赤坂ACTシアター 『海辺のカフカ』2019

 この劇場もまた、一つの容れもの――うつわ――である。

 四角いアクリルの容れものに蛍光灯が点き(カチンと何かにスイッチが入る)、トラック、木々、公衆トイレが、それぞれその中にあって、ゆっくり舞台前へ移動する(カチン)。透明の小さな函の中のブルーのワンピースの女(寺島しのぶ)は、眠る少年(古畑新之)の容れものを目で追う。子供の声がして、ニュースがそっと、あの15歳の少年の事件を報道する。

 少年の心――容れものに、父親が入り込んでいる原作冒頭のシーン、カフカは狷介で小型の村上小説の「ぼく」のように見える。この芝居ではどうなの。三週間熱を出して「からっぽ」になったナカタ(木場勝己)が、猫殺しのジョニー・ウォーカー(新川将人)の前に立ちつくし、不意に体の中が暴力でいっぱいになってゆくところがとてもよかった。人の体(容れもの)の中身は皆、すり替わったり同じだったりからっぽだったりする。時空は溶けあい、混合し並立し、また反発する。佐伯さん(寺島しのぶ)はカフカの母であり、母でない。だがそれが何だろう、2度目に互いが互いを知りつつ愛しあうシーンが鮮やかで美しい。寺島しのぶは歩く姿、足の運びが典雅で優しく、そこに佐伯さんの母性が端的に感じられる。

 大島さん(岡本健一)が教条的フェミニスト(羽子田洋子、多岐川装子)を追い返すシーン、何がなんだかわからん。村上春樹はそのシーンに小さく、「うつろ」で教条主義な人間はよくないという物語の主題に沿った一言を入れていて、この場面を成立させているのだが、ギャラティのこの脚本だと、ただの女嫌いの教条主義的大島さん紹介になってしまっている。木南晴夏、声を作らず、肚から出そう。二幕直前にスポットライトが点いたり、下手で道具のあたる音や、ぶつかる音がした。傘を持つスローモーション、早すぎるし粗い。芝居しすぎ。