である。雨に濡れた舗装道路が、うっすらと空と街を映すように、世界は二重三重になり、私たちはその中を無意味に落ちて行く。きゃー。

「ああっ」と声を漏らして俳優は顔をおさえる、それは羞恥から絶望へと移り変わり、冒頭の気合の入った格闘と、ショスタコーヴィッチは、魂の深い所で結び合っている。ここ、最高でした。「何の意味があります?」以降、姉妹の格闘は白樺の林の上にかかる雲の縺れのように意味を失い、「からっぽ」であるように見えてくる。

 チェーホフの原作の終り数ページ、台詞の中からすんごい交響詩が立ち上がってくる所、地点ちょっと負けてる。惜しいです。

赤坂ACTシアター いのうえ歌舞伎《亞》alternative『けむりの軍団』

 うっかりしてる間にこんな年になってしまって、ふと頭の中を「明日の月日はないものを」という詞がよぎる。(黒澤も使ってたねー)

 この新感線の『けむりの軍団』を見ていると、それをひしひしと感じるのだった。いまの「い」という言葉と「ま」という言葉を言う間にも飛び去る舞台の一瞬、この一瞬の中にしか「新感線」はない。「失われる=ポップ」ということの贅沢と楽しさと寂しさを思わずにはいられない。じーん。

 倉持裕の新感線、『乱鶯』よりもいい。つまり、一か所に「とどまっていない」。特に女の人にいい牌が行く。ばか殿目良則治(河野まさと)を子に持ち、苦悩する嵐蔵院(高田聖子)、則治への忠義の余り魔性になる千麻の方(中谷さとみ)、大殿のお手付きであったことを秘(かく)して働く長雨(ながめ=宮下今日子)。どの女も黒澤ぽく、深く描かれている。宮下今日子、大急ぎで口の中広く。こんな役なかなかないよ。急な配役だったようだが、楽しんでほしい。肩が縮こまっている。損。真中十兵衛(古田新太)の「あばよ」がすばらしい。でも言えてない台詞もある。それはもう、諦めるべき「とき」なの?

 思い返してみて『隠し砦の三悪人』(2008)くらい腹立った映画はなかったわけだが、あの砦の辺りから、今回の煙(成長)が、狼煙のようにあがっていたのだろう。あれ、子供の映画だったよね。新感線がこの路線(大人)をやることに私はめっちゃ肯定的だ。だって「明日の月日はないものを」。早乙女太一、腰を割って屈んだ姿勢が誰より低くかっこいいが、声割れてた。川原正嗣にキャラ似てたよ。美山輝親(池田成志)、最高の牌、最高の手であがれるのに、なんか洩れてる。そして、h音、変。序盤、間の手を入れる初山国助(吉田メタル)的確、よかった。

DDD青山クロスシアター 『絢爛とか爛漫とか』

 昭和初期、一人住まいの裕福な青年古賀大介(安西慎太郎)の居室で繰り広げられる青春の四季の人間模様。かと思ったらなかなか、そんな甘いもんではなかった。

 四人の青年が友人として登場し、それぞれ文学と相渉る。この文学(芸術)の存在が、とても大きく、底知れない。例えて言うなら、文学は怪物で、対する青年はいのちを賭けて鉈一本で、怪物に手疵を負わせようとする。書けない悩みを持つ古賀。上流階級のモダンボーイ泉(鈴木勝大)。母親の影を背負う耽美派加藤(川原一馬)。さらりと見どころある作品を書く諸岡(加治将樹)。それぞれが芸術と必死で取り組む。このくだりが重く、ほんもので、目が離せない。青年達も一人一人が「必殺の一撃」の芝居をする。古賀が小説家を止めると言い出してからの加藤の切ない表情、涙を浮かべて詰問する古賀、その詰問を受けて立つ諸岡、そして目の前のやり取りを動揺しながら受け取る泉。後半よかった。しかし、この芝居は、序盤その「必殺の鉈」で料理をデリケートに作らなければならない。鉈で千切りや細切りをこなし、軽く、テンポ良く、身体がリズミカルに動き、声は自在に調節できないとだめ。言ったら冷やし中華作るのに、鉈を頭の上から振り下ろしてちゃダメでしょう。怒鳴ってばっかりだったね。

