新国立劇場「象」

 

暴力はどこからやってくるのか。一つは津波や地震のように自然から、もうひとつは争いや戦争のように、人間が相手を見てしまうこと=視線から。通行人1(山西惇)が通行人2(金成均)にステッキを振り下ろすのは、じっと見ていたからというのがはじまりだった。

 

ベッドから生え出てきた植物のようにも見える病人(大杉漣)は、かつて街で、ケロイドを見世物にしていた過去を持つ。人々の視線を受け止め、今度こそは握手をして、皆に愛されたいと願っている。視線を浴びることで生じる暴力――殺人――をも、彼には受け入れる覚悟がある。病人の甥(木村了)は、そんな病人を引き留め、もう視線が引き起こす激しい愛憎などあり得ないと説得する。

 

病人は<軽く>なっているのだ。存在が希薄になり、だれにもみてもらえない。ケロイドはしみだらけになり、死は目前に迫っている。その死もいつの間にか訪れる<軽い>ものだ。出られなくなった瓶のヤモリのように、瓶を割りたいと病人は焦る。

 

 舞台は一面、古着の山だ。圧倒される。登場人物も、ぽつんと置かれたベッドも皆服に埋もれている。退場するはずの俳優がその上にぱたんと倒れるとき、視線から外れるということは、小さな死なのだと思い当たる。病人の妻(神野三鈴)が通行人1に急におびえ始めると、その背後には半分身を起こした医師役の俳優(羽場祐一)の凝視があるのに気づく。突然、舞台が死体でいっぱいのような気がしてくる瞬間だ。この芝居は死をめぐるコラージュでもある。暴力をめぐって、死をめぐって、被爆者をめぐって、芝居は重層的に仕組まれている。触りつくせない象のようである。

 

 長年、一つの長い詩のようにこの作品を読んできたので、妻の登場シーンと、最後のセリフを言う前に男(木村了)が顔を紅潮させているのに、最も驚き、感心した。