座・高円寺1 劇団扉座40周年記念 『解体青茶婆』

 洋学史上、医学史上に大きな名を残す杉田玄白(有馬自由)は、83歳となっている。彼が『ターヘル・アナトミア』を翻訳したいきさつを記した『蘭学事始』には、記載されていない事実が多く、前野良沢の名前もない。それを校訂すべく、弟子の大槻玄澤(山中崇史)、玄白の元養子宇田川玄眞(新原武)らは、奉行の部下であった得能万兵衛(岡森諦)を探し出し、腑分け当時の事実を明らかにしようとする。と、いう話に、玄白にしか見えない玄白に腑分けされた靑茶婆(中原三千代)の幽霊や、玄白の娘お蘭(砂田桃子)の挫折と恋が絡む。筈だったのだろう。全然絡んでなかったねー。大体お蘭は最初っから目も逸らさずに玄眞を見ており、全く気持ちがないことが明白である。喉も弱い。有馬、山中、弾左衛門配下の「やのもの」虎松の犬飼淳治は、感情を抑えることなく気持ちよさそうに芝居する。気持ちいいんだね。観てる方は恥ずかしく、がっかりする。虎松と靑茶婆の交情だけは本物だが、それは中原が芝居を抑えているからである。中原は最初、陰惨な裸体シャツを着こんでいるが、ここの自分の芝居は「ご陽気に」と心がけており、手つきが明るく、とてもよかった。お弟子の二人の若い人(鈴木利典、小川蓮)も余計なことをせず、好感が持てる。

 「医学の進歩」が大義となって大団円に持っていくが、大団円になるのが信じられないよー。虎松はなぜ腑分けにそんなにこだわるの?「それがどうした」と靑茶婆も虎松もお蘭も思って当然である。弾左衛門配下がお上に従順というのは歴史では明らかなのかもだけど、まったくつまらない。そして受け継ぐ、引き継ぐ、そんなこと、市井(うち)のお父さんでもいいますよ。新味がない。仕掛けの恋や幽霊が、ディズニーのアニメ『美女と野獣』の「ベルが読書好き」くらいの意味しかない。主題を批評しない。でもよく調べてありました。

あうるすぽっと serial number06 『hedge1-2-3 sideA hedge/insider』

 や、台詞の言い方修正したんだね。わざとらしいところがなくなってる。と思ったのもつかの間、次の瞬間物凄い悲哀が訪れる。資本を「投入」が、「豆乳」に聞こえる自分の人生に、ショックを受けるのだ。愛とお金と健康、大事な三つの物のうち、私、「お金」の事、全然知らないじゃん。

 脚本は、いったん観客をそこまで叩き落としてから、手厚くもてなしてくれる。だから「TOB」だの「敵対的買収」だの「インサイダー」だのが出て来ても心配いらない。いつのまにか、有望なのに業績の悪い会社を立て直し、その株の売却益で会社を動かす「バイアウトファンド」の会社「マチュリティーパートナーズ」の人々に感情移入している。

 問題はいくつかある。「金融に身を投じる」とは「利益を追いかける」の意だろうと思うのに、マチュリティーパートナーズは誠心誠意、株式会社カイトに尽くしていて、上澄みの透きとおったところ(まごころ)しか見えず、「利を追う」辛い、いやなところが全然感じられない。話が薄くなる。皆緊(しま)った芝居をしているが、もう少しキャラ立ちさせてもいいんじゃないの。ファンドの社長茂木(吉田栄作)ソツがなさすぎる。コーヒーカップ、「もたされている」。浅野雅博、おとなしすぎる。わがままになれ。中では銀行出身の国分(酒巻誉洋)が、硬い、日本ぽさを出していた。

 気楽な普段着から、スーツを着る所作を見せて、誠に男のスーツとは、日ごとの武装であることよと思うのだが、これだけ歌舞伎のように見得をきるのならば(あの仕種はみな、現代の見得だろうと思う)、どこかで(たぶんそれは終わりの方で)、武装を解く動作、対照的な何かがちらっとあったほうがよかった。

角川シネマ有楽町 Peter Barakan's Music Film Festival 『ランブル RUMBLE  The Indians Who Rocked The World』

 もちろん今では多くの人がネイティブ・アメリカンと呼んでいて、と頭では分かっているけれど、遠く離れた島国の、そのまた押入れの中に棲んでいるような私には、子供のころに柱にピンで貼った童画のイメージが抜けず、苦労する。ちいさな水彩画の中では、赤い木の実を摘むインディアンの子が、踊りながら遠ざかってゆく所だ。

