アップリンク クラウド 『白い暴動』

 「移民を全員拘束して国外へ出す。18世紀末の流刑のように」こんなこと眉一つ動かさずいってのける政治家(イーノック・パウエル)に支持を表明するってどんなんだ。まあ、「自分の知っている場所」が変わってしまうというのは怖いものだ。恐怖。深い所から出た恐怖が偏狭な思想と共鳴する。でも、こういう共鳴ってただ自分をいやしく、陋劣にするだけなんだよね。

 1970年代の終わり、移民の多さに異を唱え、究極的にはナチにつながるスローガンで急速に支持を伸ばしていたナショナル・フロント(NF)という集団がイギリスにあった。(いまもある。)デヴィッド・ボウイ、ロッド・スチュアート、エリック・クラプトンらがイーノック・パウエルへの支持を表明し、それに危機感を持った人々が、「ロック・アゲインスト・レイシズム」(RAR)という運動体を立ち上げる。機関誌を発行し、折からのパンクの流行に乗って、黒人やアジア人、パンクのミュージシャンとともに白人至上主義と対抗し、やがては何とか押し流してゆく。

 パンクがレイシズムと戦ったことをやっと知ったような私は、話についてゆくのが大変。その上全部がさらさらしている。イーノック・パウエルの事知りたい気もするし、おばあさんがサフラジェットでお母さんが公民権運動家のRARの女の人のこともしりたいし、ジョー・ストラマーもっと見たかったし。どうしてロッド・スチュアートやクラプトンに話を聴かないのか。いやそんなことはいいんだ。このドキュメンタリーの中で一番いい所は、何の力もなく、ただ平凡に日を過ごす「私」のなかに、思わぬ力、現状を変える力が潜んでいるという発見だ。声を出すということ、そこに何かを変えうる、変革するマジックがある。残念だけど映画の終りに続けて、自然に「私はね」と声を出せるような仕上がりにはなっていない。

youtube 『オペラ座の怪人 25周年記念公演inロンドン  The Phantom of the Opera at the Royal Albert Hall』

 ええーそうだったのと、最後のインポーズを見てびっくりしている。ファントムの顔は半分見えなくて、見えるほうの半分にも細かい疵がぶつぶつとつけてあり、唇は斜めにめくれているのだ。張った声をよく聴けば分かったかもしれないけど、このファントムにこの人が選ばれたのは、繊細な歌いまわしが素晴らしいせいだよねと思って観た。ぼーっとしてたのか。「The Music Of The Night」という歌のおわりが、歌がぶれているのかと思ったら、伴奏に不穏な音が一音入れてある。障害物を乗り越えて歌い続けなければいけないんだね。でもここは、只者ではないファントムであることを歌手も予感させなくちゃいけないんじゃないの。

 あと、物凄く驚いたのは、16,7回も続けてくるくる回るダンサー(劇中劇の奴隷頭、小さい笞を持っている)が、あのセルゲイ・ポルーニンだったことだ。ポルーニンてドキュメンタリー映画になっているし、図抜けた踊りでとても有名なのに、「異国風です」というのを見せるために惜しげもなく投入されている。ごはん屋さんの品書きが、とつぜん良寛さまだったような感じだよ。この時(2011)英国ロイヤルバレエ団のプリンシパルだったそうだ。

 クリスティーヌ(シエラ・ボーゲス)がラウル(ハドリー・フレイザー)にもらった薔薇を喜ぶ表情が素敵で――薔薇の為だけに存在する瞬間がある――それは観客に二つのことを教える。クリスティーヌは美しいものが好き、そして愛する者だけのために、たった今存在して歌うことができると。

 終幕クリスティーヌのまなざしはファントムにやさしく注がれていて、なんでファントムを選ばないのかと思うほどきれい。ファントムにはこの人こそ薔薇だったんだなと思わせられる瞬間である。4月20日月曜(19日の深夜)の午前三時まで無料で観られます。

アマゾンプライム 『しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス』

 絵筆がブリキ缶にあたる微かな音。曲がった腕で一人の女が絵を描いている。絵の具の色はつやつやと赤く、筆の先にたっぷりと溜まる。女の指の第二関節に、ターコイズグリーンの絵の具がくっついている。これ、夢の色だ。

 『しあわせの絵の具』。うっげー。この題名ひどくないか?たとえば「しあわせの湯飲み」、「しあわせのさじ」、「しあわせの靴下」、なんでもいいけど、「しあわせの――」映画、みない自信ある。スウィートすぎる。けどさ、外出しないで家にこもり、一心に映画を見てるうち、おっ、と思うのである。

