新橋演舞場 七月名作喜劇公演 『お江戸みやげ』『紺屋と高尾』

 『お江戸みやげ』

「しわがよる、ほくろができる、腰曲がる、頭ははげる、髭白くなる」って、江戸時代のお坊さんが年寄りのこと言ってて、その他に、「さびしがる」とか「くどくなる、気短になる、愚痴になる」とかいろいろあるんだけど、今自分が着実にその道を辿りつつあることを考えると、夜中に目が覚めて索漠としちゃうことがある。みんなどうやって我慢してるのかな。

 『お江戸みやげ』のヒロインお辻(波乃久里子)は、苦労しているけれど、それを呑み込んで口に出さない賢い女だ。結城の里から、呉服の行商に来た在の人で、散々歩き回って湯島天神の茶屋で一服する。登場した時、とても遠くから歩いてきた感じがし、着物から出ている足を少し開いて座るところが「おばさん」だ。愛や恋は今までもこれからも関係ない、年は取っていくけれど日々坦々とそれを受け入れている女。そんな女が何の気なしに見た芝居にのぼせて、役者の阪東栄紫(喜多村緑郎)に夢中になる。

 最後に「やまとや!」と栄紫を送り出した後、すこし気脱けしたような表情のお辻が、『ローマの休日』の長いエンディング(会見場に一人残るジョー・ブラドレー、恋は去っても人生は続く)を思い出させ、これは索漠を輝かせる小さい美しいおみやげなんだなとちょっと涙出た。

 波乃久里子の最初と最後はすごくいいのだが、「吝嗇」と「酒好き」のスケッチが今一つ。愛嬌多めじゃないと喜劇に乗れない。観客一人一人のこの索漠を乗り切るために、波乃久里子にはもっと頑張ってほしい。仁支川峰子、「油をかけておくれでないよ」「いじのやける子だよ」など今はない言葉をさらっと言い、さすが。けど、もっと強さと重みがないと話が軽くなる。キーを下げてね。

 

 

『紺屋と高尾』

 昔、土曜日の昼下がりにテレビをつけるとたいてい松竹新喜劇をやっていた。アホだったはずの藤山寛美が最後にすごくいいことをいい、ぱーっとお客から拍手がわく。それを見ている小学生の自分。

 今日の『紺屋と高尾』は、なんだか、(子供のころ見たことあるんじゃないか)と思うくらい、懐かしい感じ。パンフレットを読んだら、紺屋の久造(喜多村緑郎)が、毎日藤山寛美のDVDを見たといっていた。そうかー。ハンサムなのに藤山寛美風味。あまりに寛美とちょっと思ったが、型をちゃんとやらないと型から出られないからね。

 大坂の紺屋職人久造が、見物に行った吉原で花魁道中に出遭い、遊女高尾ににっこりされる。一目で高尾のとりことなった久造は、年季奉公の金と一年分の給金を持って、お大尽のふりをして再び吉原を訪れる。

 案内の医者(やぶ)の玄庵(曾我廼家文童)に、つき袖して「おう」とだけいっておれと言われ、久造はずーっと「おう」という。ここ、ニュアンスを変えて客席にもっと細かく伝えないと、単調になる。

 久造と相対する花魁としての高尾(浅野ゆう子)が、すてきだった。戸を閉めて、座る久造を見ながら歩いてくる冷たい色気。三浦屋主人惣兵衛(瀬川菊之丞)と話すときは少し伝法すぎるが、格の高い遊女でありながら、苦界に沈むつらい身の上であることがやり取りや、鳶が空をゆっくりと、自由に飛ぶのをながめている姿から滲み、話を分厚くしている。あと、小紋の着物に黒羽織をつけた高尾が土間に膝をつくと、吉原からついてきた人々が「あ」と悲鳴のような驚きの声を小さくもらすリアルさがよかった。