 アメリカでは先住民の問題は全然終わっていない。押入れの中からだと、(もめてるのかな)とこわごわ思うだけだが、映画『RUMBLE』をみると愕然とする。無視されてる。軽視されてる。いないように扱われてる。奴隷よりもひどい差別に遭う。だからインディアンの血を享けた人々は、「誇りを持て、しかし血筋の事は口に出すな」と代々言い習わしてきた。だがインディアンの音楽に流れる心拍(パルス)は受け継がれて、ロックミュージックの中で顕ち上がる。リンク・レイ(1929-2005)のヒット曲「RUMBLE」は、インディアンの踏みつけられても決して死にはしなかった、戦いの鼓動を呼び起こす。若い者の反抗的な心情の呼び水となり、犯罪を助長するという理由で、歌詞のない曲だというのに、放送禁止になっている。ロックミュージックの中から、絡まりあった複雑な有機体として、「インディアンの血筋の者たち」は現れる。ジミ・ヘンドリクスやロビー・ロバートソン、ジョニー・キャッシュブラック・アイド・ピーズのタブーなどがそのほんの一部として挙げられる。

 圧倒的な「征服者」と対峙する先住民インディアンたち、「戦ってはダメ、芸術という秘薬をつかうのだ」と終盤語られるのが印象的である。インディアンはアメリカの巨大な影に覆われた大切な血脈、地の底(土地の魂?)と通ずる決定的な絆としてえがかれている。インディアンの歌いまわしがいつのまにかフランク・シナトラにも受け継がれているなんて、すごい話じゃないだろうか?

角川シネマ有楽町 Peter Barakan's Music Film Festival 『BILLIE ビリー』

 図書館の本の、「お父さんとお母さんがほぼ子供」ってところでびっくりした中学生はそのあとその人のことをすっかり忘れていた。20代、90分のテープをオートリヴァースにして、どれだけかけっぱなしにしても全然いやにならない音楽が、「ビリー・ホリデイ」だったのだ。食べても食べてもなくならない、不思議な食べ物みたいな、超自然的パンっていうか。

 今日の『Bllie』で、初めてビリー・ホリデイの歌うとこを見た。胸元から肩口にかけてV字に開いた青いサテンドレス、きらきら光るダイヤ(?)のイヤリング、なめらかに纏めた髪、CDやテープでは漂うように聴こえるヴォーカルが、隅々まで歌いこまれ、一つ一つの詞に自分自身の感情が載る。そしてなんといってもあの眉――自分の美しさを知っている人が選んだ、賢そうな、「わかってる」感じの――がいい。美しさを倍加する。

 このドキュメンタリーは、60年代にリンダ・リプナック・キュールという女性記者が遺した、ビリーの周辺の人々の200時間に及ぶ取材テープを基にしている。交差するリンダとビリーの人生、精神病質という診断に共感するリンダの芯のある受け答えに、理解の深さを感じる。でも、どうなのかな、精神病質っていうの。私はビリー・ホリデイを子供の頃壊されちゃった人かなと思う。自罰で安定するっていうのがかなしいよね。ここ、70年代のテープを引用するの問題。

「奇妙な果実」を歌うビリー・ホリデイは素晴らしく、彼女の目には〈奇妙な果実〉が見え、肉の焦げるにおいを感じているのがわかる。そしてそのすべてを覆う深いかなしみ。このかなしみの表出のセンスが、ものすごくいい。それは歌う時、彼女がいつも、自分自身として存在していたせいかも。

角川シネマ有楽町 Peter Barakan's Music Film Festival 『マイ・ジェネレーション ロンドンをぶっとばせ!』

 ゆりかごから墓場まで

 という、たった10文字ほどのスローガンが、どんだけ大きな波紋と事態を呼んだか、この映画で突然、ぴかっとわかった。教育の充実と福祉の完備が、次世代(マイケル・ケインの世代)をでかく育てたのだ。日本の保守派の作家すら、「イギリスには顔色の悪い人がいなくなった」とその成果を遠回しに認めていたよ。60年代、労働者階級の才能ある若者がロンドンに集まり、互いに影響を与え、発火し、その火がアメリカにまで伝播する。「やりたいことをやる」、彼らは直線的で無作法でお構いなしだ。そうでなければ掴めない物があることを直感的に知っている。ツィギー、ドノヴァン、P・マッカートニー、マリー・クワント、ミック・ジャガー、世界につきつけられる死(キューバ危機)にも追い立てられ、ロンドンの若い人たちは飛躍してゆく。負の側面、麻薬の流行も語られる。古い映像と新しい映像がなめらかにつながり、マイケル・ケインは老いてもすてきで、60年代の事がスーッと頭に入った。しかし、終わりにマイケル・ケインがいい車に乗り静々と60年代の空気を引き連れ去っていく所を見ると複雑な気持ちになる。あのー、このあと『トレインスポッティング』みたいに若い人悲惨になっていくんですけど。『ロンドン・キルズ・ミー』なんて、「非道いことがあっても俺は社会のせいにはしない」とか、政府肝いりの一節が入ってたりしましたけど。ブリティッシュ・インヴェイジョンと謳われた割には、この映画はものすごく内向きだ。夢が小さくまとめられちゃってるよ。また、マイケル・ケインの登場が通り一遍で、「コックニー訛りのミッキーマウスではなかった俺」の矜持と痛みがない。ミニスカートを見たケインのお母さんの、「売り物じゃなきゃウィンドウに飾らない方がいい」って、意味がすらりと理解できなかったよ。