 安西慎太郎、「書けない」っていうのは海でブイと離ればなれになってく感じだよ。『キャストアウェイ』でトム・ハンクスがウィルソンと離れるみたいな。しかもおぼれているのです。実感なかった。

 加治将樹、友達とじゃれる距離がちょっと近い。後半意外性がない。あの部屋に、心入れに花を活けているのは女中のおきぬだろうか。(いい気なものだね)っていう、終わりのような気がしたけれど。

Bunkamuraオーチャードホール 史依弘(シー・イーホン)プレミアム公演第二夜 『百花贈剣』『貞娥刺虎』

 パンフレットの表紙の写真がきれい(ロゴは…いまいち。)。髪の短い女の人が、暗がりで長椅子に腰を下ろして京劇の靴をはこうとしている。長椅子の座まで左足を上げ、紐を結ぶところだ。舞台の照明が女の人の前方上からそっと当たり、彼女の動作の優しさ――すべてのものが柔らかい曲線を描く――を強調する。

 裏返すと一転して白黒の京劇俳優のアップ、目じりをアイラインがきつく凛々しく見せ、口角はきりっと上がっている。彼女は今かんざしを挿しているところだろうか。たぶん前方の鏡と、自分の内側の感覚に集中している。裏と表、やさしさと鋭さ、合わせてこれが史依弘(シー・イーホン)、中国京劇のスターだ。

 梅蘭芳のイメージが強いので(背広を着た紳士)、一瞬、あれ?男のひとじゃないんだ?と思うけど、始まってしまうと、そんなことはどうでもよくなる。今日はオーチャードホールの実質最後列、オペラグラスをかざしたり、字幕をみたり、もう本当に忙しかったよ。

 舞台に赤に金の刺繍の帳(とばり)が立てられていて、これ、大帳子(ダージャンズ)というのかな。プリンセス(百花公主=史依弘)の寝室、寝所、部屋?を表わしているんだと思う。小間使い二人に抱えられて、酔った海俊(李春)が寝室に入れられる。公主の部屋に入ったものは、斬首なのだ。謀られて小間使いに両脇を支えられて現れる海俊が、人事不省で、くったりした美しい彩りの紙人形のように見え、少し可笑しい。公主の侍女江花佑(畢璽璽)は、侵入者海俊が生き別れの兄と知って、家具の後ろに隠す。

 江花佑と、百花公主の衣装の、頭についている触角のような長い雉の羽(リンズ?)が、とてもすてき。その先が細かく震えて繊細そうで、心の中をよく表しているとも思うし、この芝居のように侵入者が隠れているときには、すぐに見つけ出す容易ならなさが潜んでいる感じがする。

 百花公主は案外簡単に海俊を見つけ、最初は怒るが、徐々に海俊に心惹かれる。顔をそむけて問いただすときも、心の中いっぱいに海俊が見えており、送り出す台詞「梅の枝を折ってはならぬ、春を知らせる花だから」ってはじらいながらいう所が、まるで漱石の「月がきれいですね」(あなたが好きです)のようだった。

 二人が手を取ろうとする姿、共に舞う姿が、すーと胸いっぱいに梅の香りをかぐときの、「梅の香の素」みたいで、心にそっと持っている、初恋の一番いい思い出のようだ。でもさ、海俊は敵方なわけ(わけでしょ?)だからこのままで済まないのだろう。ピュアな思い出の上にかかる裏切り、戦い、別れ、死などを思い、マイナスなものがピュアを輝かせるのだなと考えた。

 

 

『貞娥刺虎』

 冠の下の耳飾りが、右耳は水色、左耳は赤い。費貞娥(史依弘)は素晴らしい役だ。心の底に、氷のような決意と、燃え上がるような復讐と怒りの心を、同時に持っている。或いは、冷たい殺意と百木すべて彼女に靡くような柔らかな媚態。

 二場の終り、ここ凄かった。この話、営々と蓄積された、自分をいいようにする男たちを憎む物語なのかもしれない。白魚のような指、小さな白い歯、何百年も(ひょっとしたら何千年も)嘆賞されてきた「美」がひとつひとつ男(仇)に牙をむく。新王朝の王の義兄弟である虎と結婚する夜、鳴り物が聴こえ、男が帰ってきた。貞娥は言う。「作り笑いで迎え、機会をうかがおう」。それから氷河の水が逆巻いて流れ込むように、じっとしている貞娥の温度が下がっていく。緊張が高まる。装う平常心、そして究極の緊張、躰を上下させながら、女の心(?)を励まして、貞娥は死地へ向かう。

