俳優座5階稽古場 俳優座『カミノヒダリテ』

 どこで見つけたこの戯曲!…というわけで、戯曲がすごく面白かった。そして観ながら、(これほんとに俳優座?)と何回も自分に訊いたのであった。

 どことなく笑える過激なセックスを示すシーンと、強烈に痛い自らを罰するシーン、怖すぎる!痛すぎる!と思うけど、現代ってこんな感じだ。だって、CMさえ、ひとりずつ敵を殲滅する子供のゲーム風景を、母親がにこにこ見守っているんだよ。ジェイソン(森山智寛、好演)は父を亡くして母マージェリー(福原まゆみ)と二人暮らしだ。彼はストレスを過剰に抱えている。父の死、厳しい母の抑圧。母もストレスを過剰に抱えている。夫の死とコミュニティの宗教的道徳的抑圧だ。牧師(渡辺聡)はマージェリーにパペット(腕にはめて口をパクパクさせるあれ)のこども教室を任せ、パペット劇を教会で発表しようと無理に図る。マージェリーはパペットを片時も離さないジェイソンを劇に無理やり出そうとする。しかし、ジェイソンのパペットは、思わぬことを喋り始めるのだった。ここありがちだね。しかしどのキャストもきちんと役柄を掴んでいる。牧師はうざく、少女ジェシカ(後藤佑里奈)の跳ねあがる太いアイラインは、彼女を一目でわからせる。でもさー。役柄を掴んでるのとそれを演じきれるかどうかは別問題だよねー。マージェリー役、面白いのに。福原は精一杯演じるが、レンジが狭い。ティモシー(小泉将臣)にポスターを食べさせるまで、音階を駆け上がるように興奮し激怒しなくてはならないから(ここもセックスでしょ)、最初はトーン低くゆっくりはじめないと。解りにくいけど、どっちを向いても悪魔である。私も悪魔、あなたも悪魔、パペットシアターの抑圧の幕は遍在している。あと小泉将臣、後半一か所、魂に届く少年のかなしい顔しなくちゃだめ。見えなかったんなら残念。

東京芸術劇場シアターイースト モダンスイマーズ 『だからビリーは東京で』

 もちろん、泣いたよ。コロナの時代のリアル。自転車のペダルを漕いで街を行く石田凜太朗(名村辰)は、まだ一度も舞台に立ったことのない役者志望の若者である。その凛太朗が劇団「ヨルノハテ」に入り、声の小さい作・演出の能美洋一(津村知与支)に駄目だしされて、ぐーっと演出家に近寄るその時が、かっこ悪くていい。劇団内の恋愛のもつれも、清潔かつどろどろしているので見やすい。これは役者(伊東沙保、成田亜佑美古山憲太郎)の力だ。凛太朗の酒飲みの父(西條義将)の造型もよくできた。

 でもさ、この芝居、魅力がない。チャーミングでないのだ。それは多分、劇団「ヨルノハテ」が、あまりにもつまらなそうだからじゃないだろうか。劇団員たちはなぜ演劇をやっているんだかわからないし、作者が固執する路線が死ぬほど退屈に見える。ここ、凜太朗の初々しさとの対比としてもまずい。ハートがないもん。劇団員の住吉加恵(生越千晴)が韓国人の彼と電話でやり取りするとき、この人ホントに彼が好きなんだなあと思う。しかし印象薄い。印象が点で終わっている。あと、いろんな人が日本語を話す時代になってるのに無粋かもしれないが、成田の「さ行」はひどいよ。そして終盤わかる凜太朗の父に対する行動が、吃驚しない。効いてない。それは名村の演技のせいでもある。父に暴露されて、それが後ろめたさであるか憎しみであるかはわからないが、疵から何か流れ出さないとね。

 自転車の車輪は、「もう一度初めから」「もう一度初めから」と不毛にも見える回転を続ける。だがそれは演劇だ。ぐるぐると最初に戻ったように見えても、そこには新しい視界と新しい時間が展ける。自転車は進む。どこまでも。

Bunkamuraザ・ミュージアム 『ザ・フィンランドデザイン展』

 北欧の森には白樺やトウヒが生え、木々を通して斜めに白い陽射しが地衣類の上に丸く落ち、道を歩くものになにか波動を送ってるみたいである。フィンランドの人口は福岡県と同じくらい、けど国土は日本と変わらない広さだ。人が少ない。森が近い。

