劇団東京乾電池 5月アトリエ公演 『眠レ、巴里』

 うねる大西洋のように、瀬戸の渦のように、上品なグレーの光る布が、舞台いっぱいに皺の文様をえがいている。黒い壁にパリの建物の遠い輪郭。それも銀色のテープで作られて上品だ。布の上にはCDデッキや本やまくらが浮かんでいる。枕のせいで、大きなベッドにも見えるセットに、二人の女が身を縮めて登場する。

 『眠れ巴里』と言えば、金子光晴の「寂しさの歌」を耳元で朗読すると週末の朝でも飛び起きる人を知っている。あのぼそぼそして繊細な感じ、金子が痛切に描写するあの寂しさが、どうも暗くていやであるらしいのだ。そりゃあいやだよね。「寂しさの釣出しにあって」皆戦争に出掛けて行ったと詩は続くんだから。金子の寂しさは異郷の寂しさもあるかな。存在の寂しさ。「異郷」ということを考えた。二人の姉妹、ノゾミ(松沢真祐美)とアキラ(池田智美)は「パリ」にいて、かすかな物音に竦みあがる。会話はポンポンと調子よく、ノゾミはいちいちを突き詰めるように、アキラは前半のぼけているところが上出来で、短い芝居はいいセリフに助けられてまっすぐ進む。

 真っ暗な中で発せられるささやき声が、とても大切。つきつめた「台詞」であることより「ささやき」であることの方が先だと思う。

 星川(矢戸一平)の最後の叫びは、東京乾電池で初めていいと思ったギザギザに割れた声だった。矢戸は芝居がどうこうという以前に「必死」であり、食べる仕草も爪の先まで必死で、台詞がくぐもって聞こえなくても「必死」であることは十二分に伝わり、それは喜劇としてとても正統だ。でもさ、だれにも異郷の寂しさがないよね。台詞はうまく発せられているけど、どの人のどの言葉も深くないもん。自分の台詞が、自分の奥底に届いていない。「寂しさの歌」をごらんください。