吉祥寺シアター 『日本文学盛衰史』

 紙の上に横たわる例えば森鷗外夏目漱石などの文字が、空気を入れられ、初めはよろよろと、次にはスーツなどを着て、髭を生やして立ち上がる。私が感じ入ったのは「星野(河村竜也)さん」という人物で、この人きっと星野天知なんだけど、学校で習った符牒のような人が、服を着こんで、畏まって座っている。ふーん。生きてたんだなあ。

 障子、矩形の変形畳、天井の枠、すべてが原稿用紙みたいで、ここはマス目に囲まれた近代文学の国だ。この空間でいろんな文学者の通夜ぶるまいや精進落とし(?)が、小さな四角い膳を並べて行われる。「内面」という物があるらしいと気付いた明治の文学青年たちが、それを表現するすべを、二葉亭四迷(大塚洋)の翻訳から獲得したり、幸徳秋水山本雅幸)の幾度かの登場が、無限に思えた文学の世界を狭める象徴となったり、焼け野原になって日本が滅びたり、2時間10分、作品は忙しい。ここにツイッターやラップが挟まれて奇妙な世界が成立する。過去だけど平気で現代なのだ。芝居は高橋源一郎の原作から飛び出して、整然と美しく可笑しく描かれる。脚気でミソをつけた鷗外(山内健司)やら日蔭茶屋で神近市子に四角関係のもつれで刺された大杉栄やら、細かいトピックには事欠かない。書かれた文字にしか過ぎなかった文学者たちは、足袋や靴下で、白い紙の上を歩き回る。

 しかしここには「業」がない。なんかちょっとそこを残念に思う。「業の痛み」がぜんぜんないんだもん。

 作家の足が紙につけた、微かな凹みや捩れ、青年団をみる時、いつも好きだった小さな感情の波立ちとか、もうないのか。小石までがかりんかりんに凍ってる冬の夜、駒場の道をあごらまでマフラーに鼻を埋めながら通った日々、それは言葉にできない感情の交換を眺めに行ってたんだけど、知らない間に変わってしまったのかも。