三越劇場 『初春花形新派公演 日本橋』

 初演大正4年、以来通算24回の公演。この『日本橋』という作品が、新派でいかに大切にされているかわかる。愛が世界の規矩に勝つプロットで、古びないでいる泉鏡花作品だしね。「雛の節句のあくる晩、春で、朧で、御縁日」台詞だって、きゃーすてきと思う。

 けれどもこれは、これから先がとても難しい芝居だ。お孝(河合雪之丞)と五十嵐伝吾(田口守)のいきさつに、葛木(喜多村緑郎)とお孝が泣きあうシーンなど、なんだか不審な気がするし、葛木が雲水になってしまうのもちょっとよく分からない。子役(山口彩羽)が伝吾を見守るところは、芝居としてはいいんだけど、子役の情操がしんぱいで辛くなる。

 「初代喜多村緑郎」「新派」「花柳章太郎」「鏡花」、いろんなものが覆いかぶさって、役者の手足を縛り、台詞を重くしている。もっとさー、ミーハーに行きましょう。芝居が誠実を尽くすのは、「自分の歴史」ではなく、「芝居そのもの」、ご見物の皆様にじゃないだろうか。ここんとこ、乖離するのよくない。羅宇屋のくだりや、「進」と「晋」の字の違いのとこ、もっと笑えるはず。

 伊藤みどりの因業なおばさんお角が飛びぬけてよく、むっつりバナナを食べている姿に笑った。

 冒頭、清葉(高橋惠子)が葛木のそばを通り抜ける時、二人の間に糸がついているように緊張していていい。

 清葉は美しいやさしい人として、お孝は火の出るような負けないたてひきの人として、伝吾はわけがわからなくなっている熱い人として、おのおのその「空気」をもっと出すことが肝要。本人同士の台詞も大事だが、「空気」「性分」「フォルム」がばーんと舞台上にある方がいい。だってこれ、現代じゃあわかりにくい芝居になっちゃっているんだから。