TOHOシネマズ渋谷 『ブレット・トレイン』

 真田広之、おじいちゃんの役受けるのやめなよ。と、ちょっとむっとしているのであった。列車「ゆかり号」の狭い通路で、右から左、左から右と敵を薙ぎ倒す太刀筋を見てると、シャープで修練されていて、まだおじいちゃん早いだろ。

 東京を出発した新幹線に、トランクを奪って一駅で降りる予定の殺し屋レディバグ(ブラッド・ピット)が乗った。そこには息子の仇討ちを果たそうとする木村(アンドリュー・小路)、仇と狙われる娘プリンス(ジョーイ・キング)、大ボスホワイト・デス(マイケル・シャノン)に復命するタンジェリン(アーロン・テイラー=ジョンソン)とレモン(ブライアン・タイリー・ヘンリー)の二人の殺し屋、等々がいて、錯綜した関係が、互いに互いを死地に追い込む。

 とか書いたけど、これ、村上春樹タランティーノのパロディだよね。いろんなものがちょっとずつ笑われていて、東京オリンピックのマスコットのそっくりさんが真剣なパンチを受けるところなど、日本映画でやらなきゃだめじゃんと思い、そういえば日本映画って、『ラストサムライ』(滅びゆく蛮族)とか『硫黄島からの手紙』(立派な映画でした)みたいなの撮れないねーと途中までは考えてた。家族家族言い募る人々(居るね)、東洋の神秘みたいな宿命の話、日本刀、シンカンセン、出過ぎる血、ロシアマフィアの入り込むヤクザ、全てが少しひねられて、元図とずれ、笑われる。伊坂幸太郎の原作も、ずらして少し笑われてるのかもしれない。けれど、大真面目に「タランティーノ風」をやるブラッド・ピット(キメのシーンの前に髪を束ねてセルフパロディもやってくれる!)は、「タランティーノの映画に出た」「そして賞を取った」、「自分自身」をも笑って見せるのである。これでちゃらなの?果たして?

 レモン、あと一ミリ深く機関車トーマスの話しないと…。

配信 パルコ・プロデュース2022 『VAMP SHOW ヴァンプショウ』

 1992年。初演観ました。みんなで女を「まわしちゃうぞ」という表現が凄い嫌だったのと、藤井かほりの事を(これ儲け役だなあ)と思ったなあ。コンパクトで片付いた芝居で、おもしろかった。駅長はこんなに出てこなかった、そして「まわしちゃうぞっていやだね」っていってもだあれもピンときてなかった。

 くだって2022年、これどうなんだろ。波の下に古い価値観が沈んでて、その湖水に浮かぶ水の中の一軒家のよう。女が嫌い、女がコワイ、等々、そればかりじゃ無理があるので、水面下に沈んでいる男の人の隠された部分が、日照りの遺跡の様に浮上してきてる。女の人の無神経があげつらわれていて、無神経を表わす「逃げてくださいに応じない女」(小田巻香=久保田紗友)という設定だけどさあ。ここ、キズに見える。

 久保田紗友は初舞台で、一生懸命だけど、お茶を寸止めするときの位置が分かってないし、全体のなかでの「自分の役」の把握がいまいち。それは脚本に責任があって、この女を無理やり動かそうとしてて、恋人を巡る理由づけもつまらないせい。30年前の芝居であるにもかかわらず、大劇場にかかり、「お話として面白く」観られるのは、今でも「なにか」をまわしちゃう世の中だからかも。

 古い芝居を皆必死で生かそうとする、しかし、演出の演技の味付けも、(特に前半)すこし大仰じゃない?昔風だ。それとどの人もキャパ一杯やってて、必死過ぎる。キャパが大きい人、そうでもない人が一目瞭然で、芝居が揃わずでこぼこしてる。カメラの問題か、各俳優の芝居の味とかがあんまりわからない。塩野瑛久声がダメ、怒鳴らないでほしい。戸塚純貴「犬」の件で、卑屈でおどおどしないと。芝居を引っ張る役だけど、ここが大事。

角川シネマ有楽町 Peter Barakan's Music Film Festival  『モンク/モンク・イン・ヨーロッパ』

 発表します。わたし、セロニアス・モンクがにがてー。すきになれないー。勿論、セロニアス・モンクがたどたどしく弾く、落ちて輝く水のようなピアノはとてもいいとは思う。けど、モンクの作曲現場(メンバーの一人がコードを書きとり、モンクが自分の身体の中を辿りながらピアノを弾く)を見るともう絶対ムリ。ピアノの音が「蛍の苦い水」のむずかしい原液みたいなんだもん。素手で触ってはいけない感じなのだ。うわーこわー、と、震えあがるのだった。その上映画は、ヨーロッパツァー中のモンクのソロを何回も、金管楽器のパートは単調に平凡につなぐ。小4の時、「白鳥の湖」の全幕を見せられたことあったけど、あれに次ぐ体験でした。マジしんどかった20分だった。

 どんな人か知らなかったけど、クラーク・テリーというトランペット奏者がステージに上がると、映画はひゅうっと持ち直す。金管の人々も「複合拍子」だとか「8分の9拍子」とかすらすら口にしてすごくかっこよく、最後は素晴らしい演奏をする。モンクと組んでいるトリオの人たちはとても洗練されていて巧いんじゃないの?

 ヴィレッジ・ヴァンガードのバックステージで、モンクは時計回りに、どうしても押しとどめられないようにゆっくり10回以上体を回してみせる。押しとどめられない音。モンクの中には止められない音がいつも鳴っており、鍵盤に触れて出た音は、いつでも正義なのだ。身体から溢れた音はいつも正しいと、チベットの人の様にモンクは信じてたんじゃないかなあ。

 ブラックオパールの指輪が小指から抜けそうに激しくピアノを弾くセロニアス・モンク、着陸態勢に入った飛行機の中でにっこりするセロニアス・モンク、かわいいんだけれど、どんな人かはさっぱりわからなかった。

角川シネマ有楽町 Peter Barakan's Music Film Festival  『真夏の夜のジャズ』

 「ジャズ好きじゃないもの、冷やかしよ」

 ジェリー・マリガンバリトンサックス奏者)が好きだという青年の声に続いて、甲高い娘の声がする。私もね、ジャズ好きかどうかわからないよ。今日の『真夏の夜のジャズ』鑑賞も、彼女と同じ、冷やかしかもしれん。

 まず、ニューポート・ジャズフェスティバルというのは、1954年からアメリカのロードアイランド州で開かれているジャズフェスティバルであるらしい。この映画は1958年のフェスティバルの模様を記録したものだ。フィルムが傷んでいたため、修復が加えられ、彩色と同時に夏の幸福感がまるごと映画の上に「全部載せ」されている。映画の始まりに映る海のさざなみと、そこに現れる逆立ちした帆船の波紋が、すごくジャズっぽい。現実に「在る」もの、感情に立脚しながら、すこし幾何学的、抽象的な感じする。フェスティバルの設営(何百となく並べられる木製の折りたたみ椅子)、旧式の車でやって来るフェスティバルの観客たち、宣伝の為かオープンカーでジャズを演奏しながら町を流してゆく人たち。青と白の幔幕。セロニアス・モンクが淡々とピアノの前に体になじんだチェックのスーツで座り、「四分音」の音楽を展開する。四分音。しってた?半音より狭い音程だって。ははあ。1958年のニューポートには、チャック・ベリーアニタ・オデイルイ・アームストロングが登場して、どっちかというと、スウィートな音楽をやる。その対極にモンクはいるのかな。蛍の好きな甘い水、しかしもちろん、ジャズの中には苦い水もあれば、それが好きな人もたくさんいるのだ。甘い水は一色だけど、苦い水はさまざま、「味」を細かく感知できるよね。モンクについては、次の映画『モンク/モンク・イン・ヨーロッパ』を見るつもり。ジャズわからんけど。

自由劇場 ミュージカル『ダブル・トラブル』2022夏 Season C

 明るさが、二段階に調節できるサーチライトみたいに、原田優一の喉が二段に開いて、客席を眩しく照らす。準備万端だね。テンションと集中力もきっちりだ。二人(原田優一、太田基裕)とも生き生きと芝居する。初演より、前半躍動しており、面白くなってる。

 けど、「できる」と歌うキメのフレーズが最後を除いて2回ともキレイにハモってなく、がっかりだった。劇場出る時、後ろにいた娘さんが、「原田さんて歌うまいよねー」と夢見心地に呟いていた。確かにうまい。でもさ、あたし「ラミン・カリムルー基準」だからさ。失敗しないでほしい。

 ジミー(原田)とボビー(太田)のマーティン兄弟が、ハリウッドの映画業界に作曲家と作詞家として呼ばれるが、曲の締め切りは数時間後で、災厄が次から次に二人を襲う。俳優はふたりきりでしっかり地を踏んで、迫りくる災厄をすべて演じきらなければならない。しょっぱなの、ミスター・ガーナー(太田)の迫力がいまいち。そしてそれを受けるジミーが、ミスター・ガーナーの台詞を全然聴けてない。ハイテンションが災いしてる。物干しざおの接手がゆるくて落下しそうって感じ。継ぎ目のエネルギーの受け渡しがなめらかでないよ。「レベッカ」はちゃんと「大きい役」になっていた。シーモア(太田)がレベッカの服を受け取るところ、真率な愛情がこぼれてなくちゃダメ。この台本、やっぱり黄金の耳を持つ音響さん(原田)が弱い。ということは現場ががんばらなくちゃならない。「よくあるおじいさん」、「自分の抽斗のなかのひと」でなく、きちんと人間観察したうえで舞台に載せてほしい。これ、どの人物についてもいえることだよね。あと、また何度も額縁落ちてたが、着替えの時間稼ぎなの?それは上策ではありません。

角川シネマ有楽町 Peter Barakan's Film Festival 2022 『さらば青春の光』

 夜、お出かけしている間に、家が16,7歳の鴉みたいな若者でいっぱいになり、酒を飲んでセックスをし、花壇をスクーターでめちゃくちゃ荒したら、と思うと、顔が青ざめる感じ。もう私はジミーになれない。しょうもないおとなだよ。システムだ。がっかり。

 ジミー(フィル・ダニエルズ)はメッセージボーイとして広告代理店で働いている。草色のミリタリーコートと細身のスーツを着て、愛車のスクーターには装飾のバックミラーがいくつもつけられている。彼は60年代に流行った「モッズ」少年なのだ。

 両親はあんまり彼を構わない。うすく不和が暗示される。その雰囲気がいやなジミーは、毎晩スクーターで出歩き、ドラッグ中毒になっている。ひとの恋人ステフ(レスリー・アッシュ)が好きだ。休日にはモッズの仲間とブライトンへ出かけようとしている。ジミーの高まる期待に反し、ブライトン行から人生が狂い始め、何もかもがうまくいかなくなる。

 この映画に出てくる人みんなけっこうひどい。いや、相当ひどい。父親(マイケル・エルフィック)は、母(ケイト・ウィリアムズ)をじつは見捨ててる。ジミー自身は対立するロッカーズにいる幼馴染ケヴィン(レイモンド・ウィンストン)を見捨て、路で転んだモッズ仲間を見捨てる。モッズのヒーロー、エース(スティング)の職業を知り彼を見限る。広告会社の社員は嘔吐するジミーを無視し、ジミーが実は社会的に見捨てられる存在であることをはっきり観客に伝える。ジミーの父はきっと、いつなんどきでも見捨てられる、ということに疲れているんだね。誰もが誰かを見限り、遺棄する社会だと映画は英国を告発する。「あんたのせいじゃないの」とステフに言われるジミーが不憫。そらそうだけど、自己責任で追及を免れるのは、必ずシステムなのに、映画じゃ必ず自己責任論が出るねー。

角川シネマ有楽町 Peter Barakan's Film Festival 2022 『アメリカン・エピック1~4』

 あのー、わたし今日長く映画館に居て、アタマもうろうとしてるかもだけど、『アメリカン・エピック』はほんとに観てよかった。1920年代、ラジオが家庭の娯楽の首位を占めると、レコードの売り上げはみるみる落ちた。そこでレコード会社は地方にスカウトを派遣し、各地の無名の歌手を見つけ出して、持ち運びが可能になった録音機で歌を原盤に写し取り、レコードとして発売したのだった。この録音機に録音を果たした歌手たちのそれまでの生活、それからの生活、ヒットしたもの、うまくいかなかったもののことがこもごも語られる。

 中でも一番びっくりするのは、貧しいもの、虐げられたもの、無視されたものの中から、後世に残る凄い歌、時代を左右するようなシンガーが、たくさん出現していることだ。

 アパラチアの貧しいヒルビリー(カーターファミリー)、メンフィスの黒人バンド(メンフィス・ジャグ・バンド)、伝説の黒人ブルースギタリスト、チャーリー・パトンなど、一人一人が丁寧に取り上げられる。番組制作のこの丁寧さはなにか、悲しみや苦痛を「浄化」したいというような願いを感じさせる。だってさ、言っちゃあなんだが、「アメリカ」による彼らの「踏みつけ方」があんまり完璧で、踏まれた方の苦痛の半端なさがありありと感じられるのだ。苦痛がひくひく脈打っている。最後にたくさんの歌手が、現代に復元された録音機の一発録りに挑戦する。豪華で楽しいが、ここにも祈りのような丹念さがある。ジャック・ホワイト、ギターもピアノも歌も(ミシンも)、何でもできて凄いけど、録音終わったら、「25ドルあげます」とかいわんほうがいいよね。しめくくりは話が録音機にまたきゅっと集中する。それがちょっと不本意。正攻法でもうすこし苦痛について語ってもよかったのに。