世田谷パブリックシアター 『終わりのない』

 個にして全、全にして個。オデュッセウスの「都合二十年」に及ぶ長い帰還の旅。一人の少年が、凍りついた一歩をどう踏み出すかの物語。

 この三つがうまく重ねあわされSF的に進行する。と、だれもかれもそう思っている芝居だが、「そこじゃねー。」と小さい声で(或いは大声で)言っておこう。

 川端悠理(山田裕貴)は高校三年生、何をしたいのかこの先どう進みたいのかさっぱりわからないでいる。父(仲村トオル)は著作を持つ有名ダイバー、母(村岡希美)は優れた物理学者である。悠理には心にトラウマがある。

 ――とここまでで私は子どもの本のカニグズバーグ風味(大学町で大きくなる子どもたち、働いているとても知的な父母、貧困が全く視野にない)を感じ取るのだが(この類似は母を「クールな」物理学者にしたため起きたものだろう)、前川知大の作品はクールなカニグズバーグ以上に悠理を突き放し、全くスウィートでないのだった。串ともいえる悠理への寄り添いが完全に欠けてしまっていて、三つの主題がバラバラに離れ、結句隣の席の女の人がストールを首まで引き上げて真剣に眠りに入りかけるという事態となっている。また、個にして全、全にして個であるAIのダン(浜田信也)が翻意するシーンも、前川は故意にスウィートさを消す。わかりにくい。

 多元の宇宙の一つの仮想として、少年やAIを描きたいのだろうが全体に冷たい作劇なのだ。そう、世界は冷たい。

 山田裕貴は感情爆発シーンなど頑張っているが、「世界の冷たさへの反作用」としての激しい痛み、つよい悲しみを感じさせるほどではない(今日は作意が感じられた)。村岡希美の物理学者の母素晴らしい。女の人の造型に新たな鉱脈を発見している。