武蔵野市民文化会館小ホール 『Dreamers' Circus』

 流木を4本、交差させて組んだ束(つか)に、電球が仕込まれてかがり火のようになっている大きい照明が四つ、舞台上にランダムに置かれ、舞台前面にはまつぼっくりが点々と落ちていて、一つは小さなかわいいケージに入っているし、上手(向かって右側)には小人の麦わら帽子が置き忘れられている。その帽子のそばに、見たことのない、舞妓さんのぽっくり(時代のついた木地のまま)に似た、「木靴」の上に弦を張ったような楽器が置いてある。まつぼっくりの化身か。

「かがり火」のせいでスタンドに架けられた小さなギター(ウクレレ?)やヴァイオリンが、森の奥の村の入り口にある魔よけのように見える。スタッフが飴色のアコーディオンを運んできて、ピアノのそばにセットする。

客席が暗くなり、舞台の光量があがり、アレ・カー(シターン、ギター)、ルネ・トンスゴー・ソレンセン(ヴァイオリン)、ニコライ・ブスク(ピアノ・アコーディオン)が登場する。後ろのスクリーンに、「人魚姫」「Den Lille Havfrue」という字が出て、木版の、アンデルセンの人魚姫の絵が現れ、ナレーションが、「…かすんできた目をもう一度王子の方に」という、人魚姫が海の泡になってしまうクライマックスを読む。静かな音楽が始まった。

 …って、えええー?なんでこんな悲しいシーンから。「うみのあわ」っていうだけで、涙がこみ上げてくるところじゃないか。ナレーションの人、ドリーマーズ・サーカスの曲、よく聴いた?トーンが、3ミリくらい(なんだその例えは)高い。だめ。

 静かにゆっくりヴァイオリンの弓が動き、伴奏も美しく、密やかな感じで旋律が移ってゆく。繊細で音が小さく、どこにもけっしてとどまらない風のようなのだ。アンデルセンの童話は、このあと合間に明るい音楽を挟んで、「マッチ売りの少女」「親指姫」「赤い靴」「みにくいあひるの子」「裸の王様」とつづく。

 可哀そうな人魚姫に泣きそうになりながら舞台を見ると、この人たちまるで3人とも王子様みたいだ。おうじさま!ギター・シターンのアレ・カーは、黒のぴったりしたスーツに細い黒いネクタイをしていて、ローリングストーンズの若いころのように見える。60年代だったらエレキが絶対だったけど、現代で最高にかっこいいのはシターン(リュートの仲間)です、って感じ。

 どうしてかギターの音がよく聴こえない。後半ではアコーディオンとヴァイオリンが同時に主旋律を弾くと、アコーディオンにヴァイオリンが吸い込まれてしまう。一番まずかったのは中ほどでギターを弾くとき、弦をスライドする左手の音を全部マイクが拾ってしまっていた。ちょっとー。がっかりだよ。あとデンマークのひとコードきちんと片づけるのが好きなのに、ステージ中をコードが波打ってたねー。

 ヴァイオリンのルネ・トンスゴー・ソレンセンはごく最近結婚して(左手に光る結婚指輪)、その結婚の時のお祝いの曲をやっていた。ソレンセンは全身黒づくめ、梳かしてない明るい金髪が際立つ。

 なんといっても白眉だったのは、バッハの旋律を滴るような音で奏で、フォーク音楽風に激しく演奏するところ。色の綺麗な洞窟の壁画を、透きとおる玻璃質の表面が分厚く覆っているところを連想した。元の絵(バッハ)がきらきら輝いているようなのだった。ヴァイオリンがまたいい声なんだなー。

 ニコライ・ブスクは目に沁みるほど白いシャツの上に黒っぽいセーターを重ね着している。途中で脱いじゃったけど。最後にトトロのテーマをちょっとアコーディオンで弾いていたが(宮崎駿からお花が来ていた…)映画とは1音ちがう音。編曲?日本人はトトロにうるせぇぞ。

 靴の形をしたフィドルは、イタリアから北欧にヴァイオリンが入ってきたときに、それをみた北欧の人々が箱や靴(サボ?)を台にして作ったものらしい。一曲それでアレ・カーが演奏してくれたけど、少し低い声で、梨の皮をナイフで途切れずにぐるぐる剥きつづけているようなメロディが似合っていた。

 終盤の「A Room in Paris」がとてもよかった。まずヴァイオリンが長く美しく主題を鳴らし、次いで全員でトレモロ奏法を使って(?)早く激しく弾く。野を捲き上げて強く吹いてくる風を感じ、アンデルセンのお話も、日本のこどもにとっては、風の運んできた物語のような気もするよねとちょっと思ってみる。

