日本橋TOHO 『スモール・アックス』第1話最速無料試写会

 1968年ロンドン、ノッティングヒル、一人の(黒人の)男が、煙草の煙とさいころの音、レゲエ音楽でけぶっている地下の店を出て、路を斜めに横切り、挨拶したり不良を追い払ったりしながら、真新しい紫と黄緑の配色のレストランに入ってゆく。男の名前はフランク・クリッチロウ(ショーン・パークス)で、これは今日開店する彼の店だ。フランクも、「マングローブ」というその店も、このあと二年というもの(実際にはもっと長期間)、棚から払い落とされたストレーナー(漉し器)が床に転げて不安定にぐらぐらするように、小突きまわされることになる。冒頭シーンでのフランクはノンポリで、そして希望を持っているけれど、その「非政治的態度」も「希望」も、ぎゅうぎゅうストレーナーの中身をスプーンで押し出すみたく漉されてしまう。「黒人」が「白人」と同じように扱われることに不満を持つものが、フランクたちを狙う。警察は「マングローブ」を迫害し、たまりかねた黒人がデモを組織すると重罪に問う。デモの混乱の中で、逮捕起訴された9人のたたかいを丁寧に追う緊迫したドラマでした。

 全然退屈しないし目が離せない、意見を言う「男」と台所にいる「女」の分断にもささっと触れられており、今日の視点が一応ざっと入ってる。でもさ、スティーヴ・マックイーンだったら、漉されて残った「こどもたちのために」というシーンとか、もっと浮き出すように工夫出来たんじゃないの。漉し器が転げる時間が長い、物凄く長いことからいろんな意味(裁判所の天井ドーム)が籠められていることがわかる、けど長すぎて、「テレビ的」という悪い意味を考える。迫害する巡査(サム・スプルエル)の顔が、薄く荒れていることも、よくない解りやすさの見本のように思ったよ。

東京国際フォーラム ホールC ミュージカル『ブラッド・ブラザーズ』

 「地上のマリア」の出現から物語は始まる。ちいさなハミング。大きな格子柄のコートを着た女(ミセス・ジョンストン=堀内敬子)がしっかりと立ち、歌う。足元はくるぶし近くまで甲皮のある昔風のがっしりした中ヒールだ。上に向けた視線は挑戦的だが、すこしずつ下へと降りてくる。両手は身体のわきに、ひとを迎え入れるようにそっと広げられている。息子。受難。キリスト。ってな感じに、彼女が話の芯、演出の芯となっていることは明らかなんだけど、いまいち「配分」が足りない。この人、マリリン・モンローに憧れるダンス好きの娘でしょ。そこをもっと押さえて、その上であの「母ちゃんの服」を着させられるときの衝撃を演出してほしかった。芝居が生き生きしてくるのは、引き離される双子の片割れミッキー(柿澤勇人)が登場してからだ。それじゃ遅い。ナレーター(伊礼彼方)は演出に「悪魔だよ!」と言われて「ああそうですか」と悪魔の演技をしているが、巧いけど、「ああそうですか」という出来。悪魔って怖いだけなの?ミッキー、ズボン思い切り下ろさない方がいいよ、「8歳じゃない」って我にかえっちゃう。堀内、二幕の「でも老け込んだ」のとこはがっつり歌ってほしい。足らん。もう一人の双子エドワードのウェンツ瑛士は、実際に「子供時代がなかった」分が多分、弱い。観察だ。お母さんの撮った子どもの動画を探して観る。最終景の蒼白な緊った表情が素晴らしい。なのに下ネタの時ちょっと安いよ。品がない。サミー(内田朝陽)お母さんにぶっとばされた泣き声が本物。鈴木壮麻、歌の秘書へのリフレインがいまいち。ここ、いろいろやれるとこやん。木南晴夏声出てる、最後の活人画のシーン、あまり泣かない。一路真輝、もう少し落ち着いた声出して。

 この芝居のエンジンは柿澤、二幕の終りのミッキーは、絵の具をぎりぎりまで絞り出して歪んだチューブみたいになっている。

本多劇場 悪い芝居vol.28 『愛しのボカン』

 「声、でてます」。確かに、誰も彼も、声出ている。客を瞞着するような、嘘のシーンも消えた。でも。今回開場して客席に入ると、青年団みたいに舞台に役者が板付きだ。この状況がつらい。実につらかった。男の子に注目されているのがわかっているのに、知らん顔で女の子同士話している16歳女子のように皆なっている。「舞台上にいる」「何か言う」ことに対して、おそれと厳しさがゼロなのだ。なんとなくプロダクションに入って、なんとなくちょっと輝けたらいいな的な、日常のアイドルな感じである。それは山崎彬が修正しなければならない大事なポイントでしょ。しかも全員だよ。全員アイドル。「声が出る」の次は「届ける」だよ。発声に繊細さがない。クレヨンじゃない、シャーペンの線で、相手の心に届けるのだ。

