蜷川幸雄一周忌追悼公演 さいたまゴールド・シアター×さいたまネクスト・シアター 『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』

 乱れている赤い幕。上手の幕と、下手の幕、合わせ目が疵みたい。日常の亀裂としての非日常が、いま幕を開ける。

 それは透きとおる四角いお墓。いくつもいくつも、透明の水槽が整然と並べられ、一つずつに一人、老人たちが横たわり、胎児のように体を丸めている。手指が静かに、揺らめきながら動き、海の中の光る藻を思う。死につつありながら、生まれ出ようとしているのだ。

 駆け込んでくる若者が二人、手に持ったボールで戯れにキャッチボールをする。爆発音!それはボールではなく、爆弾だった。

 青年A(松田慎也)、青年B(竪山隼太)はつかまって裁判を受けている。彼らは革命を信じていた若者たちである。法廷はもっともらしく、判事たちはしかつめらしい。ここに証人として呼ばれた青年Aの祖母鴉婆(田村律子)は証人の宣誓はいったい誰に向かってするのかと疑義を述べる。そこへ、20人からの老婆たちが乱入し、第八法廷をゆっくりとその生活で占拠する。彼らは爆弾を持っていて、法廷関係者を皆人質にとり、老婆たちによる裁判が始まる。

 「考える」「言語化する」ということから自由になれない若者たち、そこにこだわり続ける限り、自分たちの思いや革命は先細りであるだろうという予感が、この芝居をつくりだしている。「考えない」「言語化されない」未踏のジャングルのような、青年たちを囲むすべて。それはギリシャ神話のハルピュイアのように、無慈悲で意地汚く、攻撃的で、また、闇のように黙り込んでいて、愛と狂気を含んでいる。顧みられなかった下の下のそのまた下の地層、闇の内の闇、その中に芽吹くことなしに自分たちはあり得ない、という切羽詰まった思い。汚れた足の裏をはたく手拭いの手慣れた動作、お菜を刻む皺ばんだ手、遺影を負う小さい背中、そこから若者たちは咲き出でる。まるで舞台が、一つの、透きとおる胎内であったかのように。