有楽町朝日ホール イッセー尾形一人芝居 『妄ソー劇場すぺしゃる 2020』

 お湯の出るカランと、上等の一枚で水気がふき取れるペーパータオルを完備した洗面所のある、ここは有楽町の朝日ホールだ。

 会場中央の両端に華奢なカメラが据えてあり、記録用かと思ったら、暮れにテレビ放送すると最後にイッセー尾形自身が軽い感じで言っていた。

 こないだ練馬で観たのと同じネタが5つ、違うのが2つ、すでに観たネタの方がおもしろいのだった。特に「メガネっ子」「MAP」「女中さん」。「メガネっ子」は練馬と違い、躰に物を言わせない。しかし、彼女が目の不調のわけを知って愕然とすると、コップの中に一人の女の過去と未来が、ちゃぽんと浸かっているような気がするのだ。同級生のイイジマタダシがちょっと好き(だったと思うのだたぶん)だった過去、ちょっと好きだったなあと思う現在(未来か?)、大学進学で上京する親友ナオコに乗馬について説く「時間」には、中年女のような可笑しさが顔を出している。最後は鋭い刃のような一撃で、世界の断面が見える。初見の「処方箋」、面白いんだけど薬局の男がほぼ動かない。架空のマスクをつけたり外したり、目で芝居したりの連続で、朝日ホールの後方席ではきびしいよ。凝り固まった「ジェンダー観」に混乱を与える「ひとみちゃん」のあと、立体紙芝居屋のおじさんが、やたら「舐めんなよー」と言いながらの「雪子ちゃんの冒険 Ⅲ」。でもなー、舐められちゃうよなー、ていうかなめちゃうよこの散らかった感じ。顔の上半分を紙粘土のお面で隠し、控えのお面が多すぎて「えーと、」となってる間が長い。後方席なのでお面と顔が一体化して見えるとこはよかったが、時ならぬ時に後ろを紙人形が通過して、イッセー尾形が「いい、俺がやる」ともう一回紙人形を操っていた。イッセー尾形、「スリリング」を味わっているのか?

世田谷パブリックシアター シス・カンパニー公演 『23階の笑い』

 フリーザーから出したばかりの仔牛のあばら肉で、奥さん(さいしょの)にぶんなぐられそうになった(いや、なぐられた?)ニール・サイモン(そのわけは出世作『裸足で散歩』などで、夫の台詞を読めばわかる)は、こんな芝居も書いていたんだね。

 1953年、マッカーシー上院議員赤狩りと称し共産党共産党ソビエトぽい人、そのように感じられる人を追い落とし始めるころ、ニューヨークの高層ビルの23階の一室では、7人の放送作家が、1本の番組のために、知恵、センス、ウィットを競って台本作りをしていた。彼らの上に君臨するのは90分のバラエティショー「ザ・マックス・プリンスショウ」の主役マックス・プリンス(小手伸也)だ。皆は彼を「大将」と呼ぶ。マックスはカリスマ、傑物、笑いのセンスは一流で、機嫌が悪いと作家たちは縮み上がるが、心の底では皆を愛し、皆に愛されている。

 小手伸也、もっとぶっきらぼうで、王様でいいよ。パンフレットで「主役」とプレッシャーをかけられたといってたけど、小手伸也が王様でないと、「芝居の天井が低くなる」のだ。他の人が窮屈だ。カリスマになれ。例えばミルト(吉原光夫)が奇抜な格好をしていて、野放図に見える男なのに、マックスの前ではおとなしくなる。あの野放図よりもっとスケールでかくないとだめだよ。それが「みんなのため」なのだ。松岡茉優って人が私には今ひとつわからなくて、それは松岡茉優がばーんと自分を押し出すタイプでなく、一歩引いて受けの芝居が輝く性分だからだろうと想像する。でも…ちょっと押して。50年代、いや60年代も、スヌーピーに出てくるチャーリー・ブラウンの妹が、「専業主婦になるのに算数がいる?」と皮肉な調子で言ってた時代に才能で世に出ようとしてるんだよ。ヘレン(青木さやか)との差がよくわからん。

東京芸術劇場 シアターイースト パラドックス定数 第46項 『プライベート・ジョーク』

 パラドックス定数、熱烈なファンがたくさんついている。終演後、脚本を買い求める女性の長蛇の列をみれば、わかります。しかし、何故こんなに人気なのかはわからない、世界には細緻な知識とその披瀝を楽しむ人たちが多いせいなのかな。この『プライベート・ジョーク』は以前観た『骨と十字架』より段違いにいいです。前作がただ「知識の披露」だったとすると、この芝居は演劇的に「なにかしようとしている」。溶けた時計のように時空は歪み、先へ、後ろへと登場人物を揺さぶる。映画作家B(井内勇希)、詩人L(植村宏司)、画家D(小野ゆたか)は、ひとつの学生寮に、同時期に住んでいた。そこへ、学者E(加藤敦)、画家P(西原誠吾)という、同時代の巨人が訪れる。役者の芝居が丸まった花びらのように閉じ気味で、まるで空の星々のよう。そういう意図でつくっているのだろうか、観客には不親切だ。「このやりとりを、見たいものは見よ」といってるみたい。作者の手腕に比して、役者はちょっと落ちる。特に学者Eと画家Pの空間に、詩人Lの詩が入ってくるところ、全く盛り上がらない。ここは芝居のこころだ。体質として「知識」に引き寄せられる、という作家の事は理解できる、自分もそうだからだ、だがその体質を割って出てくる「こころ」が芝居に薄いのは、重大な欠陥(作劇と演出の)と言えるだろう。

