劇団俳優座 No.345 『雪の中の三人』

 逸脱、決められた枠から外れること、それが許されるのは、トブラー(森一)が億万長者だからだ。トブラーは貧乏人を装い、下男のヨハン(加藤頼)はトブラーに命じられて裕福な事業家を演じる。一方フリッツ・ハーゲドルン(田中孝宗)が家業の肉屋にもならず失業し続けているのは、逸脱できないからじゃないかなあ。金のない者は逸脱できない、特にあんな母を持っていれば、だってあのお母さん(青山眉子)の背負うソーセージの屋台の悲しさをご覧よ。この可笑しい話のなかで、屋台のサラミがゆらゆらする度、客席で粛然とするのだった。人は見かけによらないけど、大概の事は金で解決でき、雪だるまのように儚く友情は溶ける。逸脱できない貧しい青年が幸せになるためには、世界の箍が外れたような、恐ろしく大きな逸脱が必要なのだ。ケストナーの夢だよね、これ。

 タッチは軽く、面白く進めようと小山ゆうなは努めるが、円形の二重を叩くボーイ(山田定世)とフリッツの手に軽さとノリがない。みんな「やらされ」てちゃだめ。自分の社長になれ。その点マレブレ夫人の瑞木和加子とカスパリウス夫人の安藤みどりは社長。観客からレスポンスを貰わなければならないシーンとか、孤独だと思うけど、よく頑張った。もっと素でいいよ。観客が「尋ねられてる」ってわかるように。衣装も優雅でよく似合ってる。森一はトブラーよりずっと頭が切れて大人なのがばれちゃってる。もともとの柄が違うのだ。加藤頼どこと言って過不足のない芝居だしお酒飲むところもちゃんと飲めてる。でも社長が足らん。フリッツは猫嫌いでしょ。ていうか猫を知らない。猫の部分もっと緻密に組み立てないとつまらない。

 雪だるまが消えていくという皮肉な感じがいまひとつ演出から伝わらなかった。ここが弱点です。

こまつ座 第135回公演 『日本人のへそ』

 父親たちが、冬は都会へ出稼ぎに行き、夏はその失業手当をもらいながら本業の農作業に精を出すところ、日本のチベット、貧しい東北の寒村から一人の娘(小池栄子)が、東京へと集団就職で出て行った。美しさが仇をなし、娘は次第に場末の町に移り、職業も人の蔑むものに変わっていく。浅草のストリッパーヘレン天津となった娘は、やくざ、右翼、政治家の思い者に上納されてゆき、身の上が一変する。その物語が吃音症治療の一環として芝居に仕立てられ(言葉に出され)、演じられる。

 この芝居、『日本人のへそ』っていう題名なのに、作劇としては注意深くフラットに作られている。軽重や高低がない。井上芳雄小池栄子もスターの扱いを受けず、「一座の人」って感じだ。東北の貧しい生まれであることもゲイであることもレズビアンであることも、スティグマミソジニーホモソーシャルも吃音であることも、「言葉」を使わなければそんなに明らかになる事柄ではない。ストリッパーが権力の中枢に入り込む構図は「へそ」かもしれないけど、禁忌――暗黙の了解――もまた「へそ」だよね。言葉は軽重高低上下をつくる。見ただけではわからないことを教える。愛を告白し、心の中をみせる。沈黙したまま消えて行く筈だった女の一生を語る。

 芝居がまずい人は一人もいず、皆集中して全力。(朝海ひかるが一回とちりましたが、)力を抜かないのでどのシーンも面白い。しかし、力を抜かないのでフラットさが退屈。やっぱこれ芝居かなり古いなあと思っちゃう。ゲイ、レズビアンスティグマ、どれも扱いが繊細じゃないもん。

 小池栄子踊り「見せて」ない。朝海ひかるに目が行く。「見せて」るから。服を着てる時も「身体」を意識する。「身体」にさざなみ立つ感情が現れてない。からだが芝居してないのさー。

シアターコクーン シス・カンパニー公演 『ほんとうのハウンド警部』

 鏡の中では、もうすでに現実は歪んでいる。

 「間仕切り」の鏡が取られると、舞台の向こうにもう一つ客席があって、そこに演劇評論家のムーン(生田斗真)とバードブート(吉原光夫)がいる。そしていつからか、舞台の上の舞台にはちっとも動かない倒れた男(手塚祐介)があるが、これについて口にする者はいない。キャスト表では「死人」になっていて、足の膝から下がほんとうに力が抜け、「死人」に見える。出色の死人っぷりだ。

 舞台の上/観客席というきっぱりした仕切りが、巧妙に外される。観客席の一観客であるムーンの心を占領しているたった一つの思い――批評家として二番手である自分と、自分の上に君臨する批評家のヒッグズについての屈託――が舞台上で暴れ回るって話かな。バードブートが若い女優(趣里)にちょっかいを出すことで、芝居の中で彼女が演じるフェリシティとバードブートたちの現実も境目を失う。役と本人が混ざる。

