アップリンク渋谷 『シェイプ・オブ・ウォーター』

 それなくしては生きがたいのに、その中では生きられない。あたりまえか。水のことだ。指先が円筒の立てられた棺のような水槽の表面にそっと触る。その硬い感触を感じ、彼女が映画が始まってから何に触ってきたか考えてしまう。アイマスクや蛇口、バスタブのお湯、「身体」、卵(お湯の銀色の泡が海流のように鍋の中で踊る)、掃除のモップ、きれいな水、汚れた水、水。

 掃除婦のイライザ(サリー・ホーキンス)は水を触る人だ。時が「過去から流れる河にすぎない」のなら、彼女の手はとどめられない時に触れ続けているのだ。水槽カプセルに触るとき、そこには、なんか悲しい予感がある。なんだろ、このかなしい、歯がゆい感じ。わかりあえない、ぎこちなさ。

 愛だねー。ふつーの愛だとおもう。これ。ここんとこ。

 映画の冒頭の美しい映像の、水中に浮かぶまくらに頭を横たえる「プリンセス」は、愛に埋もれ、窒息しながら生きていて、そして眠っている。超自然的な恩寵かしら。ここで語られるのは、ふつーの愛でなく、自分自身のように完結した全き愛、水のように一つになれるファンタジーな愛なのだ。

 イライザは声を出せず、愛を奪われていて、貶められている。声の出せない、貶められた半魚人(ダグ・ジョーンズ)を愛するのに時間はかからない。でも、愛し始めるエピソードが弱いかな。

 半魚人とイライザの愛は、影絵のようにとおーくにゲイのジャイルズ(リチャード・ジェンキンス)とイライザのふつーに不可能な愛が投影されていなくてはならない。そこも少し弱い。

 ストリックランド(マイケル・シャノン)、ホフステトラー博士(マイケル・スタールバーグ)、友人デリラ(オクタヴィア・スペンサー)、誰もがきちんと成り立っているのに、半魚人弱っ!と思いました。