渋谷TOHO  『沈黙 ―サイレンス―』

 殉教の浜で、笛吹いて遊んだ。映画見ながら、そんなことを突然思い出して、済まない気持ちでいっぱいになるのである。ごめんなさい。海は青く、そこに浮かぶ島も青く、空も青く、けぶるように全てが青かった。あの島に、宣教師が禁教をかいくぐって戻ってきたんだって。昼は隠れ、夜は教えを説く。やがて見つかり、殉教したんだよ。海がきらきら光っていた、小舟に乗って、決死の思いで日本の地へ戻る人影が見える気がする。すごいなと思う。笛を吹きながら考えた。きっと、こんな人の、こんな行いに、神さまはいる。じゃあ、そうじゃなかった人はどうなのか。踏み絵におびえ、拷問に怖気を振るう私のような人。棄教者たち。弱くて、美しくない人たちにとって、神とは何か。そういう映画でした。『沈黙』。

 日本で布教活動をしていた宣教師フェレイラ(リアム・ニーソン)が棄教したことがイエズス会に伝わり、フェレイラの二人の教え子、ロドリゴアンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライヴァー)はそれを確かめるため、転んだ切支丹であるキチジロー(窪塚洋介)の助けを借りて、長崎へ潜入する。トモギ村というその村で、イチゾー(笈田ヨシ)、モキチ(塚本晋也)という切支丹たちに会うがそれもつかの間、信者たちは無残に殺されていき、苦しみは尽きない。しかしそれでもまだ神は沈黙している。心の中で神と対峙するロドリゴ

 全編が息詰まる緊張で貫かれ、一瞬も緩まない。中でも塚本晋也が全身で表現する精神性に打たれた。ロドリゴたちにあって、目から溢れる安堵と喜び、踏み絵に選ばれての小さな気落ち、それから仰向けになれば浮いたあばらの間に水が溜まるのではないかと思うほどの厳しい痩せかた。これに対してキチジローは犬のような眼をした一塊の塵芥のようだ。(登場シーンのうずくまり方がちょっと惜しい。足がながすぎるのかもだけど。)彼は神を裏切り続ける。それほど弱い。そして子供のように戻ってくる。何度も転び、何度も神を呼ぶキチジロー、醜く見えるもの、弱く見えるもの、ロドリゴの行いを通しても神は顕れるのではないかと思える。そこにこそ、黙っている神が、宿っているのでは。