 いろんな間仕切りがなくなってわかるのは、作者が評論家に対して好感などまったくもっていないこと、拘りの邪念のためにムーンが罰せられ、境界のなくなった「演劇」の胃袋の中で溶かされてしまうことだ。

 演劇批評家たち、彼らには「実際に第一人者が死体となって横たわるほどの」妄念がある。「精神異常」に見えるほどの。しかし作者は殺人者という役柄すらムーンに与えない。ムーンを「まぬけ」の位置に置く。可哀そうなムーン、まるであのハムレットの「ご学友」のようである。だからさ、ムーンは最初もっとかっこよく、すかしてて、妄念の中で「殺人を犯している」くらい恨みが深くないと。深くないよね。そのせいで成立しないよこの芝居。

配信 『桑田佳祐 静かな春の戯れ Live in Blue Note Tokyo』

 1曲目2曲目3曲目、椅子に腰かけギターを抱えた桑田佳祐はとても厳しい顔をして、こわい目つきで歌うのだ。ブルーノート東京、並んだテーブルに、キャンドルが無数に灯るのに、無人です。『桑田佳祐 静かな春の戯れ Live in Blue Note Tokyo』。これからこの会場の空気を観客なしで一人であたため、ノリをつくりだすのかー。たいへん。でもティン・パン・アレーの『ソバカスのある少女』とか、そんな顔で歌われちゃったらねー。

 居間の散らかったサイドテーブルの上に、うちもキャンドル出してみたけど、こわい顔の桑田の歌が、うすい。うすすぎる。目を離してついつい皿を台所へ運んだりする。イメージ喚起力がないんだもん。あっさり。

 この散漫な鑑賞が一変するのは6曲目の『愛のささくれ~Nobody loves me』から。「ちょいとそこ行く姐ちゃんがヤバい」、驚きの濃さ。濃淡つけてんの?この感じ、白塗りで空中から闇を取り出すような、今は亡き大野一雄の美しいダンスを思い出す。アングラだ。きれいに整備されていく街の奥底にある、湿ったセックスや、重い失恋や絶望が次々に現れる。鈍いナイフで「夜」の皮膚を裂くみたい、『簪/かんざし』『SO WHAT?』『グッバイ・ワルツ』と、「夜」の中身がどろりと流れ出してくる。中でも『SO WHAT?』は素晴らしくて、「一夜の情事」「基地」「ドアーズ」が混沌の中に重ねられ、歌の短い時間にヒコーキの轟音、ベッドの軋み、ジム・モリソンの『The End』が詰まっている。

 『グッバイ・ワルツ』の情感の濃い歌詞を読んでいると(歌詞が画面左下に邪魔にならないように出る)、とつぜん小津安二郎のことを考え、小津が自分の映画から、丁寧に注意深く取り除いた激しい情緒ってこんな感じだなと、「消えゆく街並みを憂うなよ」を、小津じゃん!と勝手に感動する。過ぎ去った時代への愛惜と、過ぎてゆく時代を眺める年配の男の絶望と深い諦めがある。

 浅川マキの『かもめ』と長谷川きよし加藤登紀子の『灰色の瞳』をいい感じにカヴァーしていたが、最後の最後で、桑田佳祐はこっそり失敗していた。しっかりしろー。

 正直、桑田が現在こんなことになってるとは知らなかった。ちょっとディランみたいで、「失われた歌謡曲」のひりひりする現在形みたいで、絶望と諦念の苦さがほんものだ。

 後半ずっと胸がどきどきしていた。スタッフとバンドに助けられ、椅子に座ったままの桑田の眉もだんだんほどけて行った。でもどうして椅子を立たないのだろう。小津より5歳も年上だからだろか。

Pカンパニー シリーズ罪と罰 CASE9  『花樟の女』

 悪評が大きすぎて、本人の実像がわかりにくくなっている作家、真杉静枝を、女だからと軽んじられ、外地うまれと蔑まれる一人の奮闘する人間としてえがく。でもまず、兄が戦死した中村地平(千賀功嗣)の台詞さー。「両親が落ち込んじゃってるんだ。」

 ここ、思わず書いたんだと思うけど、「落胆」「気落ち」じゃないと変。「落ちこむ」は現代語だよ。と、いう所から考えると、「台湾生まれと差別される」のがどの位ほんとなのかなあと疑念を持ってしまう。それと、

