KAAT神奈川芸術劇場〈中スタジオ〉 KAAT×地点 共同制作第9弾 『シベリアへ!シベリアへ!シベリアへ!』

 フットライトが明るく光りまた暗くなる。天井(天井?)に「閊えた」白い風船が四つ、それより低い所に閊えた風船が1つ。スチールの骨組みの上に板が渡され、ドアが落とし戸のように板のあいだに寝かされている。上からと下から同時に生えている白樺、舞台の一番奥には客席を映す白い曇った鏡がある。明るくなれば客席はそこから消え、暗くなれば姿を現す。現実と仮想が一瞬にして「入れ替わる」のさ。ここには上下という物もない。小さくちりちりと鈴の音がする。だけどその音も舞台の後ろを往来していて、こちらという方角もない。鈴の音が大きくなり、上手奥ドアから、6人の「馬」(安部聡子、石田大、小河原康二、窪田史恵、小林洋平、田中祐気)がアラワレル。右足を踏むのが「バ」、左足を踏むと「シャ」、六人の俳優はこれから芝居が終わるまで、一時も休まない。足踏みし、前進し、後退する。「休む」ことは死であると、白い風船から吊られたように見える一人が幾度も示す。いきるってたいへん。

 この芝居、政治的であるとは私は全く思わなかった。進む、ただ進むこと、それがシベリアであろうがモスクワであろうが同じだ、ゲーテが登ろうが降りようが同じことだよっていったように。

 「バ」「シャ」の人々の余りの熱演に戸惑いつつ、最後の方では椎骨と頭蓋のつけ根をがたがた揺らしながら馬車にしがみつくチェホフその人を見る、その地獄めぐりを。だって「バ」「シャ」って、「入れ替わる」と「娑婆」じゃない?

 この芝居、演出も構成もかっちりしているのに役者が追い付けてない。芝居が小さい。濁音にも、思っているほど効果はない。

 横浜では「スパークリングトワイライト2019花火」も見ない、ゆっくり食事もしない、ただ地点をみる。それはこのチェーホフの因業な旅/芝居に、すこし似てはいないかい。