新国立劇場小劇場 『骨と十字架』

 よーく調べたね。お疲れ様。解散。

 …ってなりました。聖職者の登場人物が5人、名前が呼ばれるのはたったの二回ほど、歌も出ないし踊りもない、しずしずと会話が進行するだけなのに、観客の注意をきちんとひきつける脚本だ。

 ティヤール神父(神農直隆)は古生物学者である。彼が進化を語った論文が問題となり、時代は20世紀(たぶん)だというのに彼は査問にかけられ、中国へ宣教師として追いやられる。彼はそこで北京原人を発見する。学問と神の岐路のように思われるその場所で、ティヤールは何を思うのか。

 ――という作品なのだろうか。これ、まだ作品ていえなくない?このプロット、まだ原プロットに過ぎなくない?ここに作家の意見や異なる成分が入って、それは初めて「ドラマ」になるんじゃないの?『骨と十字架』の助詞がかわるだけ?

 袂は「分かつ」もので「分ける」ものではないし、ハンコ、退屈なハンコみたいにきっちり調べられてて優等生。そんなら教科書読んだ方がいいし、冒頭など二重の含み(愛とか憎悪とか嫉妬)もなく淡々と進む。腕利きの役者が何人もいて、何とかしようとするが、そこが浮く。

 伊達暁が凄く成長していて(ひさしぶりだねー)、目を見張った。声が割れたの一か所だけ。でもティヤールにもっと死ぬほど嫉妬した方がいいと思うよ。この人にはそれだけの理由があるじゃん。弟子の佐藤裕基は、全力でティヤールを愛し、近藤芳正は渾身の力で否定する方がいい。『ベン・ハー』を撮ったとき、あまりの退屈さに、監督がメッサラはベン・ハーを愛していた(チャールトン・ヘストンには内緒)っていう裏プロットをこしらえたみたいにね。