劇団東京乾電池公演 『やってきたゴドー』

 『やってきたゴドー』、初演は2007年、戯曲は2010年9月論創社刊。読み終わっての感想は、電信柱とベンチとバス停のある砂の惑星に、ウラジーミルとエストラゴンがいて、そこへ、隕石みたいに「バスを待つ女」や「乳母車の女」や「受付の二人」が、フォルムとして突き刺さって来るって感じだ。フォルムのひとつひとつが、それぞれの宇宙を持ってる。ものすごく広くて、ものすごくねじれてて、ものすごくおかしい。

 開演前、今日の舞台を一目見るなり、少し笑った。私の中では静謐なイメージの電信柱とベンチとバス停が、皆近い。別役の静けさに持ち込むこの近さ。そして(明るくなるとわかるのだが)饒舌。下手寄りにやや迷いながら立っているように見える電信柱には、質屋や内職の広告や女の裸のビラが貼ってある。ベンチは少しデザインが入っているしバス停には「宮下一丁目」ときっちり記されている。ちびた塗下駄をはいて現れる女1(麻生絵里子)は買い物かごを提げている。昭和三十年代だー。昭和風に言うと、この芝居はひとつづりのバスの回数券みたいだ。全てのフォルムが、押しくらまんじゅうでつながっている。ウラジーミル(伊東潤)とエストラゴン(有山尚宏)は終始怒鳴りあっていて、何度ゴドー(戸辺俊介)が名乗っても見逃してしまう。腑に落ちないために、いつまでも出会えない人々。赤ん坊を連れて、その父親を探している女4(宮田早苗)。息子からの手紙を買い物かごに忍ばせて、息子の訪れを待っていたという女1。東京乾電池の女の役者たちは、「その場にいる」ということがきちんとできていて、地に足がつかない感じのエストラゴンたちとは違う。それは演出だとおもうけど、セリフのどたばたに、もすこし洗練が欲しい。時刻表を見る麻生絵里子の、集中した静かな感じは、とてもリアルで、洗練されているよ。