彩の国さいたま芸術劇場 『蜷の綿 ―Nina's Cotton―』

 ニーナ(たち)の語る台詞。

 「その世界の中には、あなたとわたししかいない」

 きびしく、かっこいい。一人の人間の心の中の分割された一つ一つをニーナ(たち)と男(=壮年、内田健司)で象徴し、ニナガワの心、心象、出来事をそれぞれ描き、結び合わせる。能――夢幻能――の形を取って、橋懸りに顕った一人の男を照射する。

 上から目線でいうと、おおむね、面白い。

 でもさー。細かい所では鼓、笛の音がやけに軽いという所から、羞恥心の置き所という所から、立身出世という所から、違和感がしゅわしゅわと立ちのぼってくる。

 この作品は、演劇を「する」ある男への、頌歌であり墓碑銘であるようにかんじるが、あの、演劇が成功してゆくくだりが、どうしても、(藤田の筆をもってしても)、「演劇ドラゴンボール」のように感じられ、すーと醒める。(拡大に次ぐ拡大。だがそれがいったいなんでしょう)

 われぼめとも見えるセリフの数々を、蜷川ならどんな風に演出しただろうか。

 一方で、男の生き方、在り方までも規定した心の疵が、大きく、深く、軛のようにその首にかかっているのがありありと見え、迫真とリアリティに息苦しくなる。そして、「演劇」を「する」ことが、現在の自分を、追いつめるように縁取り、抉り出し、「その先」へと導く灯しなのだということが苦しみの中で明らかになる。

 内田健司、走る練習をして、もっと早く走ってほしかった。「壮年」の彼の言葉は、息の吐き方(蜷の綿!)がまるで蜷川と同じである。って知らないけど。竪山隼太、台詞がソフトな雪みたい、エリュアール読んでないのがばれてます。

 

 

ニーナ:石井菖子 石川佳代 大串三和子 小渕光世 葛西弘 神尾冨美子 上村正子 北澤正章 小林允子 佐藤禮子 重本惠津子 田内一子 高橋清 滝沢多江 竹居正武 谷川美枝 田村律子 ちの弘子 都村敏子 遠山陽一 徳納敬子 中村絹江 西尾嘉十 林田惠子 百元夏繪 宮田道代 森下竜一 渡邉杏奴 

東急シアターオーブ 『ジーザス・クライスト=スーパースター in コンサート』

 遠藤周作のキリストの評伝は、確かキリストの死で終わっていて、そこから先は「信仰」の問題である、と言ってたような。『ジーザス・クライスト=スーパースター』は「信仰」ではなく、一人の男の苦悩の生涯を扱っているから、同じ形を取っているのだろう。

 今日行ったのはコンサート形式の、ミュージカルの歌をたくさん歌うものと思っていたけど、なんというか、ほぼミュージカル。水平・垂直に組み上げられた鉄パイプの足場、それは二階建て、三階建てにも見え、そこここに手元灯が点き、「バンド」の人々が収まっている。階段が所々斜めなほかは、すべてが縦横に組まれて、目に心地よく、中に十字架を隠してるなんて言いたくないほどうつくしい。

 いつもこのくらいの水準のミュージカルや歌が聴きたいよ。日本のミュージカルって、音がゴルフボールみたいに静止してるもん。これ、一音の中で音が動いてる。勢いがあるのだ。果敢にそのように歌い、かなり成功していたのは海宝直人のシモンだった。そしてその本場の歌に疵が多かったのはラミン・カリムルーだ。息が切れたように音が微妙に撚れ、中でもまずいのはジーザスの居所を言う大切な「Garden」と声を張るところがびしっと鋭く出てないことだ。jaded,fadedと韻を踏むところ、ややかっこ悪くも聴こえるフレーズを一語叫ぶことでダサさを回避していたのはよかった。成河やりすぎ、でも、きらきらとやりすぎてました。ミュージカルのコンサートというのが、どのくらい本息なのかがよくつかめないが、ユダ(ラミン・カリムルー)が足に触るとき、ジーザス(デクラン・ベネット)が塑像のようになってしまうのはあり?ちょっと違和感。最初のエレキがちょっと弱い、中程のエレキのソロはうまかったなー。

