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「風立ちぬ」

 ついこのあいだまで刀を差して歩く人のいた国で、心理小説を書き、飛行機を設計する。維新からたかだか70年である。すごくもあり、無理でもある。日本は無理している国だった。そして、いつでも無理をしてきたのである。

 その無理を支えるのは、堀越二郎庵野秀明)のような傑出した能力と、度外れた情熱を持つ人物だ。

 冒頭のシーン、子供の二郎が夢を見る。その夢は遠くイタリアの飛行機設計家、カプローニ(野村萬斎)の夢と地続きになっている。この夢がとても美しい。見ながら、もう泣いたくらいだ。少年の家の棟瓦に据えられた小さな飛行機が、ゆっくりと町の上空を飛ぶ。田んぼの上を飛び、工場の女工さんたちに手を振って、少年は飛行する。カプローニが現れると夢は怖くなる。飛び立っていく飛行機の群れ(その操縦士の顔もはっきりと見分けられる)を見ながら、カプローニは、あの半分も帰って来まいと平然と少年に言う。この怖さと美しさの渾然とした夢を携えて、二郎は大人になってゆく。しかしその時代には、関東大震災が起き、銀行の取り付け騒ぎがあり、失業者があふれている。

 「美しい」。飛行機を見て二郎はよくこう口にする。魅入られた人の人生は困難に満ちている。無理は徒労に帰す。私はこの映画を見て泣いた。美しいから泣いた。だがそれだけではない。夢に取りつかれるとはどういうことか、確かに手渡された感じがし、その手渡されたものが、閉じていない、私たちに向けて開かれているのを感触で知ったから泣いたのだ。

 ――激しい夢を見ろ、そして力を尽くせ。 

 それは、こんなふうに夢を見てきたという宮崎駿の明言でもある。