中村橋之助改め八代目中村芝翫襲名披露 六月博多座大歌舞伎        (2017)

 はしのすけふくのすけうたのすけ、口の中で何度も唱えながら、開演を待ってる。五分前、青白赤のモダンな祝い幕が上手に消え、黒と緑と柿色の定式幕がそれに変わる。橋之助さんには3人も男の子がいるんだねえと思いながら待っている。はしのすけふくのすけうたのすけ。

 今日最初の演目は近松門左衛門の『信州川中島合戦』、その『輝虎配膳』というくだりだ。武田信玄に仕える軍師山本勘助を、敵対する長尾輝虎(中村梅玉)はなんとしても自分のもとで抱えたく、勘助の妹唐衣(中村児太郎)が、長尾の家臣山城直江守(中村鴈治郎)の妻であることから、勘助の母越路(中村魁春)を呼び寄せ、懐柔しようとする。

懐柔、でも、それってそんなにすんなりいかないよなと、越路が嫁お勝(尾上菊之助)に太刀を持たせて従え、花道から御殿に上がったところで劇場にいる人全員にわかる。娘唐衣が下手に、嫁お勝が上手に控え、脇息と刀掛けをおいて中央で正面を向く。目が違う。鎮座したって感じ。白い切り下げ髪の額に薄墨色の帽子(時代物のしるしなの?)、薄墨色の着物から、手が切れそうに鋭く白い襟元がのぞく。打掛は黄朽ち葉色っていうのか金茶っていうのか、いかにも年寄らしい色だけど浅いグレーとの取り合わせがクールだ。白い顔の目元がふわっと紅くみえ、目の中が深々と黒い。その目の奥の黒さが、舞台全部を統べているように見える。思惑を、知りもしないで見通してしまうような眼差し、それがあるから拝領物の小袖を断っても、「ああ...。」そうですよねと思ってしまう。

お膳を輝虎が直々に運んでくると(はっとする唐衣の伏し目がきれい)、「見るもなかなか忌まわしい」と言いざま、刀のこじりで膳ごと階段から押しおとしてしまう。でも目が冷静。気迫と胆力がある。

怒る輝虎は朱の縁取りのある金の着物を脱ぎ、中に着ていた白の着物を脱ぎ、また脱ぎ、もっと脱いで、怒り続ける。この白は、邪な心はないという意味なのかなー。そういえば越路の襟が白いだけでなく、唐衣の襟も白、お勝の襟も白く、山城守の裏地も白い。唐衣が止め、山城守が止め、とうとう、口の不自由なお勝が琴を弾いて止める。場が泡立ったようになってて、お勝はすごく慌てているはずなのに、琴の音が丸い。しっかり弾かれたいい音がする。振り上げた刀の腕もふと緩むかんじだ。歌舞伎俳優さんって、琴まで弾けて、しかもその琴の音が、心を捉える音でなくちゃならないんだなあ。輝虎は越路を許すことにし、越路は打掛を再度はおり、「ほ」と小さく息を吐いたように見えた。年寄らしい少し角ばった動き、花道を去る老女は、ちょっと腰を伸ばしてみせる。その後ろを嫁のお勝が、なめらかにするすると付き随うのだった。

 

『口上』

口上のときいつも思うのは、頭を下げた俳優さんたちの肩衣が、ぴりっとも揺れないということだ。頭を下げて礼をするという仕草が、踊りとか型と同じように、とても美しい。今回襲名する三人の若い人、中村橋之助福之助歌之助の裃も、ちっとも動かない。若いのにすごいなあ。下げた頭、控えている顔がほんの時折ちらちらするのは、ごくかすかなまばたきまでが客席に伝わっているからだ。口上というのはご挨拶を越えて、心を伝える一つの厳しい芸のように見えた。

 

 

