シアターコクーン シス・カンパニー公演 『ほんとうのハウンド警部』

 鏡の中では、もうすでに現実は歪んでいる。

 「間仕切り」の鏡が取られると、舞台の向こうにもう一つ客席があって、そこに演劇評論家のムーン(生田斗真)とバードブート(吉原光夫)がいる。そしていつからか、舞台の上の舞台にはちっとも動かない倒れた男(手塚祐介)があるが、これについて口にする者はいない。キャスト表では「死人」になっていて、足の膝から下がほんとうに力が抜け、「死人」に見える。出色の死人っぷりだ。

 舞台の上/観客席というきっぱりした仕切りが、巧妙に外される。観客席の一観客であるムーンの心を占領しているたった一つの思い――批評家として二番手である自分と、自分の上に君臨する批評家のヒッグズについての屈託――が舞台上で暴れ回るって話かな。バードブートが若い女優(趣里)にちょっかいを出すことで、芝居の中で彼女が演じるフェリシティとバードブートたちの現実も境目を失う。役と本人が混ざる。

 いろんな間仕切りがなくなってわかるのは、作者が評論家に対して好感などまったくもっていないこと、拘りの邪念のためにムーンが罰せられ、境界のなくなった「演劇」の胃袋の中で溶かされてしまうことだ。

 演劇批評家たち、彼らには「実際に第一人者が死体となって横たわるほどの」妄念がある。「精神異常」に見えるほどの。しかし作者は殺人者という役柄すらムーンに与えない。ムーンを「まぬけ」の位置に置く。可哀そうなムーン、まるであのハムレットの「ご学友」のようである。だからさ、ムーンは最初もっとかっこよく、すかしてて、妄念の中で「殺人を犯している」くらい恨みが深くないと。深くないよね。そのせいで成立しないよこの芝居。

配信 『桑田佳祐 静かな春の戯れ Live in Blue Note Tokyo』

 1曲目2曲目3曲目、椅子に腰かけギターを抱えた桑田佳祐はとても厳しい顔をして、こわい目つきで歌うのだ。ブルーノート東京、並んだテーブルに、キャンドルが無数に灯るのに、無人です。『桑田佳祐 静かな春の戯れ Live in Blue Note Tokyo』。これからこの会場の空気を観客なしで一人であたため、ノリをつくりだすのかー。たいへん。でもティン・パン・アレーの『ソバカスのある少女』とか、そんな顔で歌われちゃったらねー。

 居間の散らかったサイドテーブルの上に、うちもキャンドル出してみたけど、こわい顔の桑田の歌が、うすい。うすすぎる。目を離してついつい皿を台所へ運んだりする。イメージ喚起力がないんだもん。あっさり。

 この散漫な鑑賞が一変するのは6曲目の『愛のささくれ~Nobody loves me』から。「ちょいとそこ行く姐ちゃんがヤバい」、驚きの濃さ。濃淡つけてんの?この感じ、白塗りで空中から闇を取り出すような、今は亡き大野一雄の美しいダンスを思い出す。アングラだ。きれいに整備されていく街の奥底にある、湿ったセックスや、重い失恋や絶望が次々に現れる。鈍いナイフで「夜」の皮膚を裂くみたい、『簪/かんざし』『SO WHAT?』『グッバイ・ワルツ』と、「夜」の中身がどろりと流れ出してくる。中でも『SO WHAT?』は素晴らしくて、「一夜の情事」「基地」「ドアーズ」が混沌の中に重ねられ、歌の短い時間にヒコーキの轟音、ベッドの軋み、ジム・モリソンの『The End』が詰まっている。

 『グッバイ・ワルツ』の情感の濃い歌詞を読んでいると(歌詞が画面左下に邪魔にならないように出る)、とつぜん小津安二郎のことを考え、小津が自分の映画から、丁寧に注意深く取り除いた激しい情緒ってこんな感じだなと、「消えゆく街並みを憂うなよ」を、小津じゃん!と勝手に感動する。過ぎ去った時代への愛惜と、過ぎてゆく時代を眺める年配の男の絶望と深い諦めがある。

 浅川マキの『かもめ』と長谷川きよし加藤登紀子の『灰色の瞳』をいい感じにカヴァーしていたが、最後の最後で、桑田佳祐はこっそり失敗していた。しっかりしろー。

 正直、桑田が現在こんなことになってるとは知らなかった。ちょっとディランみたいで、「失われた歌謡曲」のひりひりする現在形みたいで、絶望と諦念の苦さがほんものだ。

 後半ずっと胸がどきどきしていた。スタッフとバンドに助けられ、椅子に座ったままの桑田の眉もだんだんほどけて行った。でもどうして椅子を立たないのだろう。小津より5歳も年上だからだろか。