 あのー、Pっていうひと、書いちゃうけどピカソ、西原誠吾の前髪が左耳の前でかすかにギザギザになっていて、「ああっ、ピカソやん!」とちょっと笑い、かわいく思った。そういう冗談の心はあるのに、若者たちの一場が全然バカっぽくかわいく見えてこない。たぶん、役者がもう十分分別のつく年頃であるせいかもしれない。役者、がんばれ。前髪誉められてる場合じゃないよ。

Bunkamuraザ・ミュージアム 『ベルナール・ビュフェ展 私が生きた時代』

 「あー、はいはい」ビュフェのポスター、ビュフェの絵葉書、ビュフェのリトグラフを見るたび、足ばやに通り過ぎてきた。「絵が黒い→ビュフェとわかる→無視する」の連鎖反応。まあビュフェの黒も、一筋縄ではいかんということが、このたびのビュフェ展でわかりました。はじめてビュフェの前で立ち止まった2020年初冬。

 ベルナール・ビュフェは1928年7月10日パリ生まれである。父は会社(鏡を作る)の社長であったが、生涯ビュフェとは冷たい関係だった。ビュフェは母を愛したが、その母も彼が画家として認められ始めたころに早く死ぬ。孤独と死がビュフェにつきまとう。ビュフェの絵はまず、そのシックな「灰色と栗色」で注目される。『肘をつく男(1947年)』をみると、落ち着いた具象の中に彼自身が強く投影されている。全てが不均衡。画面向かって左に座る若い男の体はそっと傾き、組んだ左ひざは深く曲げられ、男の右にある机の引き出しは片方開いている。机の上のランプのほそながいほやはかすかに曲がる。不均衡の中から画家は誕生し、その歪んだ世界を矯めていた力が、いつの間にか『肉屋の男(1949)』という、吊り下げられた牛と青年という作品を生み出す。(牛の内側はグレートーンに塗りこめられ、一見おとなしいビュフェの絵の中に――牛の隣に立つ青年の中に――荒々しい赤が隠れていることをあらわにする。)今回の展示の中で、はっきりあの有名な黒い描線が見て取れるのは、『籠のある静物(1951)』のカフェオレボウルの無機質な形だ。この黒ってさ、いつもビュフェの後ろにある不均衡ゆえの「闇の眼」じゃないかなー。「闇の眼」はいつもビュフェとともにある。世界の輪郭を象る。妻アナベルが現れると、黒は迸るように噴き出して解放され、アナベルのドレスとなり(『夜会服のアナベル(1959)』)、ピエロに化した自画像(『ピエロの顔(1961)』の自己紹介的シルクハットとなる。だんだん危険でなくなる黒、黒はビュフェの影であり、水先案内人であり、仲間であったはず。しかし、後半になると仲たがいしちゃうんだよね。一時ビュフェは、黒と別れて、具象の普通の絵を描く。死の11年前、ドン・キホーテが黒い描線の鳥に襲われているのを見ると(『ドン・キホーテ 鳥と洞穴(1988)』)、なかなか画家も大変だなと思うのでした。

シアタートラム 『現代能楽集Ⅹ 幸福論』

 鈍色の空、鈍色の荒れる海。この海佐渡かな。息子元雅(『隅田川』を作ったことで知られる)を喪い、流刑になった世阿弥の心に映る海だろう。これは家族が解体する物語、そして生成する物語だ。

 清水くるみ、頑張りました。地下アイドルとして13人のファンのために配信する奥野あんずが生きている。面白いようなつまらないような様子でケータイを覗き込み、恋人の橘清史郎(相葉裕樹)になま返事するところとか「活写」って感じだ。これに対して医学部4年の鼻持ちならない、そしてかわいそうな清史郎は、角度によって絵が動く(レンチキュラー)シールの様にしか表情が変わらない。鏡を見る。自分の顔の可能性を試さないとだめだよ。しかし百面相はしちゃいかん。