 女がこうして「氷の刃」を研ぎ澄ましているのに、虎(楊東虎)はちょっと馬鹿で、ちょっと可笑しい。貞娥の方は蔭で一番映える「憎んでいる顔」をしているのに、女が背を向けると、その後ろ姿をじろじろ品定めしたりして、ほんと「やーだ」って感じなのである。

 最後に虎を殺し(見失う剣まで緊張感ある芝居をする!)「私は費氏、名は貞娥、」狙う相手はこの男ではなかったが、と名乗るところ、憐れで哀しい。なぜだろう、たった今起きたすべてのことが、費貞娥の中ではかなく虚しくなっているような気がするのだ。

ビルボードライブ東京 ニック・ロウ

 ニック・ロウビルボード東京に聴きに行くことになって、凄く後悔した。ポップな感じ、短い曲、生き生きしたチューン、明るさ、好きにきまってる。どうしてもっと早く、たくさん、聴かなかったんだ。

 ビルボード東京から見晴らす公園に、岩のオブジェをちりばめたミストのプール(のように見える)ができていて、たくさんの人がひんやりしたミストをプールサイドに素足を出して楽しんでいる。岩の周りの白い霧のようなミストが、ゆっくり流され、風で手前に集まったり、散り散りになったりし、夕陽のあたる公園の樹が、きらきらとはっぱを動かす。プールの一番遠い向こう側に、真っ白な服を着た西洋人の少女が、ほそいひざ下をミストにふらふらさせていて、小さい小さい活人画のようだ。

 と思う間に暗幕が静々と閉まり始め、もうニック・ロウが登場する。足元に三角のアンプが三つ、玄関敷きほどの大きさのペルシャじゅうたんがある。下手(舞台向かって左手)側にギターが立ててあり、それを取って首から提げる。ギターストラップの肩口の感じをさっと補正し、ライブが始まった。People Change。とても軽く歌う。絨毯の上に立ち、曲目を書いた白い紙もその上にある。白の長そでシャツの袖をまくり、黒い細身のパンツに茶の靴、白髪と黒の太い縁の眼鏡がよくあっている。とても気を付けて声を出していて、無理をしない。どうもピックは嵌めていないみたい。だからかギターの音もやさしい。若い時から遠慮なく声を出し、大きな音で音楽をやってきた人のエレガントな完成形。

 次の曲はなんかとてもおちこんでいる男の歌Stoplight Roses。

 In the mirror behind the bathroom door

  That little-boy-lost look

  That used to work well

  Doesn’t anymore.

 というくだりを歌う時、バスルームのドアや男の顔の輪郭が、それ以上でもそれ以下でもなく、繊細に、でもしっかりと描き出されていく。甘くない。それでいて自分(観客の)だけに歌ってくれている感じもし、なんか、曲が裏返って、内側の景色を見せているようなのだった。そして、Love Starvation。後奏がいまいちきまらないが、気にならない。ありがとうと思ってしまう。日本語うまくなくてごめんね、でもゆっくりはっきり喋るから。と、ニック・ロウは言い、時々マグのお茶(?)を飲みながらライブは淡々と進む。いい年の取り方だなーとおもっていたら、突然、以前来日した時の話を始める。バンドのメンバーはへとへとに疲れていて、湾岸を走っていて、化学工場が見えて、「Tokyo Bay… 」とつぶやいたらそれが曲になった。そしてまたとつぜん、ニック・ロウの声は大きくなり、ギターもばりばり弾き始め、吃驚する。声も伸び、高音も出る。いままで喉の調子みてたのか!と思ってしまった。ギターは右足の上にしっかり固定され、左足がテンポよくリズムを刻む。次はBlue on Blue、とても調子よく、一番後方のカウンター席で、届かぬ足をぶらぶらさせて聞いていると、さっき見た西洋少女の絵のような後景が反転して、日本の中年奥さんが、押し寄せる絹のような肌触りのミストに、手足を浸しているみたいなのだった。そのあとはずっと上り調子!もう、メモのペンとか持ってられん!放り投げる!この躍動!この心のときめき!メイヴィス・ステイプルの曲や、有名曲を、立て続けに弾き唄う。一オクターブ高い音もうまく出て、ニック・ロウは満足そうだった。