渋谷CLUB QUATTRO  『ホットハウスフラワーズ』

  hothouse flowers    1.plural of hothouse flower

 えっ温室育ちのお姫様たちって意味ー。と、改めて驚いたところでクアトロ着。

 くだけた格好の、或いはすこしゴージャス風味の服で、アイルランド人の人々が会場のそこここに散見される。今日のライヴはアイルランド大使館の後援なのだ。アイルランド大使館のおかげでHothouse Flowersは去年に続いて来日できたのかなあ。ありがとうアイルランド大使館の人。台風前の心配な夜、七分押しで明かりが消える。フィアクナ・オブラニアン(黒のTシャツにピンストライプの黒っぽいスーツ)、リアム・オメンリー(薄紫のシャツに白のくしゃっとしたスーツ、水色の首飾り)、ピーター・オトゥール(シンプルな白のTシャツ)が、どどっとステージに出てくる。「〇△※□!」うん?「(I'm)so glad to be here」と何度も言ってるリアム・オメンリーが、両手を握る日常動作を続けながら急にスタンドマイクの前で「So glad to be here」と歌いだすのだ。日常とステージが裏と表のようにくっついている。フィアクナ・オブラニアンが少し慌てたようにギターの準備をする。そう、1部は(15分休憩があった)なんかちょっとバタバタしていたし、精度と繊細さを求める(求めているのは私かなあ)音楽が、架空の三角の溝の上をきれいに転がらない。薄い刃物で刻んだ溝が、ちょっと太い。でもさ、私はそんなことでは納得しないのさ。去年のホットハウスフラワーズ見てるもん。チーフタンズのアルバム「ロングブラックベール」で、マーク・ノップラーの歌っていた「The Lily of the West」を歌う。不実な美しい娘の交際相手を刺してしまう男の話。だから長い歌なんだなー。リアムはマーク・ノップラーに負けず素晴らしい。

 次の曲「This Is It (Your Soul)」では2回くらいリアムがフレーズをハミングした後、観客に繰り返し歌うよう促す。ここが凄いと思うんだけど、皆歌えるのだ。リアムが時々助けてくれるのだが、そのリアムの音程が、まるで岩棚みたいに安定している。あんしん。This is promiseという悲しい感じの歌声で終わった1部に続いて、出てきたリアムが、「ステージをちょっと片付けなくちゃね」と言って上着を掛ける。何故なら大使館の偉い人が、さらりと出て来てなんと一曲歌うのだ。ゲール語の歌を嫋々と、うまく歌う。ちょっと日本のシャンソンぽい。日本の大使館の偉い人も、海外で一中節なんかで渋い喉を聞かせていればいいけどね。(なんと「偉い人」、まさかの大使本人だったよ!)2部は「The Older We Get」、急に音の溝(?)が厳しい細さになり、精度が上がり繊細になり、曲がきゅっと緊まっている。これ、いい曲だね。海にそそぐ水の流れのような舞い降りてくるような伴奏を、大きくリアムがうたいぬけていく。

 「Giving It All Away」ピーター・オトゥールが全身でギターを弾いている。コードを激しく引き下げていて、そのリズムがきちんとプレイヤーの身体に響き、その響きが聴衆に伝わる。それをフィアクナ・オブラニアンも聴いていて、オトゥールのギターに寄せたり、引いたり、リードしたりする。サウンドがピアノやボーカルとぴったり合ってくっつき、裏表の布になって時々ひるがえり、ギターが表に出たり、ピアノが前に現れもする。

 「Hallelujah Jordan」などかっこよく演奏し、「Don’t Go」が来る。違う編曲。合間にアイルランド民謡の独唱が入る。「ロック歌手で民謡歌手」と名乗ってもいいくらい堂に入ってる。リアムの声を聴きながら、明日は風速60メートルの、あり得ないほど大きな台風が来るのだと考える。コップの縁に座っているお人形のように、「楽しい」と「怖い」の境目にいる。フィアクナ・オブラニアンがさっとホイッスルをとりだし、指を素早くひらひらさせながら、眉を寄せ、集中して鳴らす。リアムが大きめのバウロンを、手首を柔らかく返しながら目にもとまらぬ速さで叩く。明日は東京が大変なことになってしまっても、今はここでホットハウスフラワーズを聴くんだ。音楽は一際きれいに、楽しく、胸躍るように聴こえてくる。

東京芸術劇場 プレイハウス NODA・MAP 第23回公演 『Q:A Night At The Kabuki』

 市松人形のように切りそろえたおかっぱ頭をゆらゆらさせ、ひとつ、ふたつ広瀬すずが台詞を言うと、唇がまるで手塚治虫の描く王女様のそれのように光っている気がする。分厚い髪の間から覗くあごは白く、首筋は可憐に細い。まるで「乙女心」に服を着せたみたいで、ベッドの上に起き上がっている姿に、何か強いショックのような郷愁を感じる。これが、「面影」ですよねー。ここまでで広瀬すずは、役割の七分どおりを果たしているわけだが、あとの二分、「集中力を持って演技する」も完璧だ。抑制しつつ表情はくるくる変わり、いうことない。ただねー。舞台は「台詞をきちんという」のが大切。マスト。声が撚れて、きちんと発語できてない。劇場の、とくに後ろの席ではね、声が表情のひとつ。松たか子とかだと、繻子のリボンにアイロンかけて、念力で空飛ばしているみたいに聴こえるでしょ。従ってこの野田秀樹の『Q』は、シェークスピアパートが弱い。演出にも修正する粘りがなかったように見える。