 体が思い通りに動かないモード・ダウリー(サリー・ホーキンス)は、どこでも厄介者にされ、寂れた小さい一軒家で家政婦を探すエべレット・ルイス(イーサン・ホーク)と同居するようになる。モードは深い所で絵に頼っている。彼女が息を吐いて絵の具の缶を開けた途端(色はターコイズ・グリーン)、缶の中から(何か出た)と感じる。夢、あこがれ、絶望、悲しみ、そういうもんがぱあぁっと缶から放射する。だからしあわせの絵の具なんだねー、でもさー…。

 孤児院育ちの武骨な変わり者ルイスが登場した後アップになると、(スウィートだなあイーサン・ホーク)と違和感がある。男前。可愛い。「しあわせの絵の具」だよ。しかし手押し車を押す後姿はいかつく、口ぶりは荒い。モードが新聞記事の中に彼の名前があることを告げる時、この男の中の子供(スウィートさ)が中から溢れてくる。まるでお母さんを讃仰するように彼女を見上げている。

 最後に実物のモード・ルイスが白黒映像で映るけど、それはショッキングなくらい苦労してきた女性の顔だった。傷つく人生、つらい人生って、こんな顔つきをしているのだ。

アップリンク クラウド 『シーモアさんと、大人のための人生入門』

 「うそくさい」

 ピアノの前で、聴衆に向かってシーモアバーンスタイン先生の紹介をするイーサン・ホークの声にケチをつけるのであった。

 シーモア老人の声は、どこで何をしていようとピッチが変わらず、拍は緩やかで優しく、誰に対しても同じだ。これさ、実は達人の境地なんじゃないの?ピアノの天才的才能を持つ自分と、お茶を淹れたりベッドをしまったり友人と話したりする自分を苦もなく繋げ、卑下もなく自慢もない。E・M・フォースターの「オンリー・コネクト」(ただ結びつけることが出来さえすれば、新しい世界が展ける)という言葉を地で行くシーモアバーンスタインなのだった。イーサン・ホークはきっとここんとこで困ってたんだろうなあ。彼が現世の成功と芸術的達成の乖離について話すとき、その苦悩の表情はほんもので、映画の中で際立っている。写真が折れて、その折り目が白く、そこだけザラザラになっているような感触なのだ。

 シーモアバーンスタインは優れたピアニストだったが、50歳で引退し、ピアノ教師として生きる。名利を追う生活や、演奏会前の緊張に疲れてしまったのかな。「自分」のレンジを振り切ってしまうような重荷を捨てたのかもしれない。

 ニューヨーク大学のマスタークラスでの指導は素晴らしかった。「繊細」「こまやか」の種痘(?例えが変かな?)を皆に施しているみたいだった。逸って弾いているように聞こえる女子学生が、別人のような音になったのを、シーモアがほめているのに学生がきょとんとしているのが可笑しい。すごくよくなったのがまだ腑に落ちてないのだ。才能の境を越える時ってこんなものかも。「とてもよくなった」、それは、先生、あなたの指導のせいですよ。

 

 

アップリンククラウド…60本の映画が3か月で2980円。

youtube  二兎社 『立ち止まる人々』

 3月28日、29日に池袋芸術劇場シアターイーストで行われるはずだったドラマリーディング公演が、ネットにあげられている。只なの?お金払うのに。芸術ちゃんと「補償」されてほしいよね。

 いろいろおもしろかったんだけど、中では『鷗外の怪談』がすーごくよかったと思う。初演から六年たって、あの頃よりも「権力と個人」が緊張しているということを差し引いても、鷗外林太郎の西原やすあきと、賀古(鶴所)の竪山隼太の切迫した演技はスリリングで、この芝居観たことあるのに、行方の知れない黒い水を追いかけているような気持になった。国家の陰謀を止めようとする林太郎。その林太郎の栄達を支えてきた友人、賀古がそれを抑える。話の先が読めない。落としどころがわからない。いいじゃんか!と画面(精一杯大きく引き伸ばして観ました。)にぎゅーとひっぱられる。竪山隼太は火打石をカチカチ打ち合わせて火花だしているみたいだし、西原やすあきは火花に耐えているじっくりした炭みたいだ。西原はこのほかにも『新・明暗』の皆に嫌われる小林というジャーナリストをやっている。火花のがまんだけじゃなく、繊細な台詞の受け取りに気を付けて。竪山隼太ともすこし勝負しないとさー。記者小林に絡まれる人妻、原田樹里。キャラメルボックスで観た時より段違いに台詞がはっきり聞こえるようになったが、声がひらひら(おもちゃの笛みたいに)翻って聞こえ、内実(内心)を伴っていない。「私だって結婚前の津田(夫=伊島空)をしっています!」という時の「私だって」は、ひらっと体から浮いちゃってます。『ら抜きの殺意』、台詞だけでふうんと説得される。副社長(安藤瞳)の話に出てくるお花の先生の造型がしっかりしていて、強いハートでやり抜かれており、お花の先生見える。対する土井志央梨、リーディングとはいえ、ケータイがよく見えないぜ。

