池袋芸術劇場 『小指の思い出』

 目の前に、透ける砂漠が広がっている。膚色の薄布で覆われた車、薄布で覆われた自転車、薄布で覆われたハンマーのようなもの。舞台の両袖は完全にオープンにされ、殺風景だ。この舞台袖をみたとき、何だかこの舞台自体が意志あるもので、これはその「決意」なのだという強い印象を受けた。芝居が始まるとひとつひとつ布が外されるが、それは車や自転車、脚立が砂の中からあらわれるように見える。

 「私、こどもおりません」と粕羽聖子(飴屋法水)が渾身の力でハンマーを振り下ろす鈍く大きな音。これからはじまるのは夢の遊眠社でも、30年前の『小指の思い出』でもないよ。暴力的なその音に吹き飛ばされそうになりながら、むかし本多劇場で観たことを突然思い出した。それも2回観たのだった。一言半句も理解できなかったし、理屈づけも無理だったが、私はこの芝居が好きだったのだ。それはセリフの美しさとスピードの生理的快感のせいだろう。今回の上演で驚いたのは何より、内容が理解できるというところだ。

 粕羽聖子という当たり屋の女の妄想が膨らみ、現実とせめぎ合う。彼女には妄想の子供たちと、認めようとしないが現実に子供がいる。妄想の子供を愛するあまり現実と折り合いがつけられなくなり、現実のその背中を「押した」。重い話だったんだなあ。

 登場人物は皆、まるで爪を使って砂の中から自分を掘り出そうとしているようだ。粕羽聖子と粕羽八月(青柳いづみ)の格闘はすさまじく、首つり縄を前にした青柳いづみは鬼気迫る。

 赤木圭一郎勝地涼)の最後のセリフは「君」を客席に投げず粕羽聖子―粕羽八月にかけるもので、とてもやさしく響いた。

 セリフの聴き取りにくいことなどそれほど問題とは思えないが、シーンの繋がりが難しく、熱演がやや浮くのがもったいなかった。