 前半の『道成寺』は「世間的に成功した家族」が、不気味に見えるほど思い切り戯画化され、笑わされる。台本面白いけど、あんずと白拍子がちょっと重なりにくい。心理的な裏付けが足りない。滑走路が短い。小説講座の先生安藤千佳(瀬奈じゅん)と会社を辞めて作家を目指す自信満々の父橘清(高橋和也)のシーンも嘘くさくなく笑える。しっかりやり取りできているからだろう。これに対して後半(『隅田川』)には、たぶん清水くるみに「いまいち腑に落ちてないとこ」がある。谷田彩佳の母は「いない」んだよ。欠落してる。だから向坂悦子(鷲尾真知子)との最後のシーン大切にして。もっとカタルシスが欲しい。そして、芝居の幅も。これ、長田育恵の作品の中でも、いいものだと思う。「優等生ぽさ」は薄く、「母」についての葛藤も、深められていて「えー?」ってとこはない。高橋和也二度ほど噛んでいたが、芝居が確実で信頼できる。噛まないように。幸福な、人に羨まれる家庭が崩壊し、解体してばらばらな女たちが一瞬の家族を形成する。火と水が効果的に使われていた。

アップリンク渋谷 『HITSVILLE:THE MAKING OF MOTOWN メイキング・オブ・モータウン』

 デトロイトの自動車組み立て工場の生産ラインで働いていたベリー・ゴーディが、音楽レーベルを立ち上げる。自動車の完成までと同じような工程(アーティストの発掘、育成、品質管理など)を経て、爆発的な勢いでヒット曲やスターが生まれる。ゴーディの抜け目なく鋭い頭脳、なによりよい曲を見極める力が、デトロイトの小さな二階家を、全米に知れ渡る場所「モータウン」に変えてゆく。

 目からうろこがとれたように、何もかもがまぶしく、新鮮。中でも、マーヴィン・ゲイが上品なハンサムで、普段から惹きこまれるような声をしているのに衝撃を受ける。美男におわす夏木立かなとか思い出した。それから、スプリームスのPV(?)で、三人がぴょんぴょん跳ねて、歌いながら車道を渡るとき、それを舗道に押し込む白人巡査の手の冷たさ。

 モータウンの最初期からのアーティストでもあるスモーキー・ロビンソンは現在80歳、ゴーディは91歳だが、この(最近の)インタビューにはきはき応え、記憶には曇りもなく、なんかこう、モータウンの歴史が「立志篇」「風雲篇」ていう感じの、面白くて読みやめられないビルドゥングスロマンのようなのだ。そして全巻を貫くスモーキーとゴーディとの信頼関係が、頁の活字を金色に輝かせている。完成品となったアーティストをさらにブラッシュアップするために、行儀作法や自分自身への信頼を植えつけ、成長を促すところがへぇーと思った。この作品に引っかかるところがあるとすれば、「人間を自動車のように扱う眼」が、アーティストの芸術性の前に敗北していくいきさつがいまいち鮮やかでない点だ。そしてあの「社歌」。何だかモータウンぽくない、古い曲調の歌であるという、「おもての歌」との落差について、もっと分析するべきだった。だってあの社歌、誰も思い出せず、愛されてないじゃない?

ヒューマントラストシネマ渋谷 『ストックホルム・ケース』

 「どうしてそうなったかわからないが、そうなっている。」っていう、説明の難しい、勢いのついた事態が、世の中にはままあるものだが、この映画もそんな感じだ。頭の中で最初から、何度も映画を転がしてみるけど、「そうなったわけ」がわからない。ストックホルムの素敵な内海の上の、暢気で隙だらけの男(イーサン・ホーク)が陸に上がり、気負うことなく銀行へ入って行った途端、そして銃を天井に向けて発射した途端、「どうしてそうなったのか」わからないまま、「そうなっている」ことを忙しく追いかける。

 この映画のいいところは、イーサン・ホークのスウィートさに焦点を当てるのではなく、持って生まれたスウィートが洩れ出るに任せているところだ。「ここはひとつ、スウィートに」って言ったら、王道ハリウッド映画みたいになっちゃうし、つまんない。「どうしてもスウィートになっちゃうイーサン・ホーク」は、宿命。『ブルーに生まれついて』も、『魂のゆくえ』も、スウィートだから可哀そうだったもん。隙だらけのスウィートな男が、銀行強盗をしようとするのには落差があるが、そこはなだらかにつなげられている。つまり、お笑いと狂気が共存しているのだ。笑えるシーンがたくさんある。なんといっても、この主人公はウェスタン・ブーツをはいている。奇妙だし、狂気だ。どのシーンも、「あの靴はいてんのか…」とちょっと笑える。たぶん、狂気と日常があまりに自然に演じられすぎて、つなぎ目がわからないのだろう。それじゃあもっと、差があったほうが翻弄されてよかったかもしれない。銀行員のビアンカノオミ・ラパス)が、しっかりしてない強盗に肩入れしたみたいに見える。結局なぜ心理的に肩入れするかの外的要因は、署長(クリストファー・ハイアーダール)がひどい態度だからとしか見えないのだ。熱いお湯と冷たい水の混ざったような映画だった。