シス・カンパニー公演 『コペンハーゲン』

 スリットを通って姿を見せる3人の人物。そこで3人は光子(こうし)のように干渉しあい、生きていて・死んでいる。

 1人は量子力学の泰斗デンマーク人ニルス・ボーア(浅野和之)、もう1人はその弟子でドイツ人のハイゼンベルク段田安則)、そしてボーアの妻マルグレーテ(宮沢りえ)。

 破竹の勢いのドイツは今やデンマークを占領下に置いた。1941年、ドイツの原子力研究に従事しているハイゼンベルクコペンハーゲンに、旧師ボーアを訪ねてやってくる。ここで何が話し合われたのか。誰も知らない「そこで話されたこと」は、その後の世界を決定づけるものとしてクローズアップされ、芝居はそれを、検証していく。

 ――ということなのだが、「かくぶんれつ」「ふかくていせいりろん」とか、さっぱりわからない私にも、面白くできていた。「わからない」ということが、いくつもの、多様な可能性を産み、芝居を押し広げ、宇宙の生死にまで思考を飛ばすことができる。

 この芝居に問題があるとすれば、「おぼれていく息子」がよく見えないというところだと思う。戯曲を読んだときは、突き出されたもがく手、波間に藻のように浮かぶ髪が、ありありと目に浮かんだのに、意外に淡々と過ぎて行ったシーンだった。世界の痛み。死の恐怖。それは「息子」ハイゼンベルクのものでもあり、「父」ボーアのものでもある。そして暗がりに密閉される私たち皆のものなのだ。

 マルグレーテが感情問題に話を持っていくとき、畳み込むタッチが変わらないから驚きが少ない。あそこではっとしたいよ私。

 宮沢りえ、失敗しても(いやん)っていうのなしでね。せっかく長丁場の芝居なのに、なれちゃったらもったいないです。まずセリフよく聴いてね。