Pカンパニー シリーズ罪と罰 CASE9  『花樟の女』

 悪評が大きすぎて、本人の実像がわかりにくくなっている作家、真杉静枝を、女だからと軽んじられ、外地うまれと蔑まれる一人の奮闘する人間としてえがく。でもまず、兄が戦死した中村地平(千賀功嗣)の台詞さー。「両親が落ち込んじゃってるんだ。」

 ここ、思わず書いたんだと思うけど、「落胆」「気落ち」じゃないと変。「落ちこむ」は現代語だよ。と、いう所から考えると、「台湾生まれと差別される」のがどの位ほんとなのかなあと疑念を持ってしまう。それと、

 静枝:私はただ、台湾で女たちがどんな目に遭っているか、書きたかっただけよ。

 とっても教条的なにおいがする。こなれてない。台詞にしないで読み取らせてほしい。

 台湾時代の真杉静枝(松本紀保)は、女であるために起こるたくさんの理不尽に、深い怒りを抱いている。この怒りが、松本紀保の中では、いまいち大きくないし深くもない。どうした。骨身に食い入るような怒りがあるから、東京までジャンプできるんじゃないの?地平に言う「だからあなたは駄目なのよ」っていうのも、怒りがふつふつ煮立ってないとね。これ、キメ台詞でしょ。キメ台詞と言えば、一番重要な台詞が台湾の言葉で、もう一つ深く耳に入ってこない。そして、台湾に帰りたいなあってしみじみ言うのが、ちょっとよくわからない。上半身と下半身がねじれているような終わり方だ。

「ここではない場所」がテーマなの?静枝はあんなに故郷を出たがっていたのにね。宇野千代(米倉紀之子)出てくるから、違いを明確にして欲しかった。「長生き」「文才(宇野千代は同時代で抜きんでていたと思う)」の差?道子(立直花子)、冒頭身体に怒りがない。水野ゆふ、福井裕子好演、千賀功嗣気が散ってた、林次樹限りなくぎりぎりセーフ。

本多劇場 伊東四朗生誕?!80+3周年記念『みんながらくた』

 コメディで呼吸(いき)を合わせるっていうのは、むずかしいもんだなと、それぞれの俳優の息の仕方を観察するのであった。

 まず、出色だったのは堺小春だ。誰にも合わせず、自分の間合いで堂々と息をしている。一個人である。その結果、マッチングアプリでサクラをやっている女の子が、生き生きと自分の立場を主張し、自分中心の伸び縮みする時間を生きる。164センチだそうだが、ずっと大きく見えた。ところが呼吸を合わせて笑いを組み立てるチームプレイになると、てんでまだだめです。「おじいちゃんがもらいなよ!」というシーンなど、演出家はいったい何をしてたんだい、と思うほど間合いが外れている。この芝居には伊東四朗とかラサール石井とか出てるんだから、よく観察して。教えてもらおうとしても無駄だよ、「できる人」ってなぜできないかわからないことが多いもの。逆に伊東孝明は、きちんと古道具屋のおじさんを演じるけれど、合わせすぎていて、自分の呼吸が足らない。もっと勝手に息をするようにしてほしい。電線マンのこたつの上に飛び乗った原点(と勇気)を思い出せ。

 私が笑ったのはぴくりともうごかないがらくたや主人の伊東四朗と、熱いお茶を平気で飲む千代田麻子(竹内都子)である。リサイクルショップを巡るお話は傘を開いた新米軽業師がおっとと、とよろけながら綱渡りするように、見ているこっちをひやりとさせながら辛くも向こう側へ渡りきる。筋が弱いし、何故仏像を3万ぽっちで売るのかちっともわからない。伊東四朗、一か所台詞飛ばしたね。看板なのだからもっとぴりっとしてほしい。この芝居、皆が皆心に小さく闇を抱えている設定なので、ばくち打ちの父親(ラサール石井)はじめ、暗さのよぎる演じ方じゃないとね。

よみうり大手町ホール 『ぼくの名前はズッキーニ』

 芝居の!ノリが!わかりにくい!

 踏み出した右足に力が入らず、すぐに左足に踏みかえるみたいな、えーと、オフビートの微妙なノリなのに、それが観客に伝わるまでの時間が長すぎる。「じわじわ」すぎる。

 ズッキーニ(辰巳雄大)は6才、事故に遭ったお母さんはビールばかり飲むようになり、ある日もっと不幸な出来事で死んでしまう。一人ぼっちのズッキーニは、「みんなのいえ」に連れて行かれ、いろんなことを体験する。