 墓標でありベッドである「もの」の上で、それらの「ある」場所で、一種の歌舞伎、一夜のオペラが繰り広げられる。楽曲はクイーンだ。

 ある男(それからの瑯壬生《ロミオ》=上川隆也)が俊寛のように置き去りになり、彼のてがみを携えてもう一人の男(平の凡太郎=竹中直人)は30年後、女(それからの愁里愛《ジュリエ》=松たか子)を訪ねる。この凡太郎の造型がとてもよかった。窪んだ眼窩を黒く塗り、傾げた首をすこし慄えさせて、おびえたようなかんじが新しい。平清盛も、がんばってほしい。

 平の瑯壬生の志尊淳、かっこいいし生き生きとやっているが、スローモーション(特に上手から下手に抜けるやつ)まずい。巴御前(伊勢佳世)、前半ふくらみが足りない。派手に行きましょ。

新国立劇場中劇場 『渦が森団地の眠れない子たち』

 藤原竜也、声嗄れてるやん。と、心の温度が零下にまで下がる。声がちゃんと出てる、その声に表現力がある、芝居ってそこからじゃないの。例え野田秀樹だったとしても、声嗄らしてたら評価しない。今日は二階の最後列だったのでなおさらだ。声がしゃがれているから、登場して田口兄妹(圭一郎=鈴木亮平、月子=青山美郷)に声をかけた時の台詞が、もう一度出て来ても効かない。違うように言うのか、全く同じように言うのか、それは役者のセンスによるけど、いまはとにかく、ぼんやりしている。

 ぐるぐると激しい渦(それは最初に出てくる水洗トイレで端的に暗示され、不気味で息苦しいセットの真ん中にはきっちり描かれる)に巻かれ、沈んで流されそうになっている人々、大人も子供も流されないようにするのに全精力を使っていて、他人を助ける力が、ほぼない。唯一、下へ下へと引く力に抗するため、団地の自治長安部久典(木場勝己)は花壇の世話を子供たちにさせるが、それがまた更なる渦(暴力)を生む。

 失意の月子に母(奥貫薫)は次から次に苦しいことの来る人生について語るのだが、ここ、とっても胸に来るけど、母自身も下へ引っぱられている台詞じゃないかなあ。お別れ会が長く、前後の暗いシーンが引き立たない。鉄志(藤原竜也)の母(奥貫二役)の暴虐ぶりが今一つ。(描写が長い。演出・脚本の問題かも。)鈴木亮平の「弱さの表現」、もっとあってもいい。トイレについて語る冒頭のシーンで、皆に語りながら「渦」の中に流している物が何か、彼だけは知っている。伊東沙保、「ファン」の変わった女の子、よかった。いろいろあるけど、観終わったら感動していた。再演希望。野田秀樹だって、30年前は声を嗄らしていたのさー。

下北沢 駅前劇場 ふくふくや第20回公演 『こどものおばさん』

 頭でっかちに考えると、「ああ、セックスワーカーね。」とクールなくせに、よく知りもしない人がフーゾクで働こうとすると、全力で止める。とても矛盾した、価値観の揺れてる自分。私を含めた世間の揺れを映して、この芝居の「トルコ嬢」の述懐も海の上の艀のように定まらず両価的だ。主人公のひとり十五歳の春子(山野海)は将来の目標を、弁護士にするかトルコ嬢にするか迷っている。世間的に認められた弁護士か、尊敬する母(中村まゆみ)の職業の風俗か。風俗に働く人の矜持と、それとは裏腹な蔑まれる哀しみ。ここはいい。母とそのヒモ(浜谷康幸)の夜逃げを受けて春子が決断するシーン、「大人になるのがすごいこわい」。なぜか私は一葉を思い出し、あの「美登利」にものすごーく申し訳なくなった。春子犠牲なの?勿論、「セックスワーカー」として受け取るならば、ここはとっても前向きな感じであるはずなんだけど。竹田新はこの矛盾をどう考えているのだろうか。両価的なものをうまく動かして話を推進しているのだが、両者の対比、オーバーラップがうまくいってない。

 前作『ウソのホント』から引き続き登場する人々に、春子の幼馴染日向子(熊谷真実)が絡み、新しい店での人間模様と春子たちが15歳だった過去がかわるがわる現れる。会話は一瞬の滞りもなく弾けるように進み、気の利いた台詞ばっかりなので怒鳴るのはやめようよもったいないと心から思うのだった。山野は今回きちっと芝居を抑えてきたが、もう一つクールさが欲しい。市原悦子がもってたような、樹木希林がもっていたような、役柄との距離。熊谷真実は好演しているが、いざという時、「目をパチクリパチクリ」してきたことがばれてて、大切なシーンで深みに欠ける。パチクリ禁止。