シネクイント 『MINAMATAーミナマター』

 「誰のための映画か」という問いと、「写真は誰のものか」という問いは、少し似てるね。

 チッソ社長ノジマ國村隼)の、「この人は(ユージン・スミス)一人で来たの」という台詞が日本語の台詞の中で一番いい。「この人」、微妙な距離と、小さな畏敬。國村、しろうと耳(?)には英語すごくパリッとしてる、でもやっぱこの台詞がいいのだ。

 誰に見せる誰のための映画なのか。もし日本で見せるものならば、浅野忠信の訛りのない台詞あり得ない。日本には、水俣を扱った、宝石のような方言の滴る『苦海浄土』(石牟礼道子)があるんだよ。

 カメラマンのユージン・スミスジョニー・デップ)は世界を見失い、荒んだ時期に、水俣の公害問題に関心を寄せるアイリーン(美波)に出あう。来日したユージンとアイリーンは水俣で写真を撮り始めるが、「会社」と「患者たち」の緊張は高く、病気はむごく、二人はなかなか患者家族の心に入り込めないのだった。

 水俣の被害を世界に知らせる。そしてユージン・スミスの退かない勇気とその作品を賞揚する。それでいいの?すると「芸術」が要らないおまけみたいにこぼれて余っちゃう。それはもっと作品中で、ジョニー・デップを通して描かれるべきだ。(アキコのくだりで頑張ってはいるが)方言は研究され、磨かれるべきだ。そうでなければハリウッド映画の「1971日本ツァー」になってしまう。

 患者の少年シゲル(青木柚)の透明感がとてもよく、この少年とユージンのくだりに説得力がある。パンフレットに引用されているユージン・スミスの眼(パンフレット21ページ)に曇りがない。対象をしっかり見据える人の眼だ。この眼と、普段の癖の強いところ、落ち込んだときの自暴自棄な感じに、もっとコントラストが必要だった。

新宿ピカデリー 『キネマの神様』

 「香港映画みたいな人がいる」

 「え」

 レストランで振り向くとそれは沢田研二であった。えー沢田研二ー。幼稚園の時好きだったタイガースー。とその時私赤くなってたと思うけどそんなことはどうでもいい。それは12、3年前、沢田研二は恰幅のいい(ていうか太った)香港のフィルム・ノワールの人みたいだった。てか、『インファナル・アフェア』のアンソニー・ウォンエリック・ツァンを足したような人に見えた。品もいい。

 で、『キネマの神様』である。んー、沢田研二、自分のダイヤグラム(ほらほら、『東京物語』で大坂志郎が線引いて電車の時刻見てるやつ)どこに線引いてる?「ジュリー」?「勝手にしやがれ」?駄目だよ、あのステーキ屋の「フィルム・ノワールな俺」に引かないと。何か耐えてるみたいで暗いもん。小津の映画では列車は必ず一方向へ無情に通り過ぎるけど、山田洋次のこの映画では、電車は「奥」と「手前」に走り抜け、70代のゴウ(沢田研二)を引き裂いてゆく。「過去」と「今」、「今」と「来るべき死」、時間は残酷だ。小津の紀子が「ずるいんです」と泣いたように、「過去」はどんどん遠ざかり、「(ずるい)私たち」から引き剥がされて、とても遠く、とても近い。若き日のゴウ(菅田将暉)は映画監督をめざし撮影所で働く。映写技師のテラシン(野田洋次郎)とゴウは友人だが食堂の看板娘淑子(永野芽郁)を同時に好きになってしまう。ありがちな話で、どこにも新味がない、ただ山田洋次の技で見せる。ソール・ライターあからさま。ギャンブル狂になった老年のゴウとテラシン(小林稔侍)は再び出会い、束の間の時を共にする。この作品一番驚いたのは大女優役の北川景子だ。体が生き生きしていて好感持てる。最初の「ハーイ」が失敗してる以外は合格。永野腹筋鍛える。声が弱い。

すみだパークシアター倉 KAKUTA第30回公演 『或る、ノライヌ』

 断念の物語。と纏めるのは簡単だが、まずは題名の「ノライヌ」でひっかかってしまう。ノライヌ小学三年以来見たことないよ。ってぶつぶつ呟きながら舞台を見ると、肩寄せ合うように並ぶ5本の電信柱が、ここは重層的な空間ですよと控えめに教えてくれる。