 辰巳雄大は後ろ姿で登場し、ゆっくり下手の方へ視線を移すのだが、その背中が、大人じゃない。少なくとも小3、9才にみえる。まだ骨がほそくやわらかい、戸惑いがちのこどもの背中、無心の、または何か思ってる背中。6才は無理だったなあと思いながら眺めるが、芝居の途中でぼくたちこどもは大人に頼らなければ生きていけないというズッキーニの鋭い台詞を聴き、終盤のカミーユ川島海荷)の述懐を聴き、観客の目の前のズッキーニは体の中に過去と未来、6才と大人を同居させているのだなと考え直す。辰巳雄大、超むずかしい役じゃん。ママ!と叫びながら走り回るときがまずい。(戸惑い)(疑問)(恐怖)のような感じで、一つ一つの「ママ」に意味を持たせないとうるさいだけだよ。丁寧に。シモン(稲葉友)がズッキーニの頬を拭くときちゃんと涙が見える。「愛されない貰われない」絶望は心の蓋をもっと開けてやってほしい。川島海荷台詞とちらないように。ベアトリス(三村朱里)全力疾走で。伊勢佳世のロージー先生と宍戸美和公パピノー園長が物語のやさしくあたたかな(しかも陳腐でない)背骨となっている。二人で互いを置き去りにしないチームプレーができてるよね。三方「黒板」で出来たセットがとてもよかった。

シアタートラム 木ノ下歌舞伎 『義経千本桜――渡海屋・大物浦――』

 歌舞伎役者じゃない人が、「歌舞伎をなぞり、演じている」って、結局、どういうことなのかなー。と考える。歌舞伎の無二の型を、絶対的光明として近づく?正解を求める?そうじゃなかろ。「たったひとつ」を囲む無数のぶれ、幾百幾千の軌跡を追いかけるってことではないだろか。

 この芝居でいうと、すべては「無念を表現する」ところへ通じている。この無念がなー。ちょっとライト。まず保元平治の乱の親子おじ・甥の殺し合いを急ぎ足で説明し、平清盛(三島景太)は真っ赤な「盛者不衰」という着物を羽織っているけれど、そしてその着物を希望の星安徳帝(立蔵葉子)は重ね着させられるけれど、もひとつ、念が残らない。ぞっとする感じが薄い。知盛(佐藤誠)が薙刀を差し上げ鳥居の形を作るまでもないじゃんと思う。浄化するほどの念がないよ。知盛自身の残念も、日本の古層の「念」に届いてない。声嗄らさないで。もう一人典侍局(大川潤子)は「戸障子をあけ」てから好演するが、なんていうか、早々と「あきらめちゃってる」。諦めたらだめさ。残念じゃないとー。

 その無念、悔しさが時代を越えて引き継がれ、無言のまま「私たち」を取り囲む、終盤の演出は水際立って鮮やかである。魚尽くしもたいへんよかった(夏目慎也、武谷公雄)。

 勝者であるはずの義経(大石将弘)が、敗者でもあり、とても矛盾した多義的な存在であることが、あまり触れられずじまいだったかなあ。とにかく、前半。無害そうに架けられた弛んだ日章旗から、源平の権力者が背負う日の丸へ、そして疲れ歯噛みする知盛の袖にぼんやり浮かぶ旭日旗まで、飛躍する力、「ため」が欲しい。古い着物って怖いから、キモノ古くてもよかったかも。

PARCO PRODUCE 2021 『藪原検校』

 打ち棄てられた工場、或いは廃屋に工事の赤色灯があって、黄色と黒の安全綱が上手から下手にいく筋か張られる。上と下、内と外、と思いつつ、マスクの下で(うーん)と唸る。まず市川猿之助が、パンフレットで杉原邦生を「君付け」でよんでるところで「ん?」となり、杉の市(猿之助)が楽々と惜しみなく歌舞伎の引き出しからいろんな技を繰り出しているのを見て、安全綱が足に絡んでばったり倒れる。歌舞伎の間合いというのは素晴らしい。この芝居にもよく嵌ってる。でもさ、一か所猿之助の間合いが外れてて、それは大詰めの母の名を呼ぶとこである。その前の、孤独、けっして「内」に入れてもらえない「外」の者の慟哭がうすいんだよー。技術が高いと事がすらすら運ぶ。歌舞伎座に歌舞伎を観にきてもらう導入にはいいと思うけど、杉原演出で猿之助主演の「この」芝居を「今日、たったいま」観るのなら、「今」感じた「今」の「てがかり」「引っ掛かり」がほしいです。

 人間の二面性を表わして、極悪の杉の市と大学者の盲人塙保己一三宅健)が互いを喰いあう蛇のように現れる。三宅健、声、口の中の前庭(?)しか使ってないよね。喉奥のどこかで止めてて、全身に響いていない。挙措、身体の重心(静まっている!)、品性はいうことないのに、声を聴くと首ががっくりうなだれる。芝居が進むにつれ喉が開いてきたので最初からがんばれ。この芝居、マイクの音量が大きすぎ、出だしの盲太夫川平慈英)の息遣いがかっこよく聴こえない。あそこでまずちょっとがっかりした。

 幕切れは「外」に観客を置いていく。集中を切らさず孤独な男の一生を追うことができた。杉の市とお市松雪泰子)の濡れ場、もっとコンパクトに、笑えるようにできないの?『かねはふね』とてもいい歌詞だった。みのすけ、もっとうまく歌えるだろ。