『祝勢揃壽連獅子(せいぞろいことぶきれんじし)』

「夫れ牡丹は百花の王にして」という長唄を聞きながら、どうしてこれ最初狂言師として出てくるのだろうと考える。

獅子頭に長い布のついた手獅子と呼ばれるものを片手に持ち、布の部分を肩にかけた四人の狂言師たち(中村芝翫中村橋之助中村福之助中村歌之助)。能の影響ですと言ったら終わっちゃうけど、リバーシブルの布のように、存在が一度ねじれて続いている。別のものなのにひとつなのだ。手に持っていた獅子に命が吹き込まれて、踊る人(狂言師)が内側に入っちゃうようにみえる。獅子の精に化身する。そこが凄くスリリングだよね。清涼山の描写をする狂言師は、まだ咲きかけの牡丹の花のよう。露に濡れているようにフレッシュだ。そして揃える踊りに迷いがない。橋之助のまなざしの送り方がきれい。見るとこ多くていそがしいな。音楽が急になり、仔獅子が突き落とされるくだりになる。芝翫さんとこの仔獅子、そう簡単に突き落とされたりしない感じ。気迫がこもっているし、何よりこの人たちが、芸の厳しさを知っているのがわかる。低く高く、四人で輪を描く。花道の所で芝翫さんが三人の引っ込むのを見送り、にっこりする。それが莞爾というか、「にっことわらい」という文章を思い出すような笑顔で、襲名のうれしさみたいなところに観客も思い至る、いい笑顔なのだった。

ここで場面はちょっと変わり、高僧の伴をして清涼山にやってきた萬年坊(中村松江)と長楽坊(中村亀鶴)が、目の回るような高い橋の恐ろしさを振り払おうとお酒を飲み、酔って舞う。二人の師匠昌光上人(中村梅玉)と慶雲阿闍梨中村時蔵)が登場し、彼らの清らかな思いのせいか、文殊菩薩坂田藤十郎)が顕現する。揺れる瓔珞。清い有難い感じ。五人の人たちがすーっと舞台下に消え、そこから親獅子と三人の仔獅子の精が現れる。仔獅子のきゅっと結んだ口元に入った朱の色がきっぱりしていて、赤いかしらの前髪がおかっぱみたいでかわいく、緑に金糸の衣裳も鮮やかだ。穉いけど強そう。こんなフィギュアがあったらほしいな。どの獅子も、歌舞伎の決まったときに開いた手みたいに、ぱっと体の隅々まで気力が充実している。かしらを左右に振ったり、叩きつけたり、回転させたり、その回転が倍速になったりする。舞台の後ろに青い空と、大きく咲いた牡丹の花が、クローズアップで見えました。

 

 

『幸助餅』

グレーの霰模様(?)の着物の襟に、たっぷり綿が入っていて、襟元が大きくくつろげてある。上半身が強そうに、分厚く見え、それに高足駄、っていうか、普通の下駄の倍ほど背の高い下駄をはいているので、見たところがもう、立派な関取だ。千代の富士以来、お相撲さんをかっこいいと思うことをわすれていたけど、雷(中村亀鶴)は精悍な威のある大関で、餅米問屋の大黒屋幸助(中村鴈治郎)が、没落するほど相撲に入れあげたのは、雷の向こうに透けて見える、一番一番、勝ち負けのはっきりつく、真剣勝負の熱さと厳しさなのだということがよく解る。

幸助は商売が立ちいかなくなり、妹お袖(中村児太郎)をかたにした三十両で、何とか盛り返そうとしている。桜の花の木の間がくれに現れた幸助の着物はよれよれ、三ッ扇屋の女将お柳(中村魁春)によくよく言い含められるけど、ちゃんと聞いてなかったねと思うくらいあっさりと、大関昇進を知らせてくれた雷に、その三十両を祝儀として渡してしまうのだ。そしてまた、たしなめられると返してくれという。あー。ねー。ここが幸助の性根の甘い所で、残念なところ。

雷は返してくれない。悔しさのあまり、雷の羽織の紐を引きちぎった幸助は、商売に励み、幸助餅と呼ばれる名代の餅屋として知られるようになる。引きちぎった紐が、額に飾られているのが、ちょっと可笑しい。幸助餅の店先に雷が現れ(登場した瞬間、「かっこいー」といってしまう)、茶代に三十両を置いていく。追いかけた幸助に雷の心底がわかり、大団円。

登場の雷、もうちょっとだけ、自分の間で、ゆっくりあるいてほしかった。あと、幸助の甘い所に時間をかけて、愛嬌が描写されてたらなー。お芝居の尺が、伸びちゃうだろうか。