 2014年。津波と震災が起きて3年目のあの頃、心の「ひび」がまだ生々しくて、振り返るとついおろおろしていた時分。消失した恋人を追い、その恋人の犬を連れ、置き去りのものたちが旅に出る。チョッキの背中からのびるリードで、ふわっと両脇に広がるウェーブの髪で、毛布のような生地でそれとなく仕立てられた尻尾で、犬を表わす谷恭輔は、程よく犬らしく、程よくかわいく、いやみが全然ない。(ジョージ〈成清正紀〉、ルナ〈矢田未来〉もおなじく)しかし、犬の中から不意に恋人正哉が立ち上がるところが弱い。ここ、だいじなとこじゃないか。ノライヌは薙ぎ倒されて跡形もなくなった街でひとり吠える「ノライヌ」であり、「國」から遠ざかるその姿を彷彿させなければならない。ここも弱いなー。桑原裕子の脚本は、ちっとも前に進まない。退屈。それから厄介者の兄(若狭勝也)、助手小波(細村雄志)と車で北海道へ向かう顛末、活字で読んだら面白いだろうに、舞台上ではさっぱりだよ。巧く会話が絡んでないね。若狭、ちょっとローワン・アトキンソンみたいに味があるけど、運転のパントマイムは練習して。特に腕を伸ばして掌のつけ根でハンドルを押さえる仕草まずい。桑原の演じる國子の最後の号泣は集中した出来だったが、ところどころに「わざとらしい」「装った」表情があり(小波との別れのシーンなど)、それって脚本の惜しいわざとらしさに通じてないか。それと農業のコミューンに絡め取られた妹(高野由紀子)のシーンなど、高野演じるレズビアンに重ねても少し舌足らず。家族の両義性など必要です。

TOHOシネマズ日比谷 『マスカレード・ナイト』

 「練りに練った緻密な脚本」(パンフレット)。何に向かってどう練った。推理物だから筋は練ったのかもしれん。しかし、台詞はどうよ、台詞は。新田刑事(木村拓哉)の「あなたのその眼は…」という大切な台詞、係り結びがおかしいぞ。作品以前に文法が問題、とか、映画人(テレビ人?)の劣化やん。他にも木村拓哉のあきらかな台詞の言い間違い(本人がすみませんと言っている)を本編に使っていて、これは木村に対する遠慮か、何か臨場感みたいなものを間違った方向で求めているのか。予算ないの?

 ホテルコルテシアの大晦日のパーティーに、殺人犯が現れるという密告が警察にあり、新田は再びホテルマンとなって潜入する。フロントからコンシェルジュに移った山岸(長澤まさみ)達もまた、パーティーをつつがなく進行すべく、全力を尽くす。

 この人が犯人であってくれよと全力で祈った人がきちんと犯人。犯人も犯人以外も皆持ち場をプロらしくちゃんと守り、やりとげる。特に、長澤まさみ、優等生。スポーツだったらそれでいい。勝てる。でもさスポーツじゃないし、ニュアンスが全然ない。微量でもすべてを変えてしまう心の色、例えば新田を憎からず思うわずかな気配とかがないとつまらない。木村拓哉もニュアンスの読み取りが薄い。運動神経の反射でやってる。台詞が「肚落ち」するまで考える。

 木村佳乃、何でもない奥さんの役だが奥さんの心の二層目にしっかり手がかかっている。けど、もう一息、三層目まで行かないと。鏡見て稽古したのかなあと思ってしまった。あとさ、カメラの人、もっときれいに撮ったらどうなんだ。警察の人には、ざわざわしていてほしい。麻生久美子、凍った鍾乳石のような表情は素晴らしい。博多華丸、目を剥いちゃダメ、それ秘密兵器だから。東根作寿英、もうちょっと見たい。

TOHOシネマズシャンテ 『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放送されなかった時)』

 それはコンクリートに生えたバラのようだった、と回想される。

 1969年、ちょうどアポロが月に着陸した日にも開催されていた、ハーレム・カルチュラル・フェスティバルは、高まる黒人の不満(リベラルな政治家や黒人解放運動の重要人物の暗殺、いつになっても虐げられて地位の向上しない現状)を逸らすために当局に許可された音楽祭だった。しかし、ハーレムの広い公園一杯に集まった、何万人もの黒人は、そんな「ガス抜き」とは無関係なものを、おのおの家に持ち帰る。そうだ、コンクリートに生えたバラ、「プライド」だったり「生きる喜び」だったり「暗い人生の慰め」だったりするそれは、参加した一人一人の心を暖めたけど、長いこと公にはされなかった。音楽がもたらす連帯を、今はじめてフィルムを見る私たちも感じる。カメラに映る遠景の遠景に至るまで、びっしりと会場を埋め尽くす黒人の人々の顔に現れたくつろぎと安心に、このフェスティバルがつかの間、彼らの音楽の国を現出している、と思う。音楽が鳴り響くときにしか現れないその国に、皆心を奪われる。それは見ているアジアの私たちも同じだ。そしてその国で実現しているものが、現実の黒人たちの手に入らないことは、どれだけ苛立たしいか。

