彩の国さいたま芸術劇場 蜷川幸雄一周忌追悼公演 『NINAGAWA・マクベス』

 劇場を入った途端、巨大な仏壇の白い格子の引き戸(閉じている)が目に入り、「きゃー」という。2015年の公演を観ているのに、胸がときめく。真ん中にその引き戸、両側に舞台端までいっぱいの、金色の扉金具を飾った大きな黒い木の折り戸が一組ずつ、その上は四つに区切られ、雲のような金の模様が四つ並ぶ。天辺に鳳凰とおぼしき金の浮彫。折り戸には縦にまっすぐに板目が浮いて、時代のついた「古さ」を表わしている。眺めながら、蜷川さんは年に何回も何回も観客をわくわくさせていた、と思い、悲しいような、ありがとうというような気持が同時に来る。アンバーと水色の光が引き戸を照らす。生と死。仏壇は、生者の時間と死者の時間が、共に流れるところなのだ。

 私田舎者だからはっきり言う。この作品は、もう蜷川さんのものとは言えない。何故なら、俳優が自分の持ち場を一生懸命やりすぎているからだ。その結果、皆が皆、自分の一番いいせりふを「たてている」。せりふとせりふの間もあき、ひとつづりのせりふ全体の印象が薄くなったり、ぼやけたりする。マクベス市村正親)の「バーナムの森が、ダンシネーンに向かってくるまではな」というせりふは目立ちすぎているし、マクダフ(大石継太)があらわれて、死闘を繰り広げるまでの間合いは、本人もパンフレットで触れている通り、後期の萬屋錦之介をあまりにも強く思い出させる。

 マクダフが妻子の死を知らされる、知らされてからの芝居が素晴らしかった。知りたいが知りたくない。全身が慄え、どこにもなかった大石だけのマクダフである。ダンカン(瑳川哲朗)の死を知って動転する所(声が迫真でない)と、マクベスを戦場で発見する所(体に沸き立つ戦場の興奮がない)を、がんばってほしい。このお芝居イギリス行くんでしょ。井上尊晶さんも、がんばってください。