KAAT神奈川芸術劇場〈ホール〉 『イスラエル・ガルバン 春の祭典』

 「宇宙ではあなたの悲鳴は誰にも聴こえない」というTシャツを着てる女の子を町場で見かけて、こわ!とビビったのだが、イスラエル・ガルバンの踊りを見た後だとさあそれはどうかなと思うのだった。さあそれはどうかな。

 舞台にはおおよそ三つの円が光に照らされている。ちいさな円は木、大きなグレーの円は布、もう一つは半分が簀子の円だ。グランドピアノが下手に二台互い違いに組み合って置かれ、ピアノの内部は光を放っている。非常灯が消え、客席も舞台もふっと暗くなる。星空のような照明器具の小さな明かり、ここは宇宙なのだと知り、宇宙の底から、シタールのような、たわんだ音が浮かび上がってくる。ギターの調弦だろうか。強い足音がし、やや明るくなる。さっきまでなんだかわからなかったもの――双生児のようにくっついた「ピアノの中身」が立ててあって、それを赤い靴下をはいた右足が(白いシューズを履いている)下からこすっているのだ。次第に左足(素足にシューズ)が加わって、円を描いてこする。寝そべって足を動かすイスラエル・ガルバンは、今生まれてくる人みたい。宇宙の光線、春の光は段々に「音」に変わってゆく。音って何かっていうと、それは「力」である。人が限りなく地面を押すと、そこから反発して力が生まれる。この音は、力のせめぎあい、相争う二つの成分を表わしているのかもしれない。けど、今日のパフォーマンスでは、激しくなってからの畳み掛けるガルバンの身体の立てる音(つま先やかかと胸や指そして服)とピアノがうまく合ってなかった。特に最初の方。迫力が減殺してた。ここ、うまくいってたら、天をさす指が最後は向きを変えるとことか、生体の営み、或いは宇宙を示す動作が止まるとこ(思わずマスクの中で「わかった。ありがと。」といっていた)とか、もっと鋭く素晴らしかったと思う。

Bunkamuraル・シネマ 『アメイジング・グレイス アレサ・フランクリン』

 LAの小さな教会に立つアレサ・フランクリンの顔は、硬く、これから起きることへの不安で小さく見える。そこ、私は本当に驚いた。あのアレサ・フランクリン、ソウルの女王、全力過ぎて「ニュアンスないやん」とこっそり貶していた大歌手が、心配の余り脅えた子供のようである。このコンサートはレコードに変わるだけでなく、シドニー・ポラックの映画になり、父親の牧師C.L.フランクリン師まで登場するのだ。ピアノの前に座るアレサは白のゴージャスなラインストーンつきのドレスを着て、マイクを怖そうに引き寄せる。マーヴィン・ゲイの「WHOLY HOLY」。彼女は集中しようと目を閉じる。アレサのアップ。丸い白の珠がいくつも下がったイヤリングに、薄青いアイシャドウが映え、まぶたが震える。「私たちは何でも乗り切れる。」「私たちは世界を根底から揺るがすことができる。」音に集中していく。けど同時にすごく不安。というとても分裂した、アンビバレントなアレサを見守る。どうしてこの歌を最初に選んだか、よくわかる。まず、自分自身を説得し、信じようとしているんだね。黒いアイラインがもう溶けて、目の下で光っている。しかしちっとも気にならない。自分自身と接続しようとしているからだ。それは神への本気の祈りを意味している。本当に接続したアレサに敵う者はもうないのだろう。「なんでも乗り切れ」「世界を揺るがすことができる」ひと。「アメイジング・グレイス」ではアレサの節回しを聴いた聖歌隊が興奮して立ち上がる。なんていうかなー、林の中をさまよっていたカメラが、そこで90°仰向けになり、画面いっぱいに、空とそれを囲む木々が見える気がする。見えた途端に会場の人々が立ち上がり、踊り、手をたたく。アレサは神へと噴き上がる通路を歌で見せてくれるのだ。清浄。でも、ほんというと、私まだ、アレサの歌わかんないけど。