紀伊国屋サザンシアターTAKASHIMAYA  PARCO PRODUCE 2019 『人形の家PART2』

 「あー、ハンマースホイ

 微妙に粗く、そして丁寧に塗られたうす水色の壁と、そこに白く低くめぐらされた腰板を見て、デンマークの画家のことをすぐ思い出すのだった。ハンマースホイは女(妻)の後姿や、ひと気のない室内をよく画題にした画家で、静謐な品の高い画風で人気がある。と思ってみるとヒロインのノラ(永作博美)の結い上げた髪は、つやつやした美しいシニヨンではなく、ハンマースホイの絵の、妻イーダの髪のように少しぼさぼさに乱れている。

 これ、どういうこと?よく考えれば、ハンマースホイが「静謐」で「品がいい」のは、「だれも何も語ろうとしない」からかもしれない。ハンマースホイが見ようとしなかったものとは何か?人事だね。栗山民也は背を向けたイーダを振り向かせ、そのびっくりするほど所帯やつれした、疲れた「女の顔」を暗示する。全体に破綻のない、優等生の芝居ではあるが、何よりも、よく言われるように、ノラがひどい身の上になっているという話でなくて本当によかった。この『人形の家PART2』では誰もがよく語る。ノラは、古くからの奉公人アンネ・マリー(梅沢昌代)、夫トルヴァル(山崎一)、娘エミー(那須凛)からの批判にさらされる。「こどもを置いて出た」「たやすい道を取った」、ノラはその批判の一撃によろめくような傷を受けながらも(もっとよろよろして)、毅然と、誠実に会話を進める。

 那須凛、ホットケーキがふつふついうような母への怒りが口を開けていていいが、トルヴァルに出てゆくよう言われた時はどんな気持ちなの?永作博美大竹しのぶを尊敬しているのか、台詞回しが似る。ノラのように「自分」を探してほしい。徐々にでいいから。イーダ・ハンマースホイの顔、見た?

シアタークリエ KERA CROSS #1 『フローズン・ビーチ』

ぽんぽんひゅるひゅる上がる花火のような会話、どこをとってもぱっと小さく火がつき、火薬が言葉を打ち上げて、金や銀の火花がきらきら海に散っていく。これ面白い話だね。初演1998年、21年たって再演したくなるのわかる。

 1987年の夏、海外のある島の広壮な別荘、その3階、らしきリビングと海を見晴らすバルコニーで、ひそひそと、おおっぴらに事件は起こる。この島で不動産開発を計画する父の娘愛(花乃まりあ)は幼馴染の千津(鈴木杏)を別荘に招く。千津は高校時代の同級生市子(ブルゾンちえみ)とともにやってきた。愛の双子の姉萌(花乃二役)、愛と萌の義母咲恵(シルビア・グラブ)、それぞれが微妙な感情を互いに持ち、乾いた殺意が交錯する。

 ケラリーノ・サンドロヴィッチの戯曲って、一際「譜」がはっきりあると思うのだが、それがうまく働いていない。セットが広すぎ、会話がうすくゆっくりで、畳み掛ける花火のスペクタクルがない。一人一人が遠く離れている。特に最初の千津の台詞、高低緩急遠近の「譜」がない。これとても難易度の高い台詞をぽーんと放り込んであり、鈴木杏はがんばって、リラックスして背中が触れるクッションや、美しい張地のソファの感触を伝えてくるが、「譜」が読めんことにはなあ。ブルゾンちえみは、ハートが強そうなのでいうが、この市子という女の「二枚底」な感じがわかっていない。声が一色でもいい。けど怖くない。花乃まりあはヘリコプターを見送る仕草がいい(ヘリコプター見える)が、やっぱり譜がだめ。その中でシルビア・グラブの台詞ががんがん打ちあがっていた。自分を客観視し、醒めてて、かつ面白い。ケラの芝居はすこし体温低く設定した方がいい。特にこの作品は。海がせり上がってくる。「いつかは皆死ぬ」諦念の中に、皆飛び込んでいくように見える。