 舞台に登場するスターたちはもちろんすごくヒップでかっこいいけど、観客がもう、それを越えてかっこいい。マヘリア・ジャクソンとメイヴィス・ステイプルの歌は素晴らしかった。でも、私はニーナ・シモンに見惚れたね。なにか怒りの光背を背負っていて、その怒りが美しく、圧倒的なのだ。

 このフェスティバルのテープがお蔵入りになってから、テープと黒人たちに何が起こり、何が起こらなかったか、語ったほうがよかった。だって、「50年」だよ。

シアタートラム 劇団青年座第242回公演『ズベズダ――荒野より宙(そら)へ――』

 日露戦争でもスターリングラードでも、ロシア(ソビエト)の兵はたしか「ウラー」と叫んで敵に攻め寄せてたよ、と思っちゃうのは、この『ズベズダ』のソビエトのロケット研究者たちが歓声を上げる三つのシーンのうち、最後の一つでしか「ウラー」と言わないからである。しかも控えめ。うーん。野木萌葱の脚本は、第二次大戦の余波を感じさせるドイツ人ロケット科学者たちの囲い込み、ロケットの開発、その成功(そして隠蔽されるその失敗)、米ソの宇宙競争の激化と、やがて訪れるデタントスターリンの粛清やフルシチョフ時代などを大模様に取り込み、「名づけられない」、巨大な黒くうごめく生き物のような「熱」を捉えることができている。この「熱」の中心にいるのはコロリョフ横堀悦夫)という天才ロケット科学者である。そのロケットエンジンを担当するのは、かつてコロリョフを当局に告発したグルシュカ(綱島郷太郎)だ。ここんとこ、個人対個人の感情のもつれに苦さが足りず、甘い。結果、「そうはいってもロケットが大事」というロマンチシズムが際立たない。「それは戦争でもあった」はずの「熱」の鵺的な手足も見えない。「混ざり」が悪いのだ。

 青年座の俳優たちはソツなくしっかり演じるが、はっきり言う。これじゃダメ。芝居から肉体性が失われている。目を閉じていてもすべて、100%伝わるのってありなのか。特に綱島郷太郎やウスチノフ矢崎文也、考え直してもらいたい。声で説明しすぎだ。セットは空の軌道や、星を連想させるいくつもの電話などいいけれど、役者の芝居からも装置からも、荒野がかんじられない。須田祐介、声割れてるね。「死んだ犬が」というコスベルグのキャラは、冷静なオタクっぽく作ったほうがいいんじゃないの。全世界の気の弱い人間は、犬の運命に泣いてるんだからさー。

東京芸術劇場 シアターイースト 『カノン』

 閉塞感!出られない!という気持ちが、冒頭、舞台に飛び出してきた役者たち(見たことあるようなプロジェクション・マッピング)を見ながら付きまとう。空の額縁に取り囲まれたここは、テレビやネットに心を支配されている私(或いは彼)の、たった一人の部屋ではないのか。

 天麩羅判官(渡辺いっけい)配下の生真面目な牢番太郎(中島広稀)が平均台の端から歩いてき、もう一方の端から『自由』を求め『自由』を奪おうと、「目的を持った盗賊」と化した太郎が歩いてくる。両端から激しく燃える蝋燭のように、それが黒煙を上げて燃え尽きた後には、「あさま山荘事件」での、苦い70年代の挫折がけぶっている。けどこれ、巧く読み替えられていて、私の心の中には、芝居を観た後、ネットをさまよう狼のような青年が見えた。いくつもの追いかけあうカノン。昭和のたくさんの事件が心を掠める。野上絹代の演出は、「ふーん、やるな」って感じである。面白く軽やかに、つらく真剣に、次々と目まぐるしく展開してゆく。だーけーどー。最初から喉の開いてる役者は猫役の名児耶ゆりと海老の助大村わたる(サンバちゃんとやれ)の二名だけ(ベテラン除く)、あとは胸から声出してるので頭悪そうに見える。あるシーンを受けた次のシーンの第一声が前のシーンの世界を受け止めきれてなかったり、シーンのつなぎの速度がのろかったり、ちぐはぐである。ヒロイン沙金のさとうほなみは「冬の枝」のように水気がなくてぽきぽき、内省がない。李麗仙の台詞回しに微かに似てるけど、李麗仙は距離感がびしっとしていた。距離感大切。「不滅のジャスミン」を見習え。

 三角関係の緊張を最も表現していたのは次郎の小田龍哉である。小田は登場時の開いた左腕の肘が、すっと伸び、知を感じさせてとてもよかった。