 芝居は岡本太郎の「明日の神話」がモチーフになっている。芸術を見ること、作ることによって起きる感動、自己燃焼は、ここで「ボカン」(…センスなくない?)と呼ばれているのだが、岡本太郎のあの壁画が「核爆発」をテーマにしている以上、正負の意味・せめぎ合いを、戯曲上で最初からもっと二重に仕立てる必要があったと思う。最後の方の爆発音(大きすぎる)が、観客の心の中で「ウクライナ」に変換される。なんか矛盾してるじゃん。

 ホームレス劇団と、そこに加わる明日野不発(赤澤遼太郎)のやり取りが、中途半端に笑顔で、明日野の観客に向けた最後の台詞も、やっぱり笑顔で語られる。世代的な問題?なんか、欺瞞的に仲間ぶってるように見えるけど。「半わらい」なのかなあ。齋藤明里の衣装、あり得ないよ。Vネックのセーターから、肩が出すぎている。裾からウェストも大きく覗く。いまどき、こんな服装で出る俳優、気の毒です。マネージャー果宮彩子(中村るみ)のアクロバット凄かった。

劇団俳優座五階稽古場 劇団俳優座LABO公演38『京時雨濡れ羽双鳥』『花子』

 これ、どちらも、女の価値、経済の話かな。女の人はいつでも値段をつけられてきた。田中千禾夫がどんだけ女に詳しくったって、「値段をつける側」だったことは動かせない。女は雌鶏のように卵を産むよう励まされる。子を産む女は価値がある。労働力として女を「娶る」のは経済的である。処女はある地点まで貴重で値がつかず、大久保ゆき(安藤みどり)の夫はそのために彼女を自分の体制に(下位に)組み込むことができない。値段がないからだ。男にすべてを捧げるとは、男の経済のために自分に値をつけ、売り飛ばすことに同意することだ。戦前の女大久保ゆきは、傷痍軍人望月(河内浩)の妻妙子(佐藤礼菜)のように自分を売り(或いは「ゆき」として自分を守って決して売らず)、その明確な輪郭は捉えられないまま、「値段とは別の」私を探そうとする。男の視線で値踏みされない「わたし」。売り買いされない「わたし」。眼鏡をかけている、赤い服を着ている、橋の下に棲んでいる、「わたし」。大久保ゆきは売色を行っているかもしれない。そのことは警官下山くん(辻井亮人)への台詞の声音の中に現れている。

――という風に思ったので、安藤みどりの演技が、「足りない」。安藤みどり、もっと面白い人でしょ。素でいいの。値段のない素になれ。いまんとこ、いまいち、役柄が「掴めてない人」みたいだよ。「足ばかり見えてる人」たちが5000円で関係を続けるのを見て。今、素のあなたが探すなにかが、ゆきの探す「わたし」だ。

 演出は、どこを押し出したかったのかよくわからない。影絵のように「値」や「経済」が浮上してくればよかったのにね。二話目の『花子』の母(安藤みどり)の火吹き竹がかわいい。男の値踏みを膂力で押しのける花子(佐藤礼菜)頑張れ。でも、これら戦後の女も、結局値踏みされちゃうんだけどさ。

こくみん共済coopホール 劇団昴公演『一枚のハガキ』

 ふーん、やるね劇団昴、まず、個々の役柄の設計図がぴしっとしてて緩みがなく、それを実際に舞台に立ち上げる時も折り目が鋭くて、すんごいよく飛ぶ工学ハカセの紙飛行機みたいだ。人を得て古川健の脚色もひときわ輝いている。

 冒頭、下士官の町田大征は戦時中の世界を一瞬で召喚する軍人らしい台詞回しだし、もう一人の下士官(紫藤雄太)は「影を慕いて」の前奏がちゃんと弾けている。神楽も舞も形になってる(神楽鈴がロックバンドみたいに見えるけど…)。兵事係A(桑原良太)とB(宮崎貴宜)も、土地の顔役の憎らしいような笑えるような泉屋(宮島岳史)に付き従って子分らしくやり取りし、特に宮崎は台詞にフラがある。貧しい農家の夫定造(田徳真尚)が、たった一枚の田を売って身請けした恋女房友子(服部幸子)も、悲惨な半生を無理なく確実に演じ、定造の戦友啓太(中西陽介)の「生きよう」には力があって、彼らが畑に植える青い麦は生まれてくるものたちの暗喩となっている。