アマゾンプライム 『嘘八百』

 「女の子」。

 こうやってかぎかっこで括ると、なんか閉じ込められてる感じするよね。この映画の主人公小池則夫(中井貴一)にも「女の子」(森川葵=いまり)がいて、誰にも必要とされていない。この普通の女の子が、ばーん!意外な働きをするのだが、みてて全然すっきりしないのさー。それは多分、演出の(監督の?)「女の子」に対する考え方のせいだと思う。いまり=森川葵は記号や将棋の駒であって、雑に扱われている。高を括られてる。父小池もいまりに何の期待もしてないけど、それ以上に監督が「女の子」に意見がない。映画面白くなるわけないじゃないかー。脚本女のひとだろー。そこ汲まないんだったら意味ないよ。森川葵、脚本を読みこめ。(いや、監督が?)もっとうるさい「女の子」にも、静かな「女の子」にも、荒くれた「女の子」にもできた。「ふつう」の「女の子」の線が細い。

 小池則夫は骨董商だが、ニセモノを掴まされて店も妻も娘の信頼もすべて失った過去がある。骨董を通じて事故みたいに知り合った野田佐輔(佐々木蔵之介)とともに、大手骨董店と有名鑑定家に復讐を図る。

 大作ではないのに、よーく考えたキャスティングがされている。ハンサム率が低い。オッケー。

 バディムービーなのに中井と佐々木の絡みで笑わせるシーンが少ない。中井貴一はいまりと寿司を食べて舞い上がっているとこが一番はじけてて面白い、ってどういうこと?

 佐々木蔵之介は巻いてるマフラーの間に入ってる空気まで男前に見える。しかし、「お父さん」感が薄い。その妻友近学芸員塚地武雅、点描程度なのに頑張っていた。しかし、塚地はもう少し没入できるはず。

日生劇場 『ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド ~汚れなき瞳~』

 セブンの前で、何故不良がしゃがんでいたかというと、それは何かのデモンストレーションでもプレゼンテーションでもなく、ただ、そういう風にしか座れなかったからである。体と心は、関係ないみたいだけど、関係してる。

 三浦春馬の演じる「男」(The Man)は、16歳のスワロー(生田絵梨花)の家の納屋に降ってわいたように現れる。彼はスワローの信じるとおり、キリストなのか。「男」には足と手に傷があり、それまでの屈折を身体で表わすため背を屈め手足はいつも曲がっている。これがねー。ちっとも似合わない。サマになってない。頭では理解してるけど、肚落ちしてないね。心の捩れが身体に出るように、「男」の体の癖を鏡の前で検討して。歌も自分の過去を吐き捨てるくだりで大きく演じすぎ。日生そこまででかくないよ。歌の端々に鬼火が灯るようにやってほしい。全体に大げさ。生田の声が「三月の水」「早蕨」って言葉を思い出させるが、冒頭のきょうだい三人で下手から上手に歩く足取りがもー、まずい。演出の白井晃はそこんとこどう考えているのだろうか。それにさ、1959年て、2059年の方が近いよね。何の企みもなくそのままやるんだね…。子猫を引き上げるところもちっともドキドキしない。子供の俳優というものは、大人がきちんと指導すれば、もっと光るのだ。厳しくという意味じゃない。勘所を押さえた演出してほしい。

 前半緩いのに、納屋の中の「男」とスワローの最終景がまばゆい。突然、三浦と生田のファンにとって最高のコンテンツとなる。なら最初からちゃんとやって。みんなに最高になるように。キャンディ(MARIA-E)、裏切られた女になってからは、キャンディがこの芝居を推進してゆく。もっと前に出て、つよく演じていいよ。開幕6分前、スモークが立ちのぼっていく所が素晴らしかった。