 静枝:私はただ、台湾で女たちがどんな目に遭っているか、書きたかっただけよ。

 とっても教条的なにおいがする。こなれてない。台詞にしないで読み取らせてほしい。

 台湾時代の真杉静枝(松本紀保)は、女であるために起こるたくさんの理不尽に、深い怒りを抱いている。この怒りが、松本紀保の中では、いまいち大きくないし深くもない。どうした。骨身に食い入るような怒りがあるから、東京までジャンプできるんじゃないの?地平に言う「だからあなたは駄目なのよ」っていうのも、怒りがふつふつ煮立ってないとね。これ、キメ台詞でしょ。キメ台詞と言えば、一番重要な台詞が台湾の言葉で、もう一つ深く耳に入ってこない。そして、台湾に帰りたいなあってしみじみ言うのが、ちょっとよくわからない。上半身と下半身がねじれているような終わり方だ。

「ここではない場所」がテーマなの?静枝はあんなに故郷を出たがっていたのにね。宇野千代(米倉紀之子)出てくるから、違いを明確にして欲しかった。「長生き」「文才(宇野千代は同時代で抜きんでていたと思う)」の差?道子(立直花子)、冒頭身体に怒りがない。水野ゆふ、福井裕子好演、千賀功嗣気が散ってた、林次樹限りなくぎりぎりセーフ。

本多劇場 伊東四朗生誕?!80+3周年記念『みんながらくた』

 コメディで呼吸(いき)を合わせるっていうのは、むずかしいもんだなと、それぞれの俳優の息の仕方を観察するのであった。

 まず、出色だったのは堺小春だ。誰にも合わせず、自分の間合いで堂々と息をしている。一個人である。その結果、マッチングアプリでサクラをやっている女の子が、生き生きと自分の立場を主張し、自分中心の伸び縮みする時間を生きる。164センチだそうだが、ずっと大きく見えた。ところが呼吸を合わせて笑いを組み立てるチームプレイになると、てんでまだだめです。「おじいちゃんがもらいなよ!」というシーンなど、演出家はいったい何をしてたんだい、と思うほど間合いが外れている。この芝居には伊東四朗とかラサール石井とか出てるんだから、よく観察して。教えてもらおうとしても無駄だよ、「できる人」ってなぜできないかわからないことが多いもの。逆に伊東孝明は、きちんと古道具屋のおじさんを演じるけれど、合わせすぎていて、自分の呼吸が足らない。もっと勝手に息をするようにしてほしい。電線マンのこたつの上に飛び乗った原点(と勇気)を思い出せ。

 私が笑ったのはぴくりともうごかないがらくたや主人の伊東四朗と、熱いお茶を平気で飲む千代田麻子(竹内都子)である。リサイクルショップを巡るお話は傘を開いた新米軽業師がおっとと、とよろけながら綱渡りするように、見ているこっちをひやりとさせながら辛くも向こう側へ渡りきる。筋が弱いし、何故仏像を3万ぽっちで売るのかちっともわからない。伊東四朗、一か所台詞飛ばしたね。看板なのだからもっとぴりっとしてほしい。この芝居、皆が皆心に小さく闇を抱えている設定なので、ばくち打ちの父親(ラサール石井)はじめ、暗さのよぎる演じ方じゃないとね。

よみうり大手町ホール 『ぼくの名前はズッキーニ』

 芝居の!ノリが!わかりにくい!

 踏み出した右足に力が入らず、すぐに左足に踏みかえるみたいな、えーと、オフビートの微妙なノリなのに、それが観客に伝わるまでの時間が長すぎる。「じわじわ」すぎる。

 ズッキーニ(辰巳雄大)は6才、事故に遭ったお母さんはビールばかり飲むようになり、ある日もっと不幸な出来事で死んでしまう。一人ぼっちのズッキーニは、「みんなのいえ」に連れて行かれ、いろんなことを体験する。

 辰巳雄大は後ろ姿で登場し、ゆっくり下手の方へ視線を移すのだが、その背中が、大人じゃない。少なくとも小3、9才にみえる。まだ骨がほそくやわらかい、戸惑いがちのこどもの背中、無心の、または何か思ってる背中。6才は無理だったなあと思いながら眺めるが、芝居の途中でぼくたちこどもは大人に頼らなければ生きていけないというズッキーニの鋭い台詞を聴き、終盤のカミーユ川島海荷)の述懐を聴き、観客の目の前のズッキーニは体の中に過去と未来、6才と大人を同居させているのだなと考え直す。辰巳雄大、超むずかしい役じゃん。ママ!と叫びながら走り回るときがまずい。(戸惑い)(疑問)(恐怖)のような感じで、一つ一つの「ママ」に意味を持たせないとうるさいだけだよ。丁寧に。シモン(稲葉友)がズッキーニの頬を拭くときちゃんと涙が見える。「愛されない貰われない」絶望は心の蓋をもっと開けてやってほしい。川島海荷台詞とちらないように。ベアトリス(三村朱里)全力疾走で。伊勢佳世のロージー先生と宍戸美和公パピノー園長が物語のやさしくあたたかな(しかも陳腐でない)背骨となっている。二人で互いを置き去りにしないチームプレーができてるよね。三方「黒板」で出来たセットがとてもよかった。