新国立劇場小劇場 『プライムたちの夜』

 暗い色の布地がかけられた安楽椅子に、85歳のマージョリー浅丘ルリ子)が、いかにも具合悪そうに横になると、自然と私の頭には、エッグチェアにきれいに足をそろえる浅丘ルリ子が蘇り、いやでも「記憶のニュアンス」について考えるのだった。人工知能?そんなこと、一個もおもわなかったよー。これは、「記憶」についての物語、記憶をいくら重ねても、他者が「本人」に迫ることのむずかしさを、色合いを変えながら伝えてくる。たとえそれが、母と娘であっても、夫と妻であっても、「本人」の予測しがたさに到ることはできない。最後のアンドロイドのシーンは、まるで記憶の亡霊の団欒のようで、ブラッドベリのファンタジーの味もし、孤独で、さびしいけれど、すてきな幕切れだった。

 浅丘ルリ子の芝居を間近にすると、何十年も主役を張ってきた女優の力をまざまざと感じる。それは第一に、研ぎ澄まされた聴く力だ。一日も稽古を欠かさないバレエダンサーの躰のような、しなやかで繊細な「黙っている時間」、そしてしたたかで鋼のように響く声、繻子のように滑らかな声、きらきらする華やかな声。

 一幕では上手からマージョリーが登場し、二幕では下手からテッサ(香寿たつき)が現れる。この演出を見ても、母と娘の、死者を間に挟んだ愛憎を描くドラマであることは明らかだ。しかし二人の母子関係=力関係の描写がうまくいっていない。場を仕切りたがる者同士であるならば、主導権を取ろうとするところがもっとあったほうがいいし、娘マイカと直接話もできないほど支配的(たぶん)であるテッサの造型と、鬱になっているテッサ(鬱ってもっと重くて圧倒的)のスケッチが、今一つ。別人格のテッサがよかっただけに、惜しいと思う。