東京芸術劇場 シアターイースト DULL-COLORED POP 福島三部作一挙上演 第一部『1961年:夜に昇る太陽』第二部『1986年:メビウスの輪』第三部『2011年:語られたがる言葉たち』 

 「いささかの不安があれば、いくら会社の方針とは言え、肉親を失った私は会社には従わない。何も東電しか勤め先のないわけではないから東電を辞めてもいい」

 常磐線の中で、福島双葉町の大学生、穂積家の長男孝(内田倭史)と知り合った謎の男(佐伯=阿岐之将一)は、蓋を開ければ東電の社員で、孝の祖父に東電の原発の説明をしながら、こんな啖呵を切る。原爆の投下された広島に育ったという彼は、こうまで言っておきながら、決して周りの人を見ない。ぜったい辞めたりしないんだなー。ここ巧かった。佐伯「先生」と孝は、まるで漱石の広田「先生」と三四郎の悪夢版のようだ。広田先生の「滅びるね」という声が幻のように頭の中に響き、佐伯から目が離せない。原爆に遭った広島の人間を尖兵として働かせることの中に、「滅びるね」が詰まっているのだが、この私自身は原発に「反対してこなかった。」と考える。清志郎のアルバムも、持っているのに。反対しなかった、鈍感だった、怠惰だった自分を思う時、こうしたことはなにも原発誘致のことに限らないよねという気がする。

 原発は出来上がり、一人の一生けんめいな男、原発反対派の穂積忠(次男=岸田研二)は原発賛成、現状追認の立場で選挙に出ることを肯う。彼は町長となってしまい、「原発は安全だ」としか言えなくなっていく。

 2011年に原発メルトダウンを起こし、福島県民は散り散りに避難せざるを得ない。それを映像に撮るテレビ局の、今は報道局長の穂積真(三男=井上裕朗)。人々の亀裂、苦しみを、どう位置付けてゆけばよいか、テレビ局の葛藤と、同時に葛藤のなさ(ショッキングな映像を求める)が共に語られる。

 全体に、新劇っぽい、オーソドックスな手法である。ところどころにつかこうへいっぽさ(1部の美弥〈倉橋愛美〉と孝)や、マンガのような演出(リアクションの芝居や犬〈百花亜希〉の登場、清志郎の使い方)があるものの、ストレートな3部など、つよい既視感に襲われる。リアリティある調子で台詞を言っているのは、井上裕朗、東谷英人など数名で、あとはちょっとオーバー。吉岡(古河耕二)いい役だからがんばれ。

 1部の内田倭史に対しては、はっきりたくさんのダメ出しの跡がうかがわれるのに、3部の美弥(都築香弥子)の歌う台詞はスルーされてんの?宮永美月の春名風花、ほかに焦点が行っているとき、あんまり芝居しちゃダメ。

 一瞬も気持ちの逸れない、立派な作品だった。いい一日、厳しい一日を過ごしたと思った。