世田谷パブリックシアター 『マクガワン・トリロジー』

 なにしてくれてんねん、と関西弁ネイティブのようにつぶやきながら、英語の戯曲をロビーで購入する。英語かい。

 『マクガワン・トリロジー』の第一部「狂気のダンス」は本当に暴力的で(ステレオタイプではある)、自分が撃たれるような気がする。やだな。バーテンのジミー(浜中文一)だけが心の支え。ジミーがほんとうにいいやつで、アハーン(小柳心)を彼なりのやり方で助けてやろうとしているように見え、この浜中文一は、自分の守備範囲を自在に、でも出すぎず守っていて、いい。それなのに!

 一部を見ているときは、マクガワン(松坂桃李)を関係ないもの(サイコパスとか)として切り離しそうになる。だが、こうした内ゲバは、IRAではよくあったことであり、ニュースに登場するたくさんの死は、ひとつひとつが血腥い、内実(悲鳴、哀訴、血)を伴うのだということを、飛び跳ねるマクガワンを見ながら考えた。二部に進むと、叫ぶ女(趣里)の声の中に追いつめられた響きがあり、これだけのことが起きた後、マクガワンは母親(高橋惠子)の所へ向かったのだなと理解する。フラナリー・オコナーも思い出す(『スリービルボード』で援用されている作家)。音楽に合わせて体を揺らす女、構えられた銃、一瞬の真空。とても遠い場所に来たような気がする。現実を拡張する真空、一瞬だけど、すべてが恐ろしくクリアに見える、こういうのが、究極の暴力のシーンを書いていたフラナリー・オコナーとかの求めていたものだったのかな。わからん。

 マクガワン、心の中に二重のデリケートな「意識の流れ」がないとこの芝居をうまく見せるのは難しい。インターホンでハイになりすぎてて追いつけない。マクガワンって心の中にいつも悲鳴を上げてる場所があって、自分の替りに悲鳴を上げさせてるんじゃないの?