シアターコクーン 芸術監督蜷川幸雄・追悼公演『ビニールの城』

 薄い透明の膜のこちらに朝顔森田剛)が、あちらにモモ(宮沢りえ)がいる。それはヴェールを隔ててルクレチアが胸に擬した短剣のように限りなく近く、果てしなく遠い。

 棚。ぎっしり並んだ人形の棚だ。こちらを見ている人形、仰向けの人形、そのだらりと垂れた足、投げ出した足が、知らないうちに動いたような気がした。死んでいった人たち。眠っている誰か。じっとしている私たちであるかのような人形だ。照明が端から順に、懐中電灯風に、一つずつ交代で客席を照らす。チリンチリンと風鈴が、回向のかねのように鳴り、激しい風の音がする。

 人形を探しにやってきた腹話術師朝顔は、電気ブランで目を覚ましたのか眠ってしまったのか。世界は水底のようでもあり、浅草のバーのようでもある。腹話術師は人形に話しかけ、人形を動かしているのか、それとも話しかけられ、動かされているのか。瓢箪池の底の水は羊水か立方体のビニールか。全ての謎が単線で語られる。記された鉛筆の跡を追うように、どこまでもどこまでもビニールの城を追いかけてゆく。

 モモがかわいくコミカルだ。朝顔に迫るところは真剣だけどけっして獰猛な女でない。モモが魅力的であればあるほど、そこから飛び退く朝顔の演技はむずかしく、そして重要になってくる。「なまぐささ」に弱い繊弱なかんじを、もすこし声に変化を持たせて出すといいと思う。逃げ回る朝顔に気持ちが寄せられないと、終幕までが長く感じる。荒川良々、唐の世界で、その色になじみながら自分を出せている。

 金守珍の演出は驚くほど空間を広く取り、蜃気楼のような幻影を舞台上に再現する。私が状況劇場を好きだったからだと思うが、もっと、キメの音楽が、ばーん!じゃーん!とかかってほしかった。

 もつれ合う三人の(三体の)心のことなど考えながら外に出る。なんてじめじめした陽気だろう。そっと言ってみると、胸の内の人形が目を覚ましたみたいで、なんか郷愁のような、懐かしいような、こわいような気持が来、チリンチリンと、頭の中でいつまでも風鈴が鳴る。