 と、まあ、いうことない出来なのだが、もうちょっと笑わせるところは笑わせていいかな。あとやっぱ「籤」「戦争」が、運命みたいで気にかかる。友子は運命に「身を任す」ように定造の弟三平(笹井達規)の妻となり、また身を振る。「田んぼ一枚」が重い。当時はこんなもんでした、っていうけど、「いやだから」って結婚断った人も幾らもいた。「戦争いや」って、「わたしがいやだから」から始まるかもしれないね。「いや」という力がなかったら、なかなか世相に反対するのむずかしいもん。当日パンフレットの北村総一朗の文章には、誤植があるが、それを見つけ、当人に指摘できる劇団員であれ。なんて。

新宿ピカデリー 『アンチャーテッド』

 ネイサン・ドレイク(トム・ホランド)という名前のドレイク船長の末裔が、マゼランの財宝を求め兄貴分サリー(マーク・ウォルバーグ)と世界を駆け巡る。

 もともとが「ゲーム」だからか、話も心理描写も粗く、かっこいい悪者の女の人がふたりも出てるのに、「仲間っぽいほう」(クロエ=ソフィア・テイラー・アリ)か「そうでないほう」(ブラドック=タティ・ガブリエル)かぐらいの区別しかない。宝はすぐ発見され、ネイサンは無敵。いちばんまずいのは、アントニオ・バンデラスが「げんきない」ってとこだ。アントニオ・バンデラス!自分の野望のためにあんな悪を働く者が、あんなに地味ってどういうことだ。脚本家はどうしてバンデラスにぱりっとした死を与えないの?中途半端だよ。

 この作品で最もいいのは、幕開けの10分、ゆっくりと宙を泳いでいる革ひもで結んだ指輪が、男の首に掛けられていることが分かり、数珠つなぎの荷物に足が引っ掛かっているのを観客が知るあたりだ。活劇!おもしろい!どうなる!とわくわくするが、ここ、結局二回語られる。あー。そうだよね。全体がこの出来だったら、インディ・ジョーンズに勝てたのにね。そして、も一ついいのは、トム・ホランドが体を張ってよく働いており(そして身体が利き)、台詞を言う時少し愛嬌があることだ。それは「いきなり」「なぜか」「都合よく」ネイサンを発見するマーク・ウォルバーグも同じ。愛嬌がある。

 ゲームや漫画の原作のファンが、映画になったり舞台になった作品を見て、その「再現性の高さ」に満足しているのを見かけると、とても違和感を感じる。ゲームだろうが漫画だろうが、世界を拡張していなかったら、作る意味ないよ。この作品特撮凄かった。続編が、もっと面白くなるといいけどね。

渋谷TOHO 『ウェスト・サイド・ストーリー』

 ポップコーンを食べる女子高生や、制服のカップル、男子高校生のグループが多い客席を見て、衣の片袖を目に押し当てる。そうそう、この映画って、もともと君たちの物やん。それを、梅の木よろしく、御所に召し上げられちゃってねぇ。

 というのはさ、オリジナルの『ウェスト・サイド物語』(‘61)って、この2021年版『ウェスト・サイド・ストーリー』に比べると、地面からとても遠い。俯瞰で見たスラムを、見取り図にして、駒を動かし、頭で作り上げた、「上からの」「お仕着せの」「ハリウッド的な」一作である。新しいTonightのシーンを見ると、何だかわからないが、「召し上げられていた二人」「奪われていた恋」を、スピルバーグが夜空に梯子をかけて、ひょいと「二人」「恋」、それぞれの星を外して「手渡してくれた感」が強い。すんごく、「取り返してくれた」と思うのだ。’61年のトニーもマリアも、歯は白く、眼鼻立ちは整い、行儀がよかったが、あれ、あらかじめ漂白され、収奪されていたのだ。今回の作品では、グリンゴ(白人)のオペラハウスにスラムが変わる、と語られ、「奪われる」ということが映画の下地になっている。地面の開き戸を押し開けて始まる’21年版は、召し上げられたはずの梅の木がまるで元の場所に戻ったみたいに、ジェット団もシャーク団も生き生きしている。特に、主役級の若い人たちの表情はもうあり得ないほど美しくカメラに収められていた。時分の花かなあ。「取り返した」愚かと若さとが詰まっているせいで、梅はますます綺麗に咲く。

 Something’s comingのトニー(アンセル・エルゴート)とバレンティーナ(リタ・モレノ)のシーンが冗長である以外、目立った傷は感じられない。マリア(レイチェル・ゼグラー)が最後、「思いっきり走ってきた」とこがいい。涙。只、パンフレットが2980円で吃驚だ。えー?梅に戻ってきた鶯も、驚きの余り引き返しかねません。