 1917年にロシアから独立して後、観光はフィンランドの重要な産業となった。この展覧会では1940年代の観光ポスターもいくつかある。その洗練されてゆきっぷりが凄いのだ。1948年のポスターは、フィンランドの民族衣装を着た綺麗な(けれどもっさりした)女の人が高く右手を挙げている。黒い胴着、白いブラウス、赤に縞のスカートをはいていて、後ろにはフィンランドの地図と美しい景色が重ねられている。フィンランドって、スカートの座る女の人っぽい形(手も上げてる)をしているところから、「バルト海の乙女」って呼ばれたらしいんだけど、このポスターは、そのまんま。そしてもっさり。しかし、50年代に入ると「モダニズムがきました!」って感じに急激にお洒落になる。モダニズム、それがどれだけ大きな思潮だったかってはなしだ。若い国フィンランドアイデンティティモダニズムに求め、三段跳びのように美しいグラフィック、美しい工芸、美しい実用品を作り始める。

 このさまざまなものの並ぶ展示の中で、いちばんすばらしかったのは、グンネル・ニューマンのガラスですね。分厚い透明ガラスの内側に、ほんの一皮、一層だけ薄く白の顔料が掛けられ、全体はどっしりしているのに、『卵の殻(1948)』であることが自明なくぼんだ器、それから大きさと形、くぼみ方は『卵の殻』と似ているのに、薄いピンクのガラスの上にやっぱり一皮透明ガラスの層が載り、縁のうすい、削ったシャープな感触が容易に『バラの花びら(1948)』を連想させるとても感覚的な作品など。くぼんだ所が一か所ぽつんと、花びらのように透明なんだよね。(『バラの花びら』の表示が「Rose leaf」になってた。あれまちがいだろ)もうひとつ、『オランダカイウ(1946)』というグリーンの花瓶も、内側が白くて、切れ込みの形がほんとにカイウ(カラー)のようだった。ニューマンが、どれだけよく卵やバラやカイウを見つめたか、そのことが作品に如実に表れていて、私は詩を――特に写実を尊ぶ俳句を――思った。ここにはフィンランドの森の波動が、工房のなか、炉の火の中まで、かすかに、きれぎれに聴こえている。その細い遠くから呼びかける音を、よく聴きとったなあ。

 逆に、このいろいろ明るくてかっこいいもの揃いのフィンランド展で、陶器の展示がちょっと低調。「森の波動」と「思想」がぶつかっちゃって、「落としどころを間違えた」って感じがした。ビルゲル・カイピアイネンの、梨が皿から半分立体で飛び出しているプレート(1970年代)とか、ティモ・サルパネヴァの『フィンランディア叢氷(1964)』のごつごつしたカブトのような氷を模したガラス作品とかね。(うーん)ってなりました。「思想」が「森」を凌駕しちゃってる。

 他にマリメッコを生むに至る優れたテキスタイルの数々や、トーベ・ヤンソンの展示など。工房にテキスタイルを選びに行くフィンランド家庭の人々の話が、すんごい羨ましかったです。

桑田佳祐LIVE TOUR 2021「BIG MOUTH,NO GUTS」オンライン特別追加公演

 人がたくさんで、怖い。一万人もの人が整然と、おせちのようにぎゅっと詰まってる。さいたまスーパーアリーナ桑田佳祐も、この圧倒的な人数に、怖くなることあるだろか。

 エルガーの行進曲『威風堂々』がさらっとかかって、ミュージシャンがステージに上がる。この広い会場で、ひとりひとりが、小さくか細い。豆人形のよう。最後に桑田佳祐が登場した。桑田はカメラに大きく抜かれる。白のゆったりした、涼しい感じのシャツに、アンスリウムみたいなピンクの花と、針状の葉が胸の左右に二本ずつ描いてある。このシャツが映るたび(桑田は着替えをしなかった、最後半そでシャツになるけど)、なにかなあこの花、とずっと考えていた。クジャクの羽にも見えるし。パンツは幾何学模様で薄い茶と黄とピンクの柄かな。なんかまあ、おしゃれって感じには見えない。ただ歌いやすそうではある。

 始まった。『それ行けベイビー!!』、この歌が好きさ。歌詞の、「それ行けボク!」って、最高じゃない?家で用事しながらこの歌を歌う時、斬新だなと思う。歌っている人は、いつでもボク(一人称)ではないですか。自分で自分を励ます。コンサート名(BIG MOUTH,NO GUTS)と絡めて、「No Guts でいいじゃん」という歌詞が入ってる。おっ全肯定、現状肯定から来たね。声はそれほど出てないが、「出てない」とは気づかせない。最初だからね。

 『君への手紙』『炎の聖歌隊(Choir)』『男たちの挽歌(エレジー)』、他者にも自己にも肯定的なナンバーのあと、とつぜん、『本当は怖い愛とロマンス』で、痛撃を受ける。人には十分優しくしてきたつもりなのに、男は不意打ちで女に振られるのだ。

 「誰かに甘えてみたくて/ふざけて胸を撫でた」

 この歌聴きながら「ハハハ」と乾いた笑い声が出た。それ、「些細な仕草」じゃないよね。身体の自己決定権、「私の身体は私の物」を侵しているじゃん。これ2010年。昔だから仕方ないのか。でもさ、もう「桑田佳祐」のパロディソングになっちゃってるよ。

 「おいしい食事も奢(さ)してきた」で、ぐらぐらっと頭に来る。昔じゃないよこの歌。死んでない。罪深い。奢ったらさわれるのかい。やっすー。しょうわー。コンサート全体の陰陽について考えようと思っていても、この歌と『yin yang』のステージングが邪魔してきて、すべてぶち壊しにする。陰陽(太極図)の目になんないよ。女のパラオを桑田がはらりと解く?濁った色のランジェリーの女たち?衣装もいまいちだし、残念ながら現代には通用しない。

 『若い広場』『金目鯛の煮付け』といい歌が続き、次の「ご当地ソング」的『埼玉レディーブルース』で、また、口に出して「ははあ」という。桑田佳祐、めっちゃ喉ひらいてて、めっちゃ声出てる!声伸びる!えええ?ここで?ここ、笑う場所のはずなのに…。

 と、調子よく桑田は後半を歌い進む。コンサート初めの「陽」、肯定感は消え、『どん底のブルース』『東京』など。『東京』さ、前奏が聴こえない。駄目だね。照明が真下に当たり、青い舞台を突き刺す雨みたい。そしてその雨は、「東京」の主語の現れない「じぶん」を閉じ込める檻みたい。

 あのー、『鬼灯』だけどさ。

「紅(くれない)燃ゆる海の彼方へ」「君は征(ゆ)く」「故郷(ふるさと)」「美しいあの島」。

 昭和の昔から桑田は知らない過去を思う歌を書いていたけど、『鬼灯』、どうよ。これ、浪漫的で主情的で、いともたやすく戦争(次の戦争)に巻き込まれ、ひとを巻き込む歌だと思う。悲壮美、高揚感を誘う。山本五十六がなぜあんなに人気があったか、それは常識(親御さんに申し訳ない)があったから。この歌、常識がない。地に足がついてないって意味。『SMILE~晴れ渡る空のように~』の前段だったとしても、どうかな。

 『遠い街角(THE WANDERIN’ STREET)』のファルセットがきれい、桑田佳祐、ばんばん声が出ています。けど、後半、演奏が時々聴こえなかったのは、マイクのセッティング、音響のせいなの?アンコールの『真夜中のダンディ』を聴いてすごくいいなと思った。初めてちゃんと聴いた。心の中でめちゃくちゃ泣いている男の人の歌だったんだね。『愛の奇跡』(ヒデとロザンナ)の、女の人を一人選ぶ演出が今一つ。『波乗りジョニー』の「陽炎」という歌詞は歌わないで語っちゃったね、ちょっとくたびれたのかな。桑田が観客を「マス」ではなく「ひとりひとり」としてとらえようとしているところが立派。尊敬に値する。

新宿武蔵野館 『夜空に星のあるように』

 この世で一番弱い人って、自分が弱いってわからない人だ。この映画の主人公ジョイ(キャロル・ホワイト)は、まさにその暗黒の極点のようなところに立っている。ハイティーンで泥棒のトム(ジョン・ビンドン)の子供を産み、夫は服役してその間パブのバーメイドになる。新しいやさしい恋人デイヴ(テレンス・スタンプ)ができるが、その男もやっぱり泥棒で、入獄する。

 原題の『Poor Cow』って?「かわいそうなうし」ってなんだ。暗黒に名前を「与え」、それが上から目線なのが、どうよ。しかし、ひたひたと押し寄せる日本の貧困(気温3度にコートなしで子供に同行する母、駅の改札を出て大きな紙袋の中身を点検する明らかに雇い止めの30代女性)を見かけながら何もしない2021年の私より、1967年のケン・ローチの方がいい。

 ジョイは自分の将来について「娼婦?」と、断絶なく悪びれもせず答える。あらゆる局面で若さと可能性を搾り取られ、行き着く先が搾取として最高度の売春であることが、この作品の原作小説と映画の題名を『Poor Cow』にしているのだろう。しかし失礼だよ。『わたしは、ダニエル・ブレイク』に至ると、「かわいそうな母親」に対する視線は水平になり、貧しい母親が缶詰をむさぼる姿は撮影されないけどね。あと気になるのは、不安そうに明るい芝居をしているキャロル・ホワイトが、悲惨な終わりをむかえてるってとこだ。映画の主演に据える人が、物語に巻き込まれやすい、「暗黒面」「そちら側」へ引っ張られる性分だというのはキャスティングとして危険で、間違いだ。

 ジョイが子供をかわいがるのが救いだが、でもこれもまた、愛情の搾取ともなり得る脆いもの、母と子の紐帯がほどけやすいことが、「見失う」ことから明らかだ。ドノヴァンの歌とてもよかった、上から目線を緩和する。

シアター1010 KERA CROSS VER.4『スラップスティックス』

1939年、ビリー・ハーロック小西遼生)は映画配給会社のデニー元木聖也)を説得して、忘れられたコメディ俳優ロスコー・アーバックル(金田哲)主演の無声映画を上映してもらおうとする。デニーに19年前の映画界を語るうち、世界は重層化し、過去が映画のように立ち上がってくる。

 これ名作やん。「無声コメディ映画への愛」と「かなしみ」と「青さ」が詰まってる。ただ題材を籍(か)りたんじゃない、本当の愛だ。それが!…三浦直之(演出)、遠慮したな。劇団ロロのメンバーはぴりっとしてるけど、その他はどうよ。まず幕開けのビリーとデニーのやり取りが拙い。元木聖也、声が高いけど、それは自分の内心(本心)に接地しないで芝居しているからだ。知らない間に自分と向き合わないようになっているなら、一度「演劇と自分」について考え直した方がいい。但し身体はキレる。それはバク転するまでもない。小西遼生KERAの台詞を畳み掛けるとき、理解が浅い。低いトーンときちんとした間で笑いにつなげられているのはマック・セネット監督のマギーだけだ。若いビリーを演じる木村達成なんて、ちゃんと台詞のやり取りをする透明人間みたいである。そこに「いない」よ。息して。脚本読む。ビリーの恋人アリス・ターナー桜井玲香)のピアノ弾く手が最初から合わない場所を押さえているけど、あれ演出?最初合ってて、段々変わる方がいいよ。

 戯曲の力もあり、ヴァージニア・ラップ(黒沢ともよ)の陰翳が濃く、余韻が深く残る。「笑いと残酷」を通過した後のコメディ映画の映像は、痛みが強く来て正視できないほどだ。金田哲壮一帆、持ち場を懸命に演じるが、金田は(控えめで良い)と見え、壮は(もっと出ろ)と感じられる。とにかくね、皆脚本の読みが足らないよ。うすい。「ラーメン屋」の件も異空間のぶつかり合いがなかったね。

彩の国さいたま芸術劇場大ホール さいたまゴールド・シアター最終公演『水の駅』

 イキテイル水。すべてが、暗く、幾何学的で、しんと静まり返っているのに、舞台の真ん中にある蛇口から流れ出る水だけが、細く光りながら身をよじって落ち、華奢な銀の鎖のようだ。立てる音は意外に低く、川や春の雪解け水をすぐ思い出させる。

 あのー、最初に少女(石川佳代)が走って登場するあたりで、「失われた」という言葉がすぐ胸に来て、(うっ)と涙がこみあげる。老女の演じる少女って、「もう帰ってこない時」の哀しみがあるよね。少女は水をじっと見る。(もっとよく見て!)これから「水」は、通りかかる人々が欲しくて欲しくてたまらないもの――母の愛や恋人との愛、セックス――、そして奪い合うことそれ自体を表わしてゆくのだ。ここに顕れる男たちの愛(男a=竹居正武、男b=小田豊)、男女の愛(ロープを引く夫=北澤雅章、乳母車を押す妻=百元夏繪)、女たちの愛(女a=林田惠子、女b=上村正子)は、とても繊細で綺麗。洗練されている。ゴールドシアターの日々の習練、演劇に対する清らかな姿勢を見ることができる。黒いフリルのついたパラソルで陽(現実)を避(よ)ける女(日傘を持つ女=田村律子)の怖さと狂気が前段にあって、女a、bの上に(Gold)の陽が昇り、全て受け容れて生きようとするところが圧巻で素晴らしい。ハードボイルド。若い女(井上向日葵)が死ぬことで、女たちは「年を取ることができた」。と、とてもいい話だったんだけど、セックスを表わすシーンが三つもあるので、最後吃驚しない。びっくりさせてー。演出のクレッシェンドが全然効いてない。あとこれ、スローモーションじゃないよね…。まっすぐ垂直に足の上にしゃがみ込み、また立ち上がる、それがどれだけ大変かわかる。でも歩くとこも頑張ってほしい。「争い」にフォーカスするとこ演出鈍い。ここ、きれ味悪いよ杉原邦生。