「世界の中ではすべてはあるがままにある」ウィトゲンシュタイン。
ウィトゲンシュタインに全然不案内。ウィキペディアと新書で、変わった人だったらしいその波乱の一生をさらっと追った。世紀末オーストリア出身の思想家、ケンブリッジ大学の哲学の教授。鬱や性衝動との苦闘。生前二冊しか本が出なかった。ふーん。
この芝居に出てくる18歳の少年たちは、全員ウィトゲンシュタインを知っている。引用する。使いこなす。詩人、作家のフレーズが口をつく。古い映画の寸劇をする。優秀な若者たちの、のびのびした明るい体の感じ。それがとてもよく出ている。
一般教養を受け持つ教師へクター(浅野和之)は、当意即妙の生き生きした授業をする。しかしそんなへクターに不満を持つ校長(安原義人)は、新たに若いアーウィン(中村倫也)を雇い入れて、少年たちの受験技術に磨きをかけようと考える。
へクターが学問の精神を伝えようとするのに対して、アーウィンは変わった切り口で、目立つ答案を作成することを求める。芝居は歴史とは何か、学ぶとは何かと問うのであるが、それと同時に彼らの隠し持つ身体――セクシュアリティの問題も、大きくクローズアップされるのだった。と、書いて、困っている。へクターのオートバイに乗っているときの行動がうまく像を結ばない。身体の『蔭』になっている部分が、見えない。テンポが遅いと感じたフランス語のシーンに、それを感じ取るべきだったのだろうか。へクターとアーウィンはデイキン(松坂桃李)をめぐってひそかに争ったりし、デイキンはアーウィンを追いつめるようにして愛を白状させるはずだ(アーウィンは段々、小さく、かなしく見えてくる)。席が遠くて